2020-07-07

少しの倫理観と大きな衝動の話

最近、縋るように好きになったゴミクズのおかげで自分気持ちが分かってきたので、ここに書き留める。

共感特にいらないので、こういうゴミ人間もいるんだなって感じで、軽く見てほしい。

自我が生まれたのはいつぐらいだろう。

恐らく、今から5年ほど前…の15歳の時だろうか。

それ以前の事はほとんど覚えていない。

客観的に、自分を見ながら、断片的に覚えているだけだ。

それでも最後記憶幼児の頃。

母親は殴る人だった。

私は飯を食わなかった。

食う必要も、腹が減る事もあまり無かったから。

それを見て母親は殴ってきた。蹴られて、ごめんなさい許して食べるからと言う私を、ハッキリ覚えている。

殴られて思ったのは、

親に殴られる悲しさと、怒りだけ。

それを慰めてくれる人は誰もいない。

父親だって母親に殴られていたから誰もいなかった。

から心に悲しさを押し込めて、何もかもを考えない様に、引き篭もることにした。

そう、自我が芽生える15年もの間は、衝動のみで生きていた。

親や周りが入れようとする普通の檻なんて知らない。他人の事なんてどうでもいい。ただ自分の為に好き勝手に生きる。それに何の疑問も抱かずに。

勿論、周りからちょっと変な奴として扱われた。でもいじめられる事は無かったし、それなりに楽しく生きていた気がする。

自我が芽生えた理由、今の私になる要因は、

この生き方否定されたからだ。

母親にはお前はおかしい奴だと言われた。

何で私からお前が生まれたんだと言われた。

(今となっては幼少期にお前が私を閉じ込めたからこのゴミクズしか思わないが…)

初めて疑問を持った。

私が生きる意味って何だろう。

異常なら生きる意味はないのでは?

そこで今度は逆に今まで生きていた衝動を押し込めて、眠っていた私が代わりに生きる事にした。普通の檻に入る為に。

15年間生きていた、乱暴衝動革新的で、変化を恐れず他人を気にせず自分の為に生きる衝動性。

もし他人を殴っていいなら喜んで殴るし、

殺せるなら喜んで殺すだろう。

血の赤を見てみたい。

今楽しそうに(私?彼?)と話している君をナイフで裂いたらどんな顔をしてくれるだろう?どこを切れば温かさに触れられるだろうか。

親に殴られていて反撃できなかった弱い(衝動性を私と言えばいいのか、彼と言えばいいのか、わからない)が、少しでも強くなれるだろうか?

小さい頃は魚を釣っては内臓を掻き出す事に喜びを感じていたし、ミミズを引きちぎりそれでも個々に動く姿を見て悦に浸っていたのを、覚えている。

…いや…そんな奴が生きていて良いはずがない。

好き勝手衝動を抑える理性となった私は、俗に言うやさしい、普通の…つまらない人間だ。

窮屈な世を生きる為とはいえ衝動性を、弱い私が抑えられるはずがない。

気付いたらあらぬことを喋っていた。

気付いたら他人を傷つけていた。

気付いたら他人を泣かせていた。

から受けた傷のせいで

法に縛られているおかげで

他人を殴る事は無かったが。

その度に他人から白い目で見られた。

第一印象でやさしいと見られていた人たちから向けられる視線は、

辛い?悲しい?

いや嬉しかった。

やさしい私は本当の私ではない。

それに気付いて貰えることが、他人を傷つけられたという実感が、何よりも嬉しかった。

周りの人間は、優しい私だけを求めてくる。

親も誰も、他人を傷つけたい好きに生きたい衝動性、もう一人の(彼?私?)を認めてはくれない。

衝動性は世に出してはいけないけれど、

それでも今まで私の代わりに暴れて、怒って、守ってくれた、たった1人の私のヒーロー

出来ることなら好きな事をさせてあげたい。

好きに暴れさせてあげたい。

こんなゴミでも認めてほしい。

生きていていい許しが欲しい。

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