これ!!!
読書が苦手というか、読書で染まった人間と喋るのが苦手なのか…すげーわかる!!
再三、「ぼくは東浩紀信者が苦手で、友達がそうなってしまったことについていけずに縁を切る結果になった」という話をしてるけど、あれなんで苦手かというと「本を読んだかどうか」「自分または東浩紀に近い解釈かどうか」がOSになって喋ってるから苦手なんですよ。
目の前にいる人と話せてない感じが
勉強することと、
共感することと、
崇拝することは全部違うんですよ。
勉強してるつもりでも、その文献通りじゃないと納得行かない(崇拝の状態になってしまってる人)と、会話をするとそれが宗教であれ、哲学であれ、目の前にいる人間以外との会話になるから、崇拝してる人と話しても面白くないの
ぼくはその友人の言葉や行動に興味があるのであって、東浩紀に興味があるわけでもなんでもないわけ。
だから、東浩紀の基準で正しいか間違ってるかを判別し始めた時に、この人と会話してる気分になれなくて冷めた。
それが本を読んでる人達の、ある一定の割合の人の態度だから避けてる
逆に、ぼくが二村ヒトシとか、藤沢数希の恋愛工学読んだ時に、なんであんなに病んだり、キレたりしてたかというと、本の内容との距離感がつかめなかったから。
付かず離れず知識として、その人の生き方という1ケースとして冷静に読みづらい
一般読者にとって、下手くそな自己啓発本か、できの悪いラノベぐらいが一番読みやすいのは、本に自分が乗っ取られない(極度に崇拝せず、かと言って拒絶もしない程よい距離間を保ちながら)読めるからだとおもうんです。
逆に言うと、文章がうまい人や論理構築がすごい人の本は宗教じみてしまいがち
色んな人に影響を受けてるから自分の言葉じゃないものや引用・盗用になりがちな形で言葉を吐くことはぼくにもあるけど…なるべく自分なりに咀嚼して、完全に同じにならないように(できるだけ表面上違うけど、本質的には同じこと言ってるぐらいの感じに)したいのよね。
人からいい影響は受けたいし
だけど、崇拝まで行かないように、どうにかこうにか距離を保っていたいという気持ちがぼくの中にあるんです。
崇拝すると、崇拝した相手にも全然関係ないやつと話す時もつまんない。せいかいありきになって自分の言葉、自分の考えが話せなくなるから