卒業生の追い出しと新たに配属される4年生の歓迎会で、ボスはこうこぼした。次のM2の進路の話題になった時の話だ。隣のテーブルで話していた研究室のボスと僕の同期が話していた。僕は隣のテーブルの学生達の輪の中にいたが、ちょうど自分にも関係のある話のようにも思われたので、どちらのテーブルからも身を引き、静かに聞き耳を立てていた。
「進路はどうするんだ?」
ボスが聞く。
「ウチかどうかは決めてませんが、進学しようと思います」
友人が答える。彼は研究室の中でも研究に対するセンスがあって、なんとなくこいつは研究に生きていくんだろうな、というような雰囲気もある。
ボスが続ける。
「そうか。それは良かった。研究っていうのはもともと純粋な疑問を突き詰める学問で、もっとやる人が多くてもいいし注目されるべきだと思う。博士取らないのに他の人はなんで修士でやめてしまうんだろうな。」
友人が答える。
「確かにそうですよね。修士でやめるなら行かなきゃいいのに。」
僕が思ったことを書く前に、少しこの研究室について紹介しておこう。うちはいわゆる基礎実験系の研究室で、出来てから日が浅く、純粋培養ドクターはまだいない。他大からは一人いるが。ボスがドクターを取る時には同期が全てD進し、今は全国各地で教授やら助教授やらをやっている。
実験は楽しい。没頭感があり、仮説通りの結果が出れば手放しに嬉しい。ボスが言う純粋な疑問を突き詰めるっていうのにも賛同できる。しかし、これを20,30年こういう環境で続けていく自信は正直、僕にはない。この自分の中の自信のなさを追求していくと、学問を続けるには、衣食住、さらには心の余裕が必要だということに気付いた。よく言われるようなマズローの欲求5段階説が説明するのにわかりやすいと思う。基礎的研究というのはかなり高いところまで満たされなければ追求したいと思えないのではないかと思った。そして、これが(研究にたいして)優秀な友人と僕の違いだろうと思った。
僕はその辺りのマネジメントが上手くないというか、余裕が無い。実験をすると、時間がなくなるのでバイトできない。実験をする。友人とも飲みに行けない。実験をする。心の余裕がなくなる。実験に失敗する。はてな民らしく大脳が壊れる。というようなループにすぐ陥る。それに対して友人は高学歴一家で、親戚に医者や大学教授、大企業役員などがいる。スポーツもやってたらしいし大脳も壊れていないのだろう。
「純粋な学問」だから参加人口が少ないんだよ。 何でも純度の高いものは参加する人の態度も純粋さが求められ、かつ個々人の才能の差が露骨に顕れる。 そういうのに取っ組める人は...