Macについて調べて出てくる比較記事の大多数に漂う薄気味悪さ、チープな選民思想が本当に心底気持ち悪い。
似たようなことは例えばEvernoteを勧める記事にも言える。恐らく大多数の人間がこの感覚を抱いたことがあるだろう。
あまりに浅薄だ。その愚かさを意識している自分像が文字列から滲み出ていて不快だ。加えてその意識自体に無理解な他者への嘲笑が内包されているときた。
お前はそんなつもりで書いたんじゃないと反駁するかもしれない。だが文字列はもう存在していて、そこからは既に腐臭が放たれている。
「どういうつもりで書いたか」なんてことは問題じゃない。問題は何が読み出されるように書かれているかだ。
思うにこの薄気味悪さは相互理解の軽視に由来する。
自らの製品のよさを理解できないものたち。その区切りを導入することについては何も言わない。
問題は、そうして区切られた「自分たちとは同質でないもの」=「他者」の感性が暴力的に抽象化され、さらにその暴力性が意識されていないところにある。
ドザであるとかマカーであるとか。日本人であるとか男であるとか女であるとか人類であるとか。いい加減にしてくれ。
もちろんだからといって抽象化をやめろなどと言うつもりはない(暴力でないことがこの世にいったいどれほどあるのか)。
もしかしたら分かり合えるかも知れない、「分かり合えない」ということそれ自体すらも分かり合おうとしない態度だ。
形骸化しているかもしれない自らの思考回路についての反省を可能性レベルで取り除く態度だ。
俺はそれを読み取って、ほとんど生理的な次元で、心底薄気味悪いと思う。
他者を汲み尽くせるとだけは思うな。
原因は二つ。 1つは、Macってのはちょっとコンピューターに詳しくなった時に、知ってるとカッコイイ!って思っちゃうものだから。 で、ブログにくだらないこと垂れ流すのは、その、...