2007-10-08

http://anond.hatelabo.jp/20071007234402

気持ちはわからないでも無いし、正直に言って、どこかである程度そういう種類の配慮をしないといけないこともあると思うけど。

それでも結局そういう(=あなたがイメージしているような)種類のコミュニケーションの種類だけで世の中を渡っていくって無理なんだよね。

だいたい、ここに挙げたようなフィルタリングなんかじゃぜんぜんふるい落とせない理不尽さ、野蛮さ、狡猾さ、下品さ、愚かさ、衝動みたいなものを(その「上品な人たち」も含めて)人はいくらでも持っていて、生きていく上でそれらを避けることは不可能だ。そもそも、自分たち自身だってそうじゃない?

http://anond.hatelabo.jp/20071008013431

「名門私立」みたいな同質的な空間では構成メンバーが同質であることよりむしろ、その空間特有のルールにしばられてごく貧弱なコミュニケーションパターンしか存在しないことが問題だと思う。たとえ構成メンバーが実際には多様なコミュニケーションパターンを持っていたとしても、「この空間ではこう振る舞うべき」というルールに基づいて、予測可能な範囲でみんな行動している。そういう空間だと、人間の理不尽さ、野蛮さ、狡猾さ、下品さ、愚かさ、衝動を処理するコミュニケーションを学ぶ機会が圧倒的に少ないんだよね。

もちろんそういうネガティブコミュニケーションだけの問題じゃなくて、要するにどんな種類であれ、コミュニケーションパターンの多様性についての学習機会が少ないということ。

だから、同じような「名門私立」で同じような「予測可能なコミュニケーションパターン」を提供し合った仲間であってさえ、社会に出てそのルールから自由になったとたんに予想外のコミュニケーションをしかけてくるやつがたくさんいて、そのことにカルチャーショックを受けるナイーブなやつ(=名門私立的空間に過剰適応してしまったやつ)が少なからぬ割合で生産されるわけだ。あの頃のお前らは一体何だったんだ?と。賢明なやつらは表で適応してるようにみせかけてても裏で別のコミュニケーション回路を確保してるからね。

「名門私立」だって全くそういう学習機会がないわけじゃないよ、もちろん。そういうところでしか体験できないようなコミュニケーションパターンだってあるよ。でも、トータルでみたらやっぱり多様性が小さいんじゃないかな。

「名門私立」っていうのはあくまで「同質的社会環境」を説明するための例で、このくくり自体にたいした意味はない。だから、名門私立に子どもを行かせること自体は全然構わない。ただ、社会における「名門私立的なもの」に対して、それほど信頼を置かないほうが賢明だと思うよ。

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