はてなキーワード: お笑い芸人とは
自分は関西人だということを主張するために、準関西人がTVが作り上げた関西人像を真に受けて真似しているのではないかという疑惑。
東京にいる自称関西人がお笑い芸人化してしまうのも、TVから「大阪人=お笑い芸人+なんでやねん」というメッセージを受け続けているうちに、関西人自身が、「ああ、関西人ってこんなものか」と納得してしまう。
言葉の問題と同じで、それが大勢の意識の中に定着してしまうと、昔ながら関西人像は崩れ、TVが作り上げたお笑い芸人風関西人こそが、本道であることになってしまう。(あるいは、もうなってしまった。)
逆に、私は関東人のことをかなり誤解しているのではないかとも思う。私が抱いている関東のイメージもまた、TVが作り上げたものでしかないからだ。
→ 全員「心の中にお笑い芸人を飼っている」が正解。あと「理想の人格」はお笑い芸人。
2.会話は全て漫才
→会話は全て漫才「の考え方をベースにしている」が正解。「ボケ/ツッコミ」はコミュニケーションモデルであり哲学である。
3.「なんでやねん」が口ぐせ
→「なんでやねん」を口癖にするには「覚悟が伴う」が正解。ツッコミとして生きるには高いコミュニケーション能力や幅広い視野、高潔な人格が必要であり、何より自己犠牲の精神が求められる。
4.よしもとは大阪で人気のお笑い(TVが祭り上げたから調子に乗ってるだけ)
→大阪では「お笑い」が人気なのであって、「よしもとはその一つに過ぎない」が俺も正解だと思う。
5.ガラが悪い
→標準語圏の人間には「ガラの良い」関西弁と「ガラの悪い」関西弁の区別がつかないので、意味がない。他者との距離や乗車マナーのことを言っているとすれば、それは「ところ変わればマナーも変わる」としか言いようがない。
6.お金にがめつい(あくどく稼いできれいに使うのは美学(例:中央公会堂))
→「宵越しの銭を持たない」東京の方が、普通に考えてグローバルスタンダードではない。
7.おばちゃんパワーは絶大(どこも大体同じ)
→5.と併せて、俺も誤解だと思う。
8.具をぐちゃぐちゃに混ぜて焼くのが大阪風お好み焼き(それは大阪のお店で売っているお好み焼きのこと。一般家庭のそれとは違う。)
→大阪の「安い」店はそうかもしれないが、お好み焼きの標準を論議し出すと長いので省略。だが、お好み焼きは別に関西のソウルフードというわけではないと思う。どちらかと言えばたこ焼きがそう。
9.恐怖と混沌のはびこる町、大阪(東京だって危ない通りの一つや二つはあるんじゃないか?)
→偏見のある標準語圏の人間には危険な街であることに間違いないので「恐怖と混沌」は別に間違いではない。現地人は普通に暮らしているが『冷やかし半分のお高くとまった観光客には危険』な街は世界中にあることだし。
http://anond.hatelabo.jp/20070904095818
最後に10個目を追加
→関西人は「東京人は巨人ファンだ」と思っているのでお互い様。個人的には関西人は阪神ファンに対して社会的に許容度が高いだけだと思う。たとえば、上司が「私はオリックスファンでね」と言ったとしても「仕事場で趣味の話すんな親父」という空気になるのがオチだが、「私は阪神ファンだ」と言ったとしたら、何か急に上司が親しみやすい人格の持ち主であるかのようにみなされ「じゃあ今度みんなで甲子園行きましょっか!」という空気になる(その場合別に課員が阪神ファンであるとは限らない)というような。
http://anond.hatelabo.jp/20070904095818
1はさすがに違うと思ってた(お笑い芸人比率5割ぐらい?w)けど、他はほとんどそう思ってた。いや、8については知らないっていうか気にしたことなかったけどね。
2. 会話は全て漫才
3. 「なんでやねん」が口ぐせ
4. よしもとは大阪で人気のお笑い(TVが祭り上げたから調子に乗ってるだけ)
5. ガラが悪い
6. お金にがめつい(あくどく稼いできれいに使うのは美学(例:中央公会堂))
7. おばちゃんパワーは絶大(どこも大体同じ)
8. 具をぐちゃぐちゃに混ぜて焼くのが大阪風お好み焼き(それは大阪のお店で売っているお好み焼きのこと。一般家庭のそれとは違う。)
とは書いてみたものの、ほとんどが昔話か妄言になってしまうのかなあ。今となっては関西人ですら関西のことを知らない可能性が高い。関東のマスコミが全国ネットで映し出す関西の姿に慣らされてしまっているから。
久しぶりに告白なんてしたからフラレてしまった。
にやにやしながら課長が話しかけて来る。お昼過ぎののんびりした時間だ。
「いや大丈夫」
「そうですか」
「キミ使ってないのか」
「恥ずかしがりやですから」
遠くで課長が笑っている。
僕は自分のパソコンのディスプレイに向かって今日30回目のため息をついた。
彼女との出会いは高校で、2年の時に彼女を知ってからは何となく目の端で追いかけるようになっていた。そして3年のクラス替えで同じクラスになり、席替えを2度して、その2度とも隣同士だった。その時からの付き合いだ。付き合いと言ってもただの友達で、どちらかといえば卒業してからの方が仲良くなった。
きっかけは、彼女から留学してロングビーチ(大磯ではない)に今いるというメールが届いてからだ。それから毎日のように(一時途絶えた時もあったが)メールをするようになった。もうあれから3年が経つ。僕は大学を卒業し、社会人となった。メール以外では彼女が帰ってきた時には帰国祝いに飲みにいったり、銀杏BOYZの出るライブに行って騒いだりした。そしてそこで自分の好きな音楽や好きなお笑い芸人や将来の悩みやお互いの家族のことを話した。僕たちはあまり喋る方じゃなかったけれど、ぽつぽつと語り、だいたいのところで嗜好は一致していた。でも今思うと、僕が喋るのが苦手だから、彼女が無理にあまり喋らなかったんじゃないかという気がする。そんなメール帰国メール帰国という関係が続いていた。
で、告白のことを書く。
2007年7月1日。きのう。彼女から誘われた相変わらずの激しいライブが終わって(彼女はなんでこんなにライブが好きなのか、この点よくわからなかった)のんびりとジュースを飲みながら渋谷のNHK近くの花壇に座った。夜の10時くらいだったと思う。そして今日の余韻を味わいつつなんとなく切り出した。
僕は7年の月日を考えながら、ほんとにでもやっとだった。どうしていままで言えなかったのか、それはいままでのこの気持ちいい関係をただ壊したくなくて、そう壊したくなくてそれだけだった。怖かった。でももう僕のこころは色とりどりの風船を部屋にぎゅうぎゅうに詰め込んだみたいになって、どうしようもないところまで来ていた。そして社会人になって、行動に移すことの重要さの学んだから。
答えはすぐ帰ってきた。いまはごめんって。ちょっと沈黙。僕は出来るだけ丁寧にタバコの火を消して、駅行こっかと最大の笑顔で言って立った。
歩きながら、あーあふられちゃったなーというとごめんごめんと。謝られてもな。
さすがに7年もこの瞬間のことを考えているとエラー発生時の処理も考え抜いていた。ついつい人は正常ルートばかり考えてしまうけれど、else文やdefault文といった異常系処理は忘れがちで、プログラムがメモリ空間を漂い、システムダウンになりかねない。
結局いつもみたいにくだらない無駄話をしながら、渋谷駅に着いてしまった。井の頭線の改札の近くで握手しながらごめんごめんという彼女にいいよ大丈夫でも俺は好きだなんていいながら、お互いもう会えないのかなって考えてたと思う。
僕は地下鉄に乗って、窓に映る哀れな自分を見つめながら、iPodからMy Bloody Valentineの曲を失恋ソングに選ぶことにした。
ねえ、もう、会わない方がいいの?
実力の伴わない連中が評価されてプッシュを受け、あっという間に見捨てられて消費されるシーンが、
実力とは何か?誰が持っているのか?ですね。
売れるには売れるなりの力があるんです。ただ、それが歌唱力ではないだけで。
彼女達が提供しているのはエンターテイメント=芸であって、お客が喜んで、そして、お金を落としてくれればそれで良いのです。そのための「売り」が歌う事であり曲であるだけで、それが(優れているにこしたことはありませんが)特に優れている必要は無く、それ以外に、たとえばファッションやしゃべり等が出来ればそれで良いのです。重要なのはそれらを如何に魅せるかという能力、つまりプロモーション=演出なんです。つまり、その演出の手段として彼・彼女たちがたまたま曲や歌唱を選んだだけで、たとえばスタイルを選んだ人はグラビアアイドルになったり、しゃべりを選んだ人はお笑い芸人になったりするわけです。
そして、それらプロモーションを行っているのは何も本人だけではなく、プロモーター・プロダクション・プロデューサーといったプロがいるわけです。彼ら視点・立場にとっては、お客に次々とお金を出してもらった方が良いわけで、そのためには次々と消費してもらうほうが良いのです。いわゆる消費社会というやつの構造ですね。製造業では資源環境問題で脱却をはかっていますが、発生する物理的ゴミが少ないとか、物理的資源の消費が少ないので問題にならず、そのために残っているサービス業の、その現状の一つでしょう。
次へ次へ新しいカモを求めるうちに本当に実力あるアーティストが分相応の評価を受けにくくなってるのかね。
芸能界・娯楽産業が大衆をカモにしているかどうかは意見が分かれるところかもしれませんが、それは置いといて。
「実力あるアーティスト」とはいったいなんでしょうね?
先の通り、人を喜ばせてお金を頂く芸能人においては、スタイルや歌唱力が如何に優れていようとも、多くの人を喜ばせることが出来なければ「能力がある」とは呼べないのではないでしょうか。いや、確かに何か一つ秀でた芸があれば人々を楽しませることが出来るでしょうが、それにしたって魅せ方があるわけで、プロとしては、やはり演出の力の無さ、その道の人との出会いが無かったという運としか言い様がないですね。古今東西、能力があるから売れるとは限らないわけで。
http://anond.hatelabo.jp/20070208020932
↑書いた者です。
こうやって名乗ったりするとコテハンっぽくウザがられるんだろうかとちょっとビクビクしながら書いてみる。
一日経って、トラックバック欄見て噴いた。こういう会話というか議論がしたかった。同じ事をブログに書いても、増田なんて知らない人しか見ないのでたぶん反応なんて無かっただろう。
自分はブログを持っている。心底どうでもいいことや身内ウケしかしないようなネタを書いてるブログ。それはそれで楽しいが、ふと時事ネタや思ったことで書きたくなる。でも、誰もそんなものは期待していない。お笑い芸人がいきなり「トイレ会長の参考人招致について云々」とか言い出しても周りは冷めた目で見るだけ。
だから増田に書いた。
でも自分は、「誰だか分からない、匿名のブログの集合体」が欲しかったのではない。「くだらない事でも議論が出来るブログ」が欲しかったんだ。
だから、
もし自分が次の増田への書き込みで「今度から○○と名乗ります。名乗ると言ってもどの書き込みが自分か分かるように名乗るだけです。これからもよろしくお願いします。」としたらどんな反応が有るんだろうか。
もし自分が次の増田への書き込みで「今度からはてダに書き込みます。はてダだからといって今までとやってることは同じです。これからもよろしくお願いします。」としたらどんな反応が有るんだろうか。
書いてるうちに自分でも訳分からなくなってきたので寝る。
もし、一日経って今回のように名乗ってエントリする事に批判的なコメントがほとんど無かったら、また同じように名乗って書きます。