はてなキーワード: 大象無形とは
増田で『老子』もしくは『魏書』を引いている投稿があったので、久しぶりに『老子』の原文に触れた。
「大器晩成」っていつも疑問で、漢代以降の「大人物(あるいは大事業)は時間をかけて完成するのだ」的な解釈でもいいんだけどさ。
最近、古い文字資料が出てきて「大器免成」と書かれてて、「大器」は成立することを免れる、だから成立しないのだ、なんて逆の解釈することもある。
この新解釈は耳目を引きがちだが、それゆえに、取ってつけたような印象を受ける。
老子の原文、「大器晩成」がある辺りはおんなじような文構成になっている。
明道若昧。進道若退。夷道若纇。上徳若谷。大白若辱。廣徳若不足。建徳若偸。質眞若渝。大方無隅。大器晩成。大音希聲。大象無形。
明るい道は暗きがごとし。
道を進んでいるようで退いている。
高い徳は谷のように深く。
大いに白いものは辱(よご)れているように見え、
広い徳は、足りていないように見え、
剛健な徳は、愉しんでいるように(怠けているように)見え
大きな四角には隅がない。
大きな器は晩成する。
大きな音は、その音が聴こえない。
大きなカタチは姿が見えない。
この辺りの文章は、ものすごく良いモノや大きいモノは、それゆえに逆のようにも見える(あるいはそのように見えない)、という文脈だ。
A大きすぎる四角は、それゆえに四角く見えず隅がない。
B大きすぎる音はそれゆえに聴こえない。
C大きすぎる物はそれゆえに見ることができない。
という流れ。
これを踏まえると、「大きすぎる器は、それゆえに完成しているように見えない」とするのが妥当なのではないだろうか。
だから「晩成」でも「免成」でも良いような気がするんだ。
出来あがるのにめちゃくちゃ時間がかかる⇔いつまでたっても完成しない って、意味が通ずるよね。
ここでむしろ重要なのは、出来あがるのに時間がかかるorいつまで経っても出来ない……ように見える! じつは大器! ってところなんじゃないだろうか。
大きな器は、大き過ぎるあまり、出来あがっていないように見えるのだ。そう考えるのが文脈的ではないだろうか。
これを踏まえて現代的に譬えると「器のでかいやつは、器がでかすぎるあまり凡人にはなにやっているか伝わりにくい。あるいは、アホみたいな振る舞いに見える」とでもなるだろうか。
「晩成」か「免成」か、の議論だと大きな器が成立するかしないか、すなわち大人物は成功するかしないかに議論が向きがちだ。
しかし原文の文脈に照らすと、大器は一見すると器として成っていないように見える。
(徳のある、あるいは「道」に沿う)大人物は一見してそのように見えない、とも読み得るのではないかというのが本増田のいいたいところだ。