はてなキーワード: アニミズムとは
「皆さんは神を意識したことがありますか?」の増田ですどうも。
私も神というのが統一的な概念に繋がると考えたことは無いですね。
というかアニミズム的には突詰めると人間も含めた自然全部=この世そのものが神の根源ってなっちゃいますが、私とあなたが別人のように神々もまた別々だという認識ですか。
ま、神話的神々は親兄弟的だったり、死んだ人はすべて祖先と一括りだったりするんですが。
というか、ヌルイ信仰だからか知らないけれど、日本で言う「神」というのは人智は及ばないのに全然絶対的ではない人と肩を並べえる存在なんですよね。そういうお気楽感が良いのかもしれません。
というか、信じる信じないと居る居ないが別かも。なんにせよ、自然の身近でありながら理解しきれない事柄を写した理解しきれない存在が神々なんで、よくわからない存在だから気にしないというのもあるかも。
http://anond.hatelabo.jp/20090910183829
元増だけど、幼児洗礼というか、それこそ乳児の時からの洗礼だから、一神教的な考え方はやっぱり結構強かったんです。仏教や哲学を学んで、神はいろんな形を取るという理解に今はいます。神的なものの表れをある人から見ると一神教的神になったり、仏になったり、神社の神様になったりという感じ。都合良いというか、いい加減というか。でも、はじめに僕の肩を叩いてくれたのはキリストさん、という縁はあります。彼を知ったからこそ、マザーテレサだけでなく、八幡さんや空海さんや一休さんに出会うことができたと思ってます。
で多分増田もわかっていると思うけど、僕が前の日記で言及したのは、その「一神教的」な神のことです。
曰く言い難いけれど、ちょっと、抽象的な感じがするんですよこの一神教というのは。
>>しかし、なんにせよ、アニミズム的な神道と一般的神や信仰とは異色の仏教とを、さらに神仏習合を経た
いまさらだけども。
ちなみに私は神社や神事に敬意は払うし浄土真宗は悪くないと思うが、信者といえるのかわからない。檀家でありお宮参りもした身だけれど。
http://anond.hatelabo.jp/20090910042302
神の存在を「肯定」するか「否定」するかの二つしかない。
これは思いつかなかった。もちろんキリスト教徒でなくとも肯定か否定はあるのだけれど、増田の場合、特定の神の肯定か否定になってしまうわけか。
つまり、神を選べない。
それが、敬虔な信者である親を持ったからなのか、物心付く前から一神教の信者だったからなのかはわかりませんが。
しかし、なんにせよ、アニミズム的な神道と一般的神や信仰とは異色の仏教とを、さらに神仏習合を経た日本という神道と仏教の国は悪くないなと思った。
で、タイトルの話はこっち。
どうなのだろうか。地域的なこと、都会か田舎かというのもあるだろうか。
私自身は、神社にいけば神が祭られているとおもうし、鳥居や注連縄や榊や紙垂に出会うと神を意識する。また、お墓や仏壇や彼岸や法事では仏を思う。
皆さんはどうだろう。神を意識したことがありますか?
今年の梅雨はとても長い。けれども、雨量の少ない梅雨になんの魅力があるんだろう。雨は降ってこそ雨たりえるのにな。
「認める/認めないという話」は、これまでのやり取りで出てきた、「自分を認識して欲しい」ということを話題にしたかったわけで、
意識が開いている時というのは、自分以外の世界(他者とか)を認める/認められることが出来る状態で、
意識が閉じてしまうと「小さな世界」で完結した状態になるので、「小さい世界」を「大きい世界」と混同しちゃって孤立するから
意識を開いておく必要がありますよ。
「認める/認めないという話」が「自分を認識して欲しい」という話題をさしていることは分かっていたから大丈夫。「意識の開き」に関することも、把握いたしましたよ。
その上で、以下の文面に対する考えをば。
意識の状態にかかわらず、「小さい世界」同士あるいは「大きい世界」との間は
干渉しあう関係であるという見方なのかな。
うん。そう言うものだと私は思っているよ。なるほど、これが私とあなたの差異だったわけだ。
どうすればうまく表現できるんだろうか、突飛な喩えになるけれども、個人的に「小さな世界」は川における水分子のような存在だと思うんだよ。
で、「大きな世界」は、下降していく流れというか、河川の形そのものなんだよね。
だから、ひとつの自我としての「小さな世界」が完璧に閉じていようが開いていようが、流れの前ではどうすることもできないし、隣り合う水分子の影響を受けざるを得ない。
一方で、絶え間ない「小さな世界」の奔流は道しるべとしての「大きな世界」を削り続けていて、いつも形を変容し続けている。
そんなものだと、私は考えているわけなのでございますよ。
波形と共感の話題について。
逆位相で打ち消しあうことはままあるだろうと思うよ。人はそれぞれ違うから。
打ち消して、共鳴しあって、時には全然形が違うのに増幅しあったりして、関わりあっていくんじゃないかなあ。
アニミズム的精神になるのかもしれないけれどさ、やっぱり土地や物体が存在することからも人は影響を受けるし、物体同士でも互いに影響しあっているんじゃないのかな。
うーん、難しいね。その通りでもあるけれど、それだけでもない。
私は土地や物体が存在することにおける世界に、二段階の視点を持っているわけなのね。
つまりは、「意識」や「命」などの個体数レベルでの概念と、積み重なった「意思」だとか織り上げられた「精神」みたいな、総体としての「小さな世界」を見ているわけなのです。
九十九神ってあるじゃない。
そこに神が宿っているのかどうかは分からないけどさ、外部にある無数の「小さな世界」と変わり続ける「大きな世界」から影響を受けてきたんだもの。
始めは空の器だったかもしれないし、微々たる世界しか持ちえていなかったかもしれない。もしくは、作り手の意識のみが込められていたのかもしれない。
けれど時を経ることによってさ、やがては総体としての世界になっていくんじゃないかと思うんだよね。
……動物は自我としての「小さな世界」が強すぎるから、存在として発する波形だけでなくても思いをそのまま相手に伝えることができてしまう。
言葉や刺激、肉体的表現など、細分化されたが故に、意図を明確に示唆できすぎてしまう手段をたくさん持っいると思うんだ。
だから、なかなか総体としての「小さな世界」になることができない。もちろん、それが悪いってわけではないのだけれども。
ただ、そうだからこそ人は、総体としての世界を持ちえている自然や音楽、芸術などに惹かれていってしまうのかもしれないって思う。
癒しや安らぎを求める心理も、似たような原因から来ているのかもしれない。
うーん、ここまで書いてみて気づいたけれど、「大きな世界」の立ち位置が曖昧になってきてしまったかな。再考しなくては。
コミュニケーションは重ねることに意味があるんじゃないかな。一度で伝わらなくても、二度目で十分理解することができたんだ、何を思い悩むことがあるんだろう。
繰り返したっていいじゃない。にんげんなんだもの。
長い。梅雨と同じくらい長い文面やわあ。
天気が悪くなるかと思ったけどそんなこと無かったぜ。
認める/認めないという話って一文からの件が個人的に難解なのだけれど、私の捉え方でいけば、「意識は世界に対して開く」。あるいは「常に開いている」
超絶的に言葉足らずでした。
「認める/認めないという話」は、これまでのやり取りで出てきた、「自分を認識して欲しい」ということを話題にしたかったわけで、
意識が開いている時というのは、自分以外の世界(他者とか)を認める/認められることが出来る状態で、
意識が閉じてしまうと「小さな世界」で完結した状態になるので、「小さい世界」を「大きい世界」と混同しちゃって孤立するから
意識を開いておく必要がありますよ。
ということをあの字面から読むのは無理ですね。すみません。
#記述する前にどんどん言葉が簡素化されて、実際に表に出ると意味不明というのは立派なコミュ障害か
といったところで、
意識の状態にかかわらず、「小さい世界」同士あるいは「大きい世界」との間は
干渉しあう関係であるという見方なのかな。
それぞれの人がそれぞれの波形を持っていて、たぶん分かり合えるってことは、一部だけでも同じ波形が生まれることなんだろう。
すごく、わかりやすいイメージだ。
逆位相で打ち消しあうとかもありそうw
アニミズム的精神になるのかもしれないけれどさ、やっぱり土地や物体が存在することからも人は影響を受けるし、物体同士でも互いに影響しあっているんじゃないのかな。
今日は午後から雨が降るらしい。
私の考え方では、世界は大きい世界だけで、自分たちの存在はあくまで世界の一部と言う捉え方。
世界の捉え方に多様性があるのを許容するのも、私が抱く多重世界観なのですよ。
だから、当たり前だけれど、あなたの考え方を否定するつもりはないし、そもそもそんなことは私にはできない。
ただ、おそらく私は、「意識」とか「命」と呼ばれれいるものと「世界」そのものを、言葉が違うだけで等価値で見ているんだと思う。
認める/認めないという話って一文からの件が個人的に難解なのだけれど、私の捉え方でいけば、「意識は世界に対して開く」。あるいは「常に開いている」
それは個人個人の「小さな世界」に対してもそうだし、共有している「大きな世界」に関してもそうだ。
私という世界が行動を起こすことは、立脚する足場はもちろんのこと、隣接する周りの人々にも影響を及ぼすことだから。
うーん。ここまでの流れの中で、私にはあなたとの差異が上手に見出せていないから、少し歯切れが悪くなってしまうな。難しい。
どうなんだろう。でも、鳴ることとか震えることって、要はある対象が幅を持って移動することを差している訳じゃない。
緩やかにたゆたう波を具象として考えるのは、もしかしたら一番イメージしやすいのかもしれないね。
それぞれの人がそれぞれの波形を持っていて、たぶん分かり合えるってことは、一部だけでも同じ波形が生まれることなんだろう。
あと、共鳴したりするのは人同士だけじゃないとも思ってる。
そうだね。存在というものは少なからず、何かしらの波形を有しているもの。
人は言葉のない音楽に感動するし、物言わぬ芸術に胸を打たれてしまう。
大自然の中ではその偉大さに平伏するような気分になるし、人工物に囲まれて無機質な気分になることもある。
アニミズム的精神になるのかもしれないけれどさ、やっぱり土地や物体が存在することからも人は影響を受けるし、物体同士でも互いに影響しあっているんじゃないのかな。
日本語の豊かさを感じるのはこのような言葉遣いに出会ったときだ。
能動と受動を区別しない、あるいはできない境地に達することが悟りである、みたいな信念というか。
作為と自然が溶け合ってしまうというか。
日本人ないし日本社会は世俗的であるといわれるが、裏返すと、現世のそこかしこに宗教的なものが遍在しているような気がする。といっても八百万の神とかアニミズムではなく、現世こそが修行の場であり、そこで得られた結果によって救済されるかどうかが決まるというか。だから、何よりも事実を重んじる。観念や知識よりも事実が大事。しかし、その事実もまた拡大解釈されたものであり、たとえば体感不安といったものも含まれてしまう。
日本がいまだにデフレを脱却できない、あるいはしようとしないのも、デフレというのはある種の人々にとって望ましいものなのだろうと思う。それはつまり、現世における救済の閾値が上がることで、より信仰を確かめやすいものとなるのだろう。あるいは蜘蛛の糸を垂らす、垂らさないといった生殺与奪の権利を恣にしておくことへの欲望なり快感もあるのかもしれない。
間違ってるかもしれないが、そうとしか思えない。
お前に足りないのは覚悟だ、って言っていい?
俺もしゃべるの苦手だし、人の名前覚えられないし、テレビはニュースしか見ないから話題もないし、友達もいないし。
絶望しかけた。
しかけたけど、しなかった。
「俺は俺。よそはよそ。それ以上でもそれ以下でもない」
ってわかったから。で、わかってからは人と話すのが段々苦ではなくなってきている。少しずつだけど。
どうしてそうなったのか、いまだにわからんのだけどw しばらく神道の本を読みあさってたのが多少影響しているかもしれん。アニミズム万歳。いや違うかも。
世の中「立派な人間になれ」圧力が強すぎる。そんなのは良い大学でた連中が勝手にやってくれるから有り難く任せとけ。
俺たちは毎日毎日生きて最後に死ぬ。それだけ。喜びも悲しみも幾年月。覚悟さえすれば生きるのなんて気楽なもんだよ。
靖国参拝問題について以前から疑問なのは、そもそもどうして戦争責任やら内政干渉やらといったことが主題になるのか、ということだったりする。だって、(乱暴な言い方をしてしまえば)善人だろうが悪人だろうが死んだら等しく一柱の神になるというのが日本古来の宗教観でしょう。自覚的にしろ無意識にしろ、そうやって日本人は祖先を祭ってきた。仏教やキリスト教の伝来とともに流入してきた天国や地獄の概念さえ、そのアニミズム的な死生観と混ざり合い、和風のカレーライスのようにマイルドになってしまった。死者はみな尊い――ここで「戦犯かどうか」などという些細な属性は無に帰す。
参拝に反対しない人々の心情としては、戦争に関して本当に責任がないって信じているとか国家のために戦った英雄だと考えているとかそういうこと以前に、単純に「既に死んでしまった祖先の墓を掘り起こすような真似はちょっと……」という感覚があるんじゃないかな。賛成も反対もない。つまり、問題はそうした宗教観の相違にあるわけで、大陸流の骨太の死生観を持つ人たちにどうやって有耶無耶の美徳を伝えれば良いのかという点を議論しないでいったい何を議論するというのか、と思う。日本が国粋主義に向かっているとか中韓が自国の政治問題を隠すために反日感情を煽っているとか、そんな表層の議題は取り上げれば取り上げるほど問題の本質から遠ざかる。
単なる国際政治や歴史認識の問題じゃない。これは宗教間の対立なのです。宗教戦争の経験のない日本は、はたしてこの問題に上手く対処できるんだろうか(というか、そもそも円満に解決した宗教問題って人類史上に存在するのかな?)。8月15日に閣僚がみんな公務で海外へ行っているよ不思議だねー、というのは割と上手い対応に思えるけれど。
「公務としての」靖国参拝にこだわった彼とか彼にしても、パフォーマンスとか権力の誇示を意図したというより「まつりごと(政治)」と「まつりごと(祭事)」を同一視する伝統的精神の影響大な気がしている。国家元首としてそうしないと気持ち悪かったんだろう。でも、それを言っちゃうと政教分離の大原則がピンチになるからね……
大体、仏教に神道が少し入っているのが、日本人の形式的儀式的な宗教の中心なのに、なぜか宗教の話がことごとくのように神の話になるとか、それが面白かったり。
歴史の流れではあるけれど、悟りとか禅とか念仏とか、どちらかというと自身の精神との対話から、親兄弟や祖先につながる仏教が中心とされながら、でも、実際のところは山や森に神秘を感じ、占いやら風水やら神事やら、その場所にある「何か」を対象にしてしまう。そういった典型的アニミズムでありながら、「宗教」というと、仏教的人生観・精神論ではなく、その場の「何か」であるアニミズム的神でもなく、なぜか西洋の絶対的善や存在である神の話になっちゃう。
なんだろ。「宗教」ってのは非日常であり特別なもので、そこらのお寺や森や川にはない物、なのだろうか。
政教分離とか言っても、大きな新規公共工事では例外なく神主さんを呼んで地鎮祭をやってても、何も問題にならないし、たぶん、納車した公用車とか、自治体のシステムに安全祈願とかやってそうだし、お守りもありがち。でも、十字架を大々的に付けたらなんか文句が出そうな気がする今日この頃。
「将来いつか分かるかもしれないだろ」程度のニュアンス
『将来「分かる」かもしれない』!ニュアンス!
それだけか。
それこそ『「分かる/分からない」の度合いが全然違うのを無視して一緒くたにすんのはどうかって思う』けどね。だってオイラは『原理的に「わからない」』って話をしてたんだから。
元からの話の流れは当然読んでるよ。一応言っておくけど。流れの中であんたのエントリの内容がおかしいと思ったから、特に「ここぞ」ってとこで横入りしただけなのに「流れ知らない奴は口出すな」みたいにヒートされても困り増田。そもそも
のエントリが「染みついたアニミズムを意識してない」というレベルで「日本人の宗教観」を語ってたのに
確かに魂という概念を日本人は知ってはいるが、それは存在を肯定しているわけじゃない。
「魂って本当にあるんだぜ」なんて真顔で言ってる奴は普通にドン引きされるじゃん。そして「あいつなんか宗教はいってんの?」と言われる。
と表面的な(意識の)レベルの話に引き落としたのがあなたのエントリの問題点であって、そこまでだってもちろん話の流れはあるだろうけど、この部分が部分として問題であることには何の変わりもない。
宗教やってると言うと馬鹿にして「ドン引き」する癖に、壁に鳥居の画が描いてあるだけで立小便が減ったり、国の首相が特定の神社への参拝にこだわってそれがニュースになる国。まさにこの国の人は「染みついたアニミズム(という形での自らの信心)を意識してない」のがほとんどだし、その割りに宗教という言葉に妙な警戒感ばかり抱いて、それが「政党」という形さえ取ってれば「まあいいか」と流してる。変な国だね。その意味でオイラは、先のエントリの書き手の方が圧倒的に正しいと思う。そもそも生活を、100%目に見える合理性だけで全て組み立てているという生き方があるとすれば、それこそ不自由極まりない、究極に不合理な生き方だしね。