7月はわたしの誕生月。誕生日が近づくたびおばあちゃんのことを思い出す。
おばあちゃんがしんでにまったとき、信じられないくらい悲しかったけど、それと同時に「ようやく楽になったんだね」とも思った。
おばあちゃんの選択を責めることなんてとてもできない。生前とても辛そうにしていたのを知っているから。
生きている限り、苦しみは続く。それに果てがないと悟ったとして、周りもそうだとわかっていて、どうやって生きていてほしいと言えるだろうか。そんなの他人のわがままだ。苦しみは本人のものでしかないし、他者は代わることができない。どんな慰めの言葉も、言葉でしかなく、具体的に辛さを取り除いてはくれない。
だから、おばあちゃんがそれを選んで、もうそういう思いをしないで済む状況になって、ようやく辛くなくなったのかな、それならいいのかな。と思った。
わたしにとって、おばあちゃんの自死を否定することは、彼女苦しみ続けてくださいと伝えるのと同じだ。
深い悲しみから解放されたんだな、と思わないとわたしは自分を保てない。
けれど、それを選ぶ前に人はある程度信号を出している。
それを慢心して、もしくはその可能性すら考えず、当事者にこの方法以外ないと踏み切らせた結果が、自死だ。
ひとをひとりころしている。
おばあちゃんはわたしよりも遥かにやさしく、うつくしく、善いひとだった。
しぬべきではなかった。でも、しんでしまった。
代わりにしねれば、どんなによかっただろう。
おばあちゃん、会いたいな。
おばあちゃんなら自殺でもほぼほぼ大往生やろ
お、酔っ払いかな?
お酒飲めたらよかったな
おばあちゃんに生きていてもらうためには身体の衰えをなんとか解決しないといけないので、生き返らせるなら永遠の命もセットでなければならないが地球のドラゴンボールは一度に叶...