2023-07-13

自殺メッセージ性を見出しすぎ

実感したことから言って、希死念慮苦痛に対する反応だ。自殺はその結果の一つである

  

もちろん全ての人に、苦痛の反応としての希死念慮希死念慮の結果としての自殺が当てはまるとは思わない。

けれど、今回の某氏場合は、ラジオ番組の話しぶりから察するに、実際に死ぬしかないなんて状況はほぼあり得ないのに、それを冷静に考えられない状態になっていたのだと思う。

このとき当人は強力な非合理的な信念を持っている。大袈裟に感じられるかもしれないが、自分に何事もなく翌日がやってくることすら意外に感じるようになる。

そういった状態にある人物が、自分の死を社会位置付け、そこになんらかの含意を与えようとするゆとりを持っていたとは思えない。

  

かに影響を与えるためだとか、贖罪手段であるとか、とにかくそうやって死に何かを見出すのは勝手だけれど、少なくとも当人がそれを第一理由として意図することはまずないと思う。

まず苦しみがあって、次に(主観において)死ぬことが自明になり、そして何かを契機に死ぬである。主張を挟み込むほどの余裕はない。

ありもしないもの見出しすぎじゃないか

  • ようはあなた自身が自殺未遂経験者でその経験を自分語りしたいってことでしょ? 自分の経験と結びつけて「メッセージ」を受けとって自分勝手に想像で語ってしまうって意味ではみん...

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