2022-12-30

anond:20221230032323

Colaboを叩かない人たちは、本来有意意義に使われて行き場のない、救われるはずだった人々の人生に対して責任を負えるのか。

ここ最近のColaboを擁護人たちの行動は目に余ると感じている。

監査請求の結果のみならず、Colaboは現在まで自分たちがやったことの記者会見などロクに行わず被害者アピールに終始してきていて適切な説明責任果たしてこなかった。

からしつこく住民としての知る権利行使によって時間と労力を割かれている。暇と財産があるものしかできない本来必要のない行為である

そうした行為によって、本来活動に割くべきリソースを奪おうとすることの意味を分かっているんだろうか。

もし、Colaboが存在しなかったことによって回された予算で、本来救えるはずだった行き場のない人々が救われなくなったとしたら、どうするんだろうか。

叩かない人たちは、救われなかった人々の人生に対して責任を取れるのか。本人を目の前にして、不適切会計を追い必要性の有無を問いただすことが不要だと面に向かって言えるのか。

Colaboに手心を加えることが、どういう結果をもたらすのかをよく考えるべきだ。自分たちがどういう思想、どういう勢力に手を貸しているのか、何を奪っているのか、今一度熟慮してもらいたい。

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