2020-03-01

知的障碍者幸せじゃない と思う

ここで言うのは、知能が3歳児くらいで止まった人の事を言う。

でもこの「知能が三歳児」という所に注目して欲しい。

まり誰しも、生まれた時は知的障碍者だったわけだ。そしてなぜ僕らが成長していくかと言えば、そっちの方が幸せからだ。

三歳児にいつまでも居るのが幸せだったなら、たぶん全人類は3歳児で終わってると思う。

他人自然からの厳しさから自己を守るため。そして生殖学習、発展と言った人生コンテンツを楽しむための知能。

障害者も僕らも、同じ人間だ。同じ人間からこそ、三歳児で止まった知能を持つ人間は、他人危害を加えないように施設に閉じ込められ、

外の世界を知らず、外の世界に出れば迷い不安になり、恐怖の目線で見つめられ、皆避けていく。

僕らや彼らの親も、心のどこかで「知的障碍者から、そんな事は気にしないだろう」と思っているだろうが、

恐らく感じてるんじゃないか。「知能という檻」に閉じ込められて生き続けるのは、果たして幸せか。

足が無ければ、足に代わる何かを見つければ、成長しても幸せに生きる事が出来る。

でも今のところ、知能に代わる何かは存在しない。足が無い人に、義足車いすが無かったら、彼らは行きたいところに行けず、トイレに行くだけでも這って行かなければならなかった。

いつも隣に人が居て自分の事を監視してもらわなければ、食事トイレも難しいだろう。彼らが幸せになれるのは、「義足車いすという、自分を補強する何か」があったからだ。

それはあまりにも惨めで、肉体的にも辛いのではないか

知能は目に見えないか無視しがちだけれど、彼らは昔からずっとその世界に生き続けている。

これはファンタジーだけれど、義足対応する『何か』が彼らには必要ではなかろうか。

  • 三歳児が三歳児並の知能だったら障害者なのか 斬新な定義だな

  • 肉体という檻に閉じ込められた哀れなやつが何か言っとる

記事への反応(ブックマークコメント)

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