ここで言うのは、知能が3歳児くらいで止まった人の事を言う。
でもこの「知能が三歳児」という所に注目して欲しい。
つまり誰しも、生まれた時は知的障碍者だったわけだ。そしてなぜ僕らが成長していくかと言えば、そっちの方が幸せだからだ。
三歳児にいつまでも居るのが幸せだったなら、たぶん全人類は3歳児で終わってると思う。
他人や自然からの厳しさから自己を守るため。そして生殖や学習、発展と言った人生のコンテンツを楽しむための知能。
障害者も僕らも、同じ人間だ。同じ人間だからこそ、三歳児で止まった知能を持つ人間は、他人に危害を加えないように施設に閉じ込められ、
外の世界を知らず、外の世界に出れば迷い不安になり、恐怖の目線で見つめられ、皆避けていく。
僕らや彼らの親も、心のどこかで「知的障碍者だから、そんな事は気にしないだろう」と思っているだろうが、
恐らく感じてるんじゃないか。「知能という檻」に閉じ込められて生き続けるのは、果たして幸せか。
足が無ければ、足に代わる何かを見つければ、成長しても幸せに生きる事が出来る。
でも今のところ、知能に代わる何かは存在しない。足が無い人に、義足や車いすが無かったら、彼らは行きたいところに行けず、トイレに行くだけでも這って行かなければならなかった。
いつも隣に人が居て自分の事を監視してもらわなければ、食事もトイレも難しいだろう。彼らが幸せになれるのは、「義足や車いすという、自分を補強する何か」があったからだ。
三歳児が三歳児並の知能だったら障害者なのか 斬新な定義だな
肉体という檻に閉じ込められた哀れなやつが何か言っとる