今は持ち歩いていないが、小中学生の頃は、いつもの物差しを持ち歩いていた。
少し古い竹の物差し、プラスチックの折り畳みで、広げると大きくなる物差し。ステンレスの物差しもあれば、紙の物差しもあった。
僕はプラスチックの折り畳みの物差しで、よく大きく広げて遊んでいた。コンパクトでかつ長く計れる。筆箱サイズで30㎝まで測れてしまうのが楽しくて、何度も広げたり閉じたりした。
人の価値観というものも、いうなれば物差しみたいなものだろう。物差しで人を測るだとか、慣用句でもよくつかわれる。
現実の物差しと同じように、全て同じ規格で出来ているようで、どれも微妙に、状態によって差は出てくる。
それでも、その物差しで人を測るのは楽しい。優劣をつけて、自分と他人の長さを比べて、自分を追い立てたり、悦に浸ったりしていた。
そんな人を測る物差しが、中学2年生の頃に壊れた。精神病にかかり、毎日が反吐の中でもがくだけで通り過ぎた。
物差しで人を測ることが出来るのは、「同じ人間」という規格が存在するからだ。
人は物差しで人を測る時、そこに犬や猫、ホームレス等、そしてハリウッドのセレブなんかはめったに入れない。別世界の人間だからだ。
それと同じように、僕は「違う人間」になり「別世界の人間」になった。頭の狂ってる不幸な人間の目盛りは、誰にも当てはまらない。
結局、人の人生なんてものは主観で、それぞれ違って、測れるものなんかじゃない。僕は単にそのことに気付いただけだったのかもしれない。
僕がよく使っていたプラスチックの物差しは、僕の手元には一つも残ってない。何度も広げたり閉じたりしたせいで、折りたたむ部分に負荷がかかって壊れてしまったからだ。
長すぎる定規、構造に欠陥のある設計は、あまり何度も測ったり遊ぶのには向いてないらしい。最近のはもっと丈夫になっているのかな。