2019-12-26

物差しが壊れた日

今は持ち歩いていないが、小中学生の頃は、いつもの物差しを持ち歩いていた。

少し古い竹の物差しプラスチックの折り畳みで、広げると大きくなる物差しステンレス物差しもあれば、紙の物差しもあった。

僕はプラスチックの折り畳みの物差しで、よく大きく広げて遊んでいた。コンパクトでかつ長く計れる。筆箱サイズで30㎝まで測れてしまうのが楽しくて、何度も広げたり閉じたりした。

人の価値観というものも、いうなれば物差しみたいなものだろう。物差しで人を測るだとか、慣用句でもよくつかわれる。

現実物差しと同じように、全て同じ規格で出来ているようで、どれも微妙に、状態によって差は出てくる。

それでも、その物差しで人を測るのは楽しい。優劣をつけて、自分他人の長さを比べて、自分を追い立てたり、悦に浸ったりしていた。

そんな人を測る物差しが、中学2年生の頃に壊れた。精神病にかかり、毎日反吐の中でもがくだけで通り過ぎた。

物差しで人を測ることが出来るのは、「同じ人間」という規格が存在するからだ。

人は物差しで人を測る時、そこに犬や猫、ホームレス等、そしてハリウッドセレブなんかはめったに入れない。別世界人間からだ。

それと同じように、僕は「違う人間」になり「別世界人間」になった。頭の狂ってる不幸な人間の目盛りは、誰にも当てはまらない。

その物差しは、自分という人間しか測れない物差しになった。

結局、人の人生なんてもの主観で、それぞれ違って、測れるものなんかじゃない。僕は単にそのことに気付いただけだったのかもしれない。

僕がよく使っていたプラスチック物差しは、僕の手元には一つも残ってない。何度も広げたり閉じたりしたせいで、折りたたむ部分に負荷がかかって壊れてしまたからだ。

長すぎる定規、構造に欠陥のある設計は、あまり何度も測ったり遊ぶのには向いてないらしい。最近のはもっと丈夫になっているのかな。

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