小学生の頃に、罰ゲームで告白するというのがあった。(私がクソブスで告白する側とされる側どっちが罰ゲームやねんという点は見逃してほしい。)
その時は、「別に本当に好きなわけではないのだし、『好き』って言ってもそれは『す』と『き』の音がつながっただけに過ぎない」と思っていた。だから実際に嘘の告白をしたようなしてないようなことがあったけど、仮に誰か男の子と噂になっても嘘なら本当に嘘だし本当なら嘘だとごまかせばいいしでど~でもいいわ、と思っていた。
が、成長するにつれて、その考えは変わってきた。
どんどん、「自分が好きでないもののことを好きだと周りから思われる」ことが絶対に許せない耐えられないことになってきた。
実際に、別に好きでも嫌いでもないってこともあれば、本当に死ねと思っていることもある。とくに、本当に死ねと思っている時は、「本当は好きなのに照れている」みたいに思われるのが嫌で、しかも、同じように嫌だとか言ってる子には絶対に「本当は好きなのに照れている」子がいると思っていたし実際そうだと思うので、私は「いかに本当に死ねと思っているか」をアピールするのに必死だったものだ。
そういう思いは今でも続いている。
本当は好きなのに嫌いと思われるより、本当は嫌いなのに好きだと思われるほうがムカつく気がする。何故だろう。
自分が「自分と似たような集団」の一部として、その常識を押し付けられているように感じるからか。
「いやよいやよも好きのうち」ではないが、自分の気持ちが軽視されてるように感じるからか。
たぶん、こういう「私は好きではない」という意思が「本当は好きだと思われる」「当たり前のように好きだと思われる」などしてテキトーに扱われた(と感じた)から、「私は好きではない」ということを過剰に表明したり、その"もの"自体やそれを好きな人に対して過剰にアンチになってしまうのではないか、と思った。
嫌いなものは排除したいものだから、嫌いなものを好きと思われると自分という存在が穢されているように感じます。