その頬は一体どんな味がするのだろうか。
隣で静かに寝息を立てている妻の横顔を見ていた男は、あまりにも自然にそんな疑問をもってしまったことに少し戸惑った。
しかし、湧き上がった疑問は消えるどころか、次の瞬間にはより実感を伴う疑問に変わっていた。
そこに歯を立てるとどんな感触を返してくれるのだろうか。
容易に噛み切ることはできるか、それとも繰り返し掘り進むように噛み続けなければならぬのだろうか。
噛んだ先から血がにじみ出ては噛みちぎるのにも一苦労であるし、そもそも血の味ばかりでは肝心の頬がどんな味なのかわからなくなってしまうかもしれない。
突然噛み付けば妻は当然抵抗するに違いない。それに、噛みちぎられた跡が残れば妻のその美しい顔が台無しである。
そんな好奇心を満たすよりも、単純に考えれば愛する妻を失うことのほうが辛い。
ひとしきり考えた後にこれが叶わぬ妄想であることが理解できた男は、軽いため息とともに枕に顔をうずめて眠りに落ちようとした。
僕が君の頬を食べたいと真顔で訴えたなら、妻はどんな顔をするのだろう。
その時、男は何かを思いついたかのようにスマートフォンを取り出すとアラームをまだ日も昇っていないであろう早朝に合わせてセットした。
男はスマートフォンの画面が消えると同時に闇に溶ける瞬間、何かを企むかのような不敵な笑顔を浮かべていた。
男が降りたのは勤務先の最寄り駅ではなく、幾つかの路線が乗り入れるこの辺りでは最も大きな乗換駅だった。
この駅が持つとある特徴を男は知っていたのだ。
この駅を挟んだしばらくの区間には特急電車の停車駅はなく、前後にカーブも少ないことも手伝って、特急列車がこの駅を通過するときにほぼ最高速度に達するのだという。