感受性が強すぎて生きにくい人間は、口をつぐんだまま朽ちていくのが正解なんだとおもう。
自分を表現する、日記を書いたり、小説を書いたり、写真をのせたり、絵を書いたり、映像をつくったり、料理のレシピを掲載したり、そういう表現に関することには、かならず摩擦が生じる。
ずっと言われている真理だし、自分と違う価値観の人間と(作品を通して)接するのだから、あたりまえのことだ。
みんながみんな同じ考えだったら気持ち悪い。
今まで一応上記のような表現をすることでご飯を食べていたのだけれど、ここ一年くらいそれができなくなった。
ある日を境に、公開することで生じる摩擦が恐ろしくて、何をしてもすべて悪い方にしか受け止められなくて、もう作ることすら怖くなってしまった。以前は作ること自体には楽しみを見いだせていたはずなのに。
子供の頃からそういった摩擦にとにかく弱くて、この摩擦に耐えなくちゃいけないくらいなら口をつぐんだほうがいいと思い続けてきた。通信簿には「恥ずかしがり屋」「臆病」にチェックが入っていた。
とはいえ、そんな貝のようなふるまいをしていても、一向に成長はしていかないだろう、というのも勿論理解していたので、びくびくしながら表面は明るく笑顔で表現をし続けていた。いまは自分が若く幼いせいで、この摩擦が痛くて辛くてしかたがないけれど、きっと成長のためには必要なんだといいきかせて耐えてきた。
そして、どうみても世間からはいい年した大人と呼ばれる年齢になっても、なお、摩擦によってもたらされる苦しみの度合いは変わらないのだと気がついた。大人になれば、いろいろな経験をすれば、どんどん鈍感になるし、気にならなくなるよ、という通説も、そうでもなかったなと思う。いつまでたっても表現は苦しいままだ。事態が成長、好転しているのかどうかもわからない。いったい何のために苦しみながら表現をしてきたのだろう。
今度あるイベント(便宜上こう呼ぶ)でまたその表現をしなくてはいけないことになっている。正直断りたい。これ以上摩擦によって傷を付けられたくない。似たような、同じようなイベントを過去何度もやってきたけれども、その度苦しんできた。終わったあと何も残らない空虚な気持ちを持て余すだけだった。ちっとも楽しくなかったし嬉しくなかった。でも己を成長させるためだとおもってやってきた。でももうやりたくない。苦しい。でも…次に繋げるためにやらなくちゃいけない。やらなくちゃ。楽しいことっていったいなんだっけ。
やっぱり貝みたいに口を噤んでいればよかったのかもしれないな。そんな摩擦にも耐えられないような奴に表現をする資格はない。いままでやってきたことになんの価値もなかった。
感受性が強いんじゃなくて単に豆腐メンタルなだけでしょ 図太く生きるか、図太く生きられないならメンタルへ