2013-09-13

自分価値と唯一無二であることについて

果たしてこういうエントリーは世の中ごまんとあるかと思うけど、とりあえず書いてみる。

昔、といっても10年くらい前の事が原因で、自分には人間としての価値がないし、幸せになる権利がないと思ってる。

先日事故、という程のものでもなかったのだが、を起こして頭をぶって病院に担ぎ込まれた。

この時、相手方の人が「お身体の方は大丈夫ですか?」と聞いてきたのだが、私は「なぜそんな事を聞くのだろう」と心底不思議でならなかった。

私にとっては壊したと思われる相手の自転車の方がよほど価値があり、むしろ私が事故の後に何らかの障害が残ったとしても、それは大した問題ではなく、とにかく自転車の弁償をすべきである、と考えるまでもなく反射的にそう思っていた。

そんな私が今もをってして死んでいないのは、ただ一つ、自分家族が健在だからである

家族には数えきれない程の迷惑心配をかけた。もうそんな気苦労をかけさせたくないし、家族が辛い顔をしているのを見るのは耐え難い。

から常に「私は変わらずに、元気で毎日楽しく過ごしている」という事を言っている。

実際、私はそれなりに幸福で楽しく過ごしている。自分価値が見出せず、また、誰かの唯一無二になれない、なってはいけないこと以外は。

宮崎駿引退の時に「この世は生きる価値がある」と言っていたけれど、なるほど確かに世の中生きる価値はあるだろうと思う。

私がその中で生きていく価値がないだけで。

私のことを大切に思ってくれている人がいる事は理解しているし、とても有難く、本当に申し訳ないのだけれど、私は代用の効く人間であるという考えが頭にこびりついて離れない。消耗品のように、使い古されていつか忘れられることを望んでいる。

周りの人達幸福になって、それをひとりで遠くから見つめることが自分の最低限望んでいいことだと思っている。

価値のない人間幸福の渦中にいるべきではないので。それを遠くから眺めるだけでいい、そして私のことなどいつか忘れてしまえばいい、と、思っている。ずっと。

どうしたら自分を許せるのか、というか、許す気があるのか。

友人に「生きる価値がない」と吐露することもできない。きっと彼等は優しいのでそんなことはない、そんなこと言うなと言ってくれるだろうから。それを否定することは友人を信じていないのと同義になってしまう。

ただ、ふつう暮らしている多くの人達をみると、たまに眩しくて仕方がない。

許されたいとか自分価値を見いだせればいいとか甘えたことを考えてしまう。

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