2012-12-14

左翼言葉はなぜ社会に受け入れられないのか

タイトル釣りです。他の人の心の中が読めるわけないので、あくまで自分自身の話をします。

基本、自分は人と争うのが嫌いだし、自由が奪われるのも嫌いです。

から左翼の主張する「断固戦争反対」や「国家権力の横暴を許すな」は、頭では理解できます

でも、それらの主張を声高に訴える左翼の人たちに対して、心情的に受け入れられない部分があります

それは、「お前は有罪である」「しか自分だけは無罪であるを同時に突きつけられている気がするからです。

ネット右翼石原、橋下らの態度は、一言でいえば、自分たちの所属するコミュニティの外部を敵とみなして「あいつらが罪人だ」と認定し攻撃するものです。最低の態度だと思います

それに対して、左翼の人たちの態度は、自分たちの所属するコミュニティの内部に罪を見いだし「わたしたちこそ反省すべき」と指摘する感じです。

これだけなら、いいんです。

しかし、左翼の人たちの発言をよくみてみると、その攻撃性は右翼ととてもよく似ています

日本人である罪を自覚し一生をかけて償え」と他者を詰る一方で、自分自身はその罪を背負っていないかのように、彼らは自分自身に対しては言及しません。

自分は他の不届きな日本人糾弾しているのだから、これによって自分自身の罪は免除されるのだ」と考えているのかもしれません。

確かに糾弾必要です。しかしながら、他人の罪を指摘すれば自分の罪からは逃れられる、という思考では、結局誰もコミュニティの罪を背負えなくなるのではないでしょうか?

右翼が支持を集めてしまうのは、敵を外部に求めることで、コミュニティ内部の結束が強くなるからです。

左翼が退潮してしまうのは、「お前の罪を数えろ。自分は悪くない」をコミュニティ内部で繰り返すことで、(フェミニズム界隈でいわれるような)「一人一派」状態に陥ってしまうからです。

内ゲバではなく、どうすれば、「日本人として生まれてしまった」自分自身の罪と向き合い、償うことができるのか。

その現実的な方法を、一緒に考えていけたら、と思うのです。

駄文失礼しました。

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