1番になりた行って、純粋に1番がいいというより
1番になって他人を、権力や金の力や名声で跪かせたいという方が強いんだな。
そこまではいいけど、で、おまえ指揮官になるだけの実力があることが示されていないんだけど?
あー、そういうことして、潰れたPJ山ほど見てきたよw
言われた通り作ったら動かないことを知っていて、あーそうですか、絶対ですからね。と言われた通り作るという部下を持ったPJがどうなるかwww。
あれは、部下が悪いんです僕のせいではありません、が通るといいね。って世界だよね。
オンとオフの切り替えは、成長しかないと思う。
「そうしないようにする」努力はすべきだと思うな。
取りあえず、体を疲れさせる。
ディスプレイから離れる。
携帯からも離れる。
仕事と無関係な他人と過ごす。接する。
映画とか、コンサートとか、閉鎖された空間でその事に集中できるのもいい。
できない、は分かるが、努力できる部分はあるはず。
立場にもよるけど、一日で終わるプロジェクトの方が珍しいだろうな。
プレからフォローまで、何年も何年もかかるよね?
徹夜の時は、「徹夜仕事になる」と計画的に考えていれば飲まず食わずなんてありえん。
多分、「できればやりたくない…」という甘さと逃げが悪循環になってると思う。
何時頃に買いに行って、と計画立てて席を立つのも重要。
ほか弁とか、できたら出前とか。
堂々巡りに陥ったら、作り手を休めてプライオリティとか、スケジュールの見直しをする。
気持ちも切り替わるし、仕切り直しもできる。
ダラダラが一番悪くなる。
あと、他増田も言ってるけど、他人を頼る。頼られるようにする。
頼る時には、勿論自分が何をしてほしいかはちゃんと切り分けて伝えれるようにする事。
これも、テクニックが必要だし、タイミングも大切
自分のケツが拭けない奴は、ギリギリでもうどうにもならん!って無茶苦茶な状態で他人に押し付けたり
逃げる事で結果的に押し付ける事になる。
どこまで管理・共有するかは仕事によるし、管理も手間がかかるから自覚してどのレベルまで落とし込むか考えないとダメだぞ。
もし、自分がそういう立場にないなら、管理する側に自分の負荷・オーバーワークを明らかにする。
受ける時も同様だよ。
後ろ向きだったり、嫌な言い方する必要はないけど、
相手や周囲に兎に角良いように見られよう、って時期はそろそろ卒業してもいいと思うぞ。
どうせ、そんなの自分がまいた種で自分が首を絞めて全部が嫌になるだけだ。
どんな業界でもそうだと思う。
がんばらないように、努力する。
それはただダラダラとがんばるよりも、ずっと大変な事だ。
やっぱり「坂の上の雲」はドラマ化しないで欲しかったなーと思っています。司馬さん本人が誤解を招きやすいから映像化は止めて欲しいって言ってたのに無理矢理ドラマ化したものだから、案の定いろんな批判が沸いています。
私の狭い観測範囲のなかで一番代表的にみえる批判は、司馬さんは日露戦争を祖国防衛戦争だと表現しているけれど、ロシア側に侵略の意図はなかった。避けられた戦争なのに防衛戦争とかありえないという意見です。
加藤陽子さんの「それでも日本人は『戦争』を選んだ」を読むと、日露戦争直前に権力を掌握した極東総督のなんちゃらさんが、韓国取っちゃった方が安上がりですよとか皇帝に言ってたらしいのでロシア側に侵略の意図なしとはいえないんじゃないかなーと思うし、当時のロシアがトルコや満州にしていた仕打ちを考えたら、次は日本かもって当時の人達が恐怖するのも当然だと思うのだけど、まあそこらへんは歴史をきちんと学んでいるプロの方たちが論争しても中々決着がつかないわけだから素人には分からない事柄が色々があるんだろうから置いておきます。
私はたとえ司馬さんが間違ってたとしてもさほど問題ではないように思っているんです。
司馬さんは「坂の上の雲」をなるべくフィクションを抜きにして事実に即して書こうとしてますし、そう宣言もしていますが、それはあくまで司馬さんの中で事実だと思える内容を書くというだけのことで、読んでる方はそれを完全な史実だと思って読んでるわけじゃありません。
ただ司馬さんの歴史観を誤りだと批判している有識者さんたちは、その批判の理由を小説を史実だと勘違いされちゃ困る。国民の歴史観に影響を
与えかねないと言っています。
私は読み手はそれほど馬鹿じゃないし、盲信もしていないと思うんです。司馬さんはこういう風に日露戦争や当時の日本を捉えてたんだなー、凄いなー、面白いなーって読んでいるだけです。司馬さんは小説家ですから、エンターテイメントとして最低限の盛り上がりも必要だと思っていたでしょうしね。読み手はそれほど馬鹿じゃない。小説だと分かって読んでいる。私や私の友人はそれほど優秀な人間でもないけれど、司馬さんは無謬だとか思っていないし、思っている人を見たこともないです。
逆に批判している有識者さんたちにちょっとした思い上がりを感じるんですよねー。私たちは優秀で知識も豊富だから騙されないけど、お馬鹿な読者はころりと騙されて変な方向に突っ走っちゃうかもしれないから、司馬さんの小説を批判して目を覚ましてあげましょう。啓蒙してあげましょうって。大きなお世話ですよね。ちょっと悪く書きすぎかもしれませんが。
子供達が影響受けちゃうから犯罪小説禁止とかと同じ流れな気がして嫌なんです。そういう批判をする人が現れるから、誤解を招きにくいように誤解を招きにくいようにとびくびくした無味乾燥な物語ばかりになってもつまらないじゃないですか。
同じ小説を読んでも、こういう犯罪の手法があるのか気をつけようって読む人もいれば、単純に物語として楽しむ人もいるし、この手法で犯罪を起こせるかもって思う人もまれにいるかもしれない。でもそれは書き手の罪ではないし、それを恐れてつまらない物語が増えていってもしょうがないと思うんですよね。
ただまあ、司馬さんの影響力っていうのは確かに大きいです。司馬さんの小説を読んでいる人数は、その関連の歴史書を読んでる人数の何倍もいるでしょうから、そのうちのいくらかは勘違いしちゃう人が出てくるかも知れません。だからその人たちの為に批判をするんだっていうのだとしても、やっぱり言い方ってものがあるんですよね。
もうちょっと司馬さんを立てた表現ってのを出来ないものでしょうかねえと。司馬さんの小説には何の罪もないはずなのに、司馬遼太郎の歴史観をぶった切るみたいな批判の仕方をする人が少なくないでしょう?別にぶった切らなくても、司馬さんの小説は面白いけれど、現在の研究ではこういう論もあるのです。こういう視点もありますよでいいじゃないですか。なぜ叩かずに別の価値観を提示出来ないのかなーと残念に思います。
「革命はさ、いつもインテリが始めたんだよな。でも夢みたいな理想を持って始めるから、実践ではいつも過激なことしかやらない。悪いクセだ。
革命が成功して世界が整備されてくると、革命の理想は官僚と大衆に飲み込まれて行く。するとインテリはそれを嫌って世捨て人になる」(アムロ・レイ)
どうやらワタシは最近のRPGのような「裏シナリオ〜裏エンディング」と切っては切れないようで、
それは表向きはとっくに終わっているが、裏では次に何か起こる直前まで引きずっており、しかもそれは本人しか解らない事だ。
思い起こせば学生時代。大学は無事卒業したが、実は卒業していなかった。
研究書の最終稿が上がらなくてね、居残ったんだ。終わったのは入社式の3日前だった。(ちっとも自慢出来ない・汗)
教授も半ば呆れ顔。しかし、どうしようもない言い訳をするならば、こんなユニークな研究など初めから結論など見えなかった上、
ようやく出した結論すら二転三転だ。解析方法をどんだけ変えた?そもそもサンプル数が莫大過ぎるのだ。
その結果ですら「ヒット率70%」とはね。人間様の精度は3割有れば良いと野球好きのオッサンが言いそうだけど、
機械的な精度を求めたら9割打てなきゃダメ。これだからサイボーグを作るのは難しい。ゆらぎの問題が有る。
まぁ、呆れたついでに。呆れるように。人は何故こうまでして誰も読む保証なんて無い手紙を落としまくるのだろう。
それも差出人も宛先人も不明になった。それはおよそ「手紙」とすら呼べない代物だというのに。
今更ながら、「エヴァ」の話でもしよう。今でも語り継がれるであろう、TV版の最終2話な。
「アニメは強シンクロだ。そこに映る物で総てを説明する。」と言ったが、最終2話では完全にそれは無視された。
それどころか、説明では無く、あちらから問うのである「君の思っている僕は、僕とは違うんだよ。」と。これは拷問の作法である。
ラカンで言う「大文字の他者」その不確定さと不安定さ。「悲しい」とはそういうものだろう。
だがシンジが最後の最後で開き直り、祝福を受けるのは何故だろう。
何故ジャック・ラカンはその暴力的な論理を振りかざしつつも、「手紙は宛先に必ず届く」と断言したのだろう。
だが残念な事に、これは神の慈悲では無い。誰の慈悲でも無い。単なるロジックだ。
もうかれこれ1年以上していない。原因はお金、ただ単に俺の稼ぎが悪い。
なのに全然必死さが足りないんだと。
そう言われてみりゃそうかも・・・・
かみさんのこと好きかって?言われりゃ 好きだといわざるをえない。
愛してると言ってもいい。
でもこっちも意地になって、最近は事務連絡以外ほとんど会話がない。
いや、俺が意識的に避けている。
中学生みたいだ。ホント情けない。
でもさぁ、しゃかりきになって働くなんてできない。
生まれついての怠け者だもの(みつうぉ)
かみさんでなくてもいいんだけどなぁ。
ちゃんとした会社ならこんなテクニックを使う必要はないさ。
(会社がマトモでもリソース管理についてちゃんとしてない現場はかなり多いのが現状だとは思うが)
うつ病になるまで人を使おうとする会社なら、そうしてでも対抗するしかないんじゃないか?
仕事をするよりも生き残ることのほうが大事だ。
スレ元の人に他にいい対抗方法があるなら言ってやってくれ。
たぶん売春のことを言っていると思うが、なぜそれが悪だと思うのか。
オレは特に悪いことだとは思わない。
で、オレはここでお前を攻撃したいわけじゃないんだ。
叩くつもりはないから、逃げないでちゃんと議論してほしい。
転職貧乏で嫌なことから逃げ回っていたら、今年の年収が300万円切った。
大学まで出してもらって、親に申し訳ない。
元々社交的じゃないのに営業やって鬱になって、そこから逃げ回るようにして
友人のツテでたどり着いたのが今の仕事。
ただ親はそんな非社交的な俺をしってか、「今の仕事続けられるなら続けなさい」
「給料安くてもいいから」と言ってくれて、変な圧力はかけてこないのは
感謝している。
でも実際数字で見ると、人間的市場価値が低く感じて卑屈になってしまう自分がいる。
脱却する気概はないけど、このままじゃいけないかもと思う。
もう年齢的にやり直せないから、このまま一人で細々と人生を生きていくしかないのか。
特に道徳的な理念を推進しようとすると社会が硬直する方向に向かう。
タリバンとかはすごく道徳的(彼らにとっては)な団体だけど、その成果はひどいもんだ。
多くの人々の自由を奪ったり、人がたくさん死ぬことになる。
あと教育については効果を信頼しすぎだ。
多くの人々に理念を刷り込むのはそもそも問題だし、副作用も大きい。
天皇マンセーって言うのはいいけど、それを刷り込まれた国民は軍部にうまく操られたりしちゃう。
特定の理念を教え込むことは個人の意志を奪うことになる。
情報を与えるのはいいけど、判断はあくまで個人に任せておくほうがいい。
職場の場合でもそうなんだけど、ある事件が起こりました、と。
ではどうするか?という話。
犯人捜しを始めるか?
これは大抵不幸な結果に終わる。
犯人が見つからなかった場合、探すのにかかった時間(お金)が無駄になる。
例えば、上司に責められるとしても、犯人は反論のしようがない。
その結果、犯人の誇りとプライドは傷つけられ、(大抵、大勢の前で)恥をかかされる。
では似たような事件が起こった場合、どうするかというと、大抵の人は「なかったこと」にしようとする。隠蔽工作を図る。
大勢の前でつるし上げられたくないから。
よって代案が必要になるのだが、大抵の場合は以下の3つのうちのどれかだ。
1.何かやってしまったら、自己申告してもらう。
2.こういう事が起こった、と全員に注意する。
3.それが起こらないようなシステムとして解決する。
人間は弱い物だ、という人間理解や優しい気持ちを前提に持っていないと、大抵の問題は解決しない。自分の器は小さいから、あるいは、上司や部下の器が小さいから、ハックする必要がある訳で、自者や他者、異性を人間として見なしてみない者は目が三角になり、イライラとフラストレーションをため、閉塞状況に陥る。もっとも、状況をハックするにはハックする時間が必要であって、逃げる勇気や引く勇気のない者は自滅へ一直線となる。
オレがエンジニアをやってた頃はそんなに大変だと思っていなかった。
あまり一生懸命にやってなかった。
自分でできる範囲を決めてそれ以上はやらない。
一定の時間が来たら必ず帰る。
「できません」「無理です」って言う。
他の人に頼む。
事あるごとに自分の失敗を強調する。
下記のセリフを言う。
「だったら今やってるこの仕事はやらなくていいですね?」
「自分のリソースを管理する権限がないので上司に頼んでください」
「私用があるので帰ります」
いつでも言えるように訓練しておく。
歴史上、そういうものだけで社会が維持できたことはないんじゃないか。
一部の人間だけを動かせればいいんならいいけど、それはテロとか破壊にしか使えない気がする。
社会は一瞬だけ維持できればいいのではなく、持続する必要があると思う。
加害者が悪い悪いとわめいたところで、何がどうなるってもんでもないだろ。
「加害者が悪い」と「被害者で悪い」では被害者への精神的影響は全然違うと思うが。
にもかかわらず後者を言う人は「わめいてもどうにもならない」といわれず、
前者ばかりが「言っても仕方ないから黙れ」と言われるのが不思議。
言ってる人は被害者たたきじゃないと本気で思い込んでそうなのが怖い。
今の世の中では恋愛結婚が主流になっているけど、これが家庭に起こる様々な問題の一要因になってると思う。
そもそも恋愛感情なんて、本能的な感情を言葉で飾ったものに過ぎない。動物的なもので、人間的でない。
人が社会を作り、「人間として」発展していく中でどうしても動物に立ち戻らなければならない「生殖→繁殖」の所を
なるべく人間的に、合理的に済ませるために生まれたのがお見合い結婚。恋愛感情なんて本能的なもので生殖の相手を
定めるのではなく、資産や家柄、社会的立場など人間的な価値によってそれを定めるシステム。
つまり恋愛や、その延長にある結婚というのは人類が人間として成長発展してゆく流れに反するものだ。
今でも、一部の上流階級の人間、つまり優秀な人間はお見合い結婚をする。それは人間として正しい。
昨今の風潮ではお見合い結婚は「恋愛市場で相手にされなかった負け組の人間のするもの」になっているが、それは大きな間違いだ。
多数派に惑わされてはいけない。多数派の価値観とは大衆、すなわち愚民の価値観であると言い換えても過言ではないのだから。
今からでも遅くないから、頭の良い人間は恋愛感情などという動物的本能に惑わされることなく、人間的な価値観に基づいたお見合い結婚をするべき。