「侃侃諤諤(かんかんがくがく)」と「喧喧囂囂(けんけんごうごう)」
まず、”「侃侃囂囂(かんかんごうごう)」や「喧喧諤諤(けんけんがくがく)」といったように混交してしまう”人。
けだし、この手の人が最も多いのではなかろうか。以下引用。
かんかん-がくがく 0 【▼侃▼侃▼諤▼諤】
(ト/タル)[文]形動タリ
はばかることなく正論を堂々と主張するさま。また、大いに議論するさま。侃諤。
「―と議論をたたかわす」
けんけん-ごうごう ―がうがう 0 【▼喧▼喧▼囂▼囂】
(ト/タル)[文]形動タリ
多くの人が銘々勝手に発言してやかましいさま。
「不注意な発言が―たる論議をよびおこす」
〔「喧喧諤諤(がくがく)」は「喧喧囂囂」と「侃侃(かんかん)諤諤」とが混交し誤用されたもの〕
この類に属する人たちはおそらく、侃侃諤諤また喧喧囂囂という言葉自体を知らず誤用の方が正しいと勘違いしているのか、あるいは聞いた事がある程度で生半可に理解しているがために混交しているのか、はたまたわざと間違えているのか等、他にも色々な原因が考えられる。
次に、”混交はしないが使う意味が間違えている”人。
このグループに属する人は頻繁に見かけはしないが、比較的多いと思われる。ちなみに今回の会議で誤用したお偉いさんはこのグループだった。
この人たちの原因も幾つか考えられるが、基本的には意味が分かっていないから間違えるのだろう。自分の経験上、侃侃諤諤を(喧喧囂囂の場合でもそうなのだが)「やかましく騒ぎ立てる様、かしましい」「相手との仲が険悪な様」などと解釈している人が多い。そして会議や会話の場でそれらをその意味で用いた後、「俺、こんな言葉も知ってるんだぜ。フフン」と高飛車に出る人も幾人か見受けられた。なんだかなあ。
ここまで書いておいてなんだが、言葉は変遷するものだと思っている。だから前に示した「侃侃囂囂」や「喧喧諤諤」、他にも「諤諤囂囂」「侃喧諤囂」なんて言葉も”正しい”言葉になるかもしれない。というか実際、本当かどうかはさておき、「喧喧諤諤」が辞書に掲載されており、強ち間違いではないという話をどこかで聞いた覚えがある。今日本語で一般的に誤用とされているものは実は誤用ではなく、頻繁に使われている言葉がこそが誤用である、なんていう事もしばしばある。誤用かそうでないかの線引きをするのは、ことばおじさんでも難しい所作だろう。いや、ことばおじさんは容易か・・・? あー、厄介厄介。
ちなみに侃侃諤諤と喧喧囂囂の個人的な覚え方として、前者は「か」から始まるんだから「か」が続くと覚え、後者はカ行において「け」の次は「こ」だから「こ」が続くと覚えていた。実に面倒な覚え方だったが、今は自然に言葉も用法も口からスラスラ出せる(つもり)ので、いちいち確認はしていない。
あぉあ、眠いから何書いてるかワカラン。はよ寝よ。
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20060328/1143475973
小谷野敦氏より <3> 2002/11/25/08:50
お便り拝読いたしました。
私は、インターネットというものは、誰のチェックも入らないままに駄文や誹謗中傷を垂れ流せる、一面で有害なメディアだと認識しております。かつ、もし内容的に正しいものであろうと、他人を批判する場合には本名ないしは世間で通用している筆名の類を明記するのが最低限のルールだと考えております。「名を名乗る」というのが人に挑戦する際の礼儀であって、名を名乗りたくないならあのようなものは書かなければいいのです。内容以前に、匿名批評を私は憎んでおります。
[...]
(強調は引用者)
「荻上チキ」というのは「世間で通用している筆名」じゃなかったのか。
言わないべきにもう一票。
どういうシチュエーションだか知らないけど、君がその仕事に組み込まれていたならミスチェックも含めた指導は先輩の仕事だし、元々その先輩だけの仕事で手伝った関係なら、その先輩は本来自分がやったこととして監督責任があるし、どっちにしろその先輩本人の実質的なミスなんだよ。
そういう関係のところを、先輩を飛び越してリーダーに言うと、その先輩の面子をつぶすことになるよ。そっちのがよっぽど悪いよ。
お見合いでいいんなら、会った子に片っ端から声かけりゃいいんじゃないかなー。実際、服に気をつかうとかそういうことして「選ばれる」のを待つよりも、数打った方がずっと成功確率高いと思うよ。結構美人で気立てもいい子が、ただの早い者勝ち状態になってることも多いし。あ、声かけるっても、いきなり付き合って下さいって言うんじゃなくて、とりあえず気軽に飯でもなんでも誘ってみて、話す機会を作るってことだよ。
で、いっぱい声かけて半分くらい断られて9割がお友達に終わるくらいは覚悟してね。それでも、考えすぎてなんもしないよりは全然可能性あるし、そういう相手なら女の子の間の警戒心も薄れると思うよ。奢ったり背伸びしたりもしなくてよくて、なーんもかけなくていいから。そういうことすると、こんだけ金かけたのに/がんばったのにって気持ちが入って逆によくないし相手も警戒するから。こういう手をとれば、君の言う点数の合計で相手を値踏みするような子は逃げるから、お互いに見極められて効率がいいし。
あなたが成功したのは、
いろんな人に助けてもらったお陰でもある。
だから、慢心してはいけない。
あなたが成功したのは、
色々なストレスに耐えながら、
自分の信じた道を進んできたからでもある。
だから、誇っていい。
ただ流されて漠然と生きることは、
悪いこととは言わない。
しかし、成功するには自分の意志で決定を
続けなければならないので、
強い精神力が必要なのだ。
そういう人たちは、
それなりの覚悟で臨んでいるのだ。
助けてもらうことも悪いことではない。
運だけで成功することもあるかもしれないが、
これは仕方の無いこと。
大切なのは、こういうこともあるんだということを
心に刻んでおくことだ。
覚えておいてくれ。俺。
漫画版の『NHKにようこそ』は引きこもりの話ではな い。主人公は原作小説ほどネガティブでも内向的でもなく、世界と敵の関係について考え込んだりもしない。自意識のベクトルが、原作ほどの自己嫌悪へは向か わず、他人や他人からの視線への過剰な関心という形で現われる。では何の話なのか? それは「誰かのために」の物語である。
中原岬は幾度となく言う
「つまり…私は…/ひきこもりを助ける
その…/天使みたいな…/もので…
決してからかってる/わけじゃなくて…/本気の本 気!!
つまりボランティア/みたいなもので…/別に佐藤君が 好きとか/そういう……」(2巻p123)
「あたしは佐藤君を/天使のように助けようと思っ て……」(2巻p168)
「わ…私は/弱者に優しい/天使というだけのことです」 (3巻p163)
「な…何ですか/関係ないじゃないですか!/私はただ天 使だから…
佐藤君を助けなきゃ/いけないから!/クーリングオフ を申し込みに/来ただけじゃないですか!!」(3巻p165)
「誰かのために」は通俗的な用法としての「共依存」と 言い換えてもいいかもしれない。「共依存」の人は、自分自身の問題と向き合う前に、身近な「困った」他人の問題ばかりに気を向けて、その問題の解決に身を 捧げてしまう。しかし、そのような態度が、根本的な他人の問題の解決に向かうことはない。というのも、そのような「困った状況」において、世話をされてい る彼/彼女は、自らの努力で問題を解決するチャンスを奪われてしまう上に、その状況が続くことを世話をしている彼/彼女が望んでしまいさえするからだ。こ れが、(やや通俗的な解釈ではあるが)「共依存」ということの意味である。
「共依存」というと、互いに依存するようなカップルな どを思い浮かべる人もいるが、「共依存」自体は一方的な献身においてであっても(むしろそうであるからこそ)発生する。「自分が誰それから必要とされてい るはずだから、自分は誰それの世話をしてあげるんだ!!」と思い込んでしまうのが共依存だからだ。その意味で中原岬は、典型的と言ってもいいくらいの、 「共依存」である。
「共依存」は引きこもりに近い状態ではあるが、社会性 としては引きこもりより一歩進んでいる。一般的に「引きこもり」は自分のことだけに関心が向いてしまい、外界に対しては一切の干渉/被干渉を拒否してしま うというイメージであるが、「共依存」においては少なくとも、「自分を必要としているはずの」他人に対する関心や干渉はあるのだ。これは、ラカンにでも言 わせれば鏡像段階などと説明されるのだろう。
さて、「自分よりダメな人間を見つけたから」佐藤達広 と付き合おうとしたのだという、中原岬の告白は、原作においてはクライマックスの一部をなすほどに、作品全体において重要なものだが、それが漫画版では、 あえて秘密にするまでもないほどに、何度も語られてしまう。つまり、漫画版『NHKにようこそ』とは、既に人間関係が「共依存的」であることが、明らかに なってしまった後の話なのだということにならないだろうか?
興味深いことに、漫画版においては、中原岬以外の登場 人物もみな、多かれ少なかれ「共依存」的である。人間関係の契機がそのような、「誰かのための『優しさ』」として現われることが多い。主人公の後輩、山崎 は言う。
「僕は佐藤さんの事/尊敬してるんです/昔 僕がイジメられてた時……
こんな…ダメな奴なのに助けて/くれたでしょう?
僕…そんなの/絶対ありえないって/思ってましたか ら…」(1巻p31)
3巻で登場するマルチ商法の勧誘員女は言う。
「ただ…私は今まで/秋葉原でオタク相手に/絵を売った り宝石を/売ったりしてきたわ
何故だか分かる?
私の兄がね…そうなの…
…悲劇よね…
それでも兄弟だから/私が養ってあげようと/思って必 死で働いたわ
でも兄は働きもせず/人に迷惑かけるばかりで/部屋か ら出なくなって/もう6年になるわ
そんな人の為に/お金を稼ぐのが/正直虚しくなってき たの…」(3巻p165)
そして極めつけは、2巻で語られる、主人公と先輩女と の関係であろう。この関係が、中原岬と主人公の関係と二重映しに見えるプロットは面白い。主人公は言う。
「もう逃げるのは
やめだ!!
たとえ拒絶されたって/向かい合わなきゃ/今までと同 じなんだ!!
今度こそ/勇気を出して/先輩に言おう!!
別に好きとか/嫌いとかじゃない
ただ俺はこの人に/元気でいて欲しいんだ!!」(2巻 p107)
「そうだ!/そして何より
この人(ルビ:柏先輩)の/笑顔を/守るために」(2 巻p115)
「そうだ…俺は/どうして彼女を/止めるんだ?
結局 死ぬも生きるも先輩の/自由じゃないか?
俺がとやかく/言う権利なんて/ないじゃないか!?
…そうか…/そういう事か
何故 俺が/彼女を助けたいのか/どうしてこんなに/ 辛いのか?
つまり…/俺は彼女の事を――」(2巻p164)
だが、この主人公の純情は、先輩にかかってくる一本の 電話、そして「……私/結婚します!」の一言で打ち砕かれる。「誰かのために」が成就するとは限らない。誰それが自分を必要としているはずだから、と思っ たところで、誰それが本当に自分を必要としているかどうかは分からないのである。そして更には、必要とされているからと言って、誰それに手を差し伸べるこ とが良いことだとも限らないのだ。
このように、漫画版においては、「引きこもり」的な内 向自意識の問題は、半ば解決済みとも言える。「巨大な悪の組織と戦うことなどできなくなった」のが小説版の置かれた状況であるのならば、漫画版は「巨大な 悪の組織と戦う必要すらなくなった」後の話なのである。「もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん,21世紀はくる。ハルマゲドン なんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。もっと大きな刺激がほしかったら,本当に世界を終わらせたかったら,あとはもう“あのこと”をやってしま うしかないんだ」(『完全自殺マニュアル』鶴見済,1993年)に対して、山崎はこう言うだろう「僕らは自殺だなんて/ドラマティックな事に/関われる資 格がありません…/どんなに落ち込んで苦しんでも…/この馬鹿馬鹿しい日常に帰ってくるだけです/もし帰ってこなくても/どこかで馬鹿らしく/死ぬだけで す」(2巻p182)。これが90年代と00年代の差の一つである、というのは安易にすぎるかもしれない。だが、問題意識は確実に転換している。それを進 歩と呼んでいいのか分からないし、「共依存」は、描かれているほど楽なものでもないのだけれど。
「共依存」は自意識の問題を解決し得るだろうか? そ して、宙吊りにされた「世界と敵」の話が、再び思い起こされることはあり得るのだろうか? それが漫画版『NHKにようこそ』において今後注目したいとこ ろである。
つまりですね、「普通に生きてりゃ恋人ぐらいできる」だの「非モテは努力が足りない」だのと言ってる奴は何がしたいのかというと、優越感ゲームで快感を味わいたいだけでしょう。そんな奴のダシにされるのは腹が立つから、売られた優越感ゲームを買って出て、カウンターでそいつの劣等感を刺激してやりたい。そうすれば、相手も「優越感ゲームをやられると腹が立つ」ということを思い知るでしょう?
一部には優越感のためのもいるかもしれないが、多くの場合は単に自分の経験に基づいてアドバイスいてるだけだろ。
それを優越かんゲームとか決め付けるのは勉強ができないという人に勉強方法をしえたら逆切れされるようなものだよ。
それに勉強ができないことの主因は自分の努力不足だと普通に思ってる人は低学歴は努力が足りないとか言われても劣等感が刺激されるわけもないし。勉強ができないのは外部環境のせいと思えるのは途上国やDQN家庭出身ぐらいのものなんだから。
http://anond.hatelabo.jp/20071223023450
ゆとりだからなんてことじゃなくて、あんたらの親の世代が特に苦労してないだけだと思うよ。
苦労してる家庭で育つと若干老けるから。
良く言うとしっかりするってことなんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20071223012444
というか、実際に何らかの「現実的な」出会いがありそうな場にいたことがありますか?
現実的な出会いでは「高い服」も「むやみに高い収入」も必要ないですよ。
自分のキャラクターと相手のキャラクターをどこまで観察できるかだけだと思うんです。
一目惚れして好きになって、その子と少しでも長く話していたいから何とか策を考えるのって楽しくないですか?
まあ楽しくないから合理的な結婚がしたいんだろうけど。
でもそれって増田にとって合理的なだけで、相手が何を期待してるか分からないような。
教授に2回生以下はゆとり世代だから授業態度が良くないんじゃないかと言われていることを耳にし、この前そのことで浪人していて一つ年上の友達とこんな話をしました。
「国に今更、教育ミスっちゃいましたとか思われてるんだろうけど、別にダメ人間に育ったつもりもないし、経済的には国の援助は受けてるけど基本自立してるし、自分でマナーや態度がそこまで悪いとも思わないんだけど・・・」
「でも、ゆとり教育の害は同学年に居て感じる。講義中なのに喋る人とか多いし。ゆとり教育世代はやっぱ駄目だって。」
ネットでゆとりがどうとか言ってるのは基本どうでもいいんですが、友達にそんなことを言われるとちょっと凹んでしまいました。
そんな話をした直後・・・
そのとき、なかなか静かにならず、呆れていましたが、一番声を響かせ騒いでいたのはさっきの友達でした・・・
そういった目立つ人間を見て「ゆとりのせいか・・・」と思われてるのは予想できます。
結局、ゆとりだなんだ言ってはいますが、年下の年代は基本的に自分たちの年代より経験が浅い分、マナーがなってないなとか、態度悪いなとか感じることは多いはずです。それは今までも有ったはずで、代々受け継がれるように年下の年代を非難する言葉は言い方は違うにせよ、常に有るんじゃないかと思います。
もちろん、私も年下が態度悪いと感じることがあります。ただ、その辺は自分たちより経験が浅いんだしもっと寛容になってもいいんではないかと思います。
あと、ゆとりだから思うのかも知れませんが、年代でくくられて自分を判断されるなんてやっぱりいい気持ちはしません。ただ、そんなことで判断する人間もどうかと思います。
ここでこんなこと書いていても社会の認識が変わることも無いと思うので、「ゆとりなのに!?」って思われるようにいろんな面で年上を見返してやりたいと思います。
言わなくていいです。言うことで先輩の評価が上がることはないと思う。言うべきじゃない。
今日、サークルの忘年会があったんだが、胃を壊してしまって出席できませんでした。
同じサークルに所属する彼女は、死にそうなおれに一言二言かけて、でかけていってしまった。
私は現在、すねていて、むかついていて、たまらない感じです。
前回の飲み会も同じ症状で欠席したんで、今回は頑張って出席したかった。
そもそも自分の体調管理が悪いのが原因で、悪いと思ってる。
自分が忘年会に出席さえすればいいのだろう。
それでも衰弱しきった彼のために、もっと早めに帰ってくるとか、
寝付かせてから出かけるとかあるんじゃね?
もう2時だよ?で、何時に帰ってくるの?って電話で聞いたら飲み会が終わり次第だって。
その後メールで、朝の九時までには帰るって。お前。
それは最後の最後まで居たいっていうお前の気持ちも分からないでもないけど、
もっといたわってほしい。
いろいろ計画たてたのにさ。なんだよそれ。
九時ってなんだよ。朝だよ。
そんなんで出かけられるのかよ。
んもーまいっちんぐ。
具体的に、がんばるべき他のとこって何なのか聞きたいな。
http://anond.hatelabo.jp/20071221042603
まったくもって同感。
まぁもちろん企業だから利潤を求めるわけで
「ただ面白いものを作りたい」ってのを宣伝に使うのは仕方がないかな。とは思う。
むかつくけど。
「アニメ」「ラジオ」なんてタブ作っておいて、著作権云々いってるニコニコはほんとに何考えてんのかなぁ
腹割って、純粋にその人と話してみたい。
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一定の利益が上がったらもうお終い。って感じがする。
オフ会やるのを知って、行ってみようか迷ったけれど、仕事片付けられそうにないし結局スルーした。
面識ある人全くいないし、81年生まれではないしね。
後でオフレポざっと見てたら、行かなくて良かったのかもと思ってみたり。
いつも使ってるアレやコレなんかを作った人達を目の当たりにしたら、卑屈なオーラ全開で「はぁ」とか「へぇ」しか言わない安物のオモチャに成り下がるだろうし、家路に着く頃にはそんな卑小な自分を省みて柱に頭を打ち付けたくなる衝動に駆られるのは明白。
シラフで一心不乱にアグレッシブな頭突きを披露だなんて見てる人もリアクションに困っちゃうしね。
こんなんだから向こう側へ半歩も踏み出せないんだろうというのもまた明白。
何も形を成さぬまま閉じていくんだろうね、人生もこの文章も。
何はともあれ頑張って下さい>ハチイチ世代の皆様