心の定義は難しすぎるのでしない。みんなが何となくそれが心だと思っているもの、それが心だということで話を進めたい。
さて、社会にはたくさんのひとが居て、よってたくさんの心がある(これさえ認められない人も居るだろうけれど、この文はそういう人のためのものではないので帰ってもらいたい)。
たくさんの人の、たくさんの心の相互作用という観点で、以下のようなことがらが普遍的な原理として存在するとわたしは考える。
思いやりだとか、共感だとか、影響力だとか、意思統一だとかという現象は上の大原則があった上で、それを克服してひとまとまりの社会を構築するためにこそ存在する。
しかし、他人同士の心もどこかで繋がっており、相互に可視であると信じており、他人がどう思うかを外部から決定できると思っているような人が、相当数私たちの世の中にはいるように思われる。現実に繋がっていない心を繋がっていると信じ、見えないはずの他人の心を見えると信じ、他人の心に直接影響を及ぼすことができると信じている人にとって、思いやり、共感、影響力とは、本人の独りよがりでしかない。相手がしてほしいことを自分がしているという根拠の無い勝手な思い込みによる行動、そしてそれで相手が喜ばないという現実が受け入れられず逆上するなどという現象が私たちの社会をダメにしている。(こういう上の原理が理解できない人の極北にいるのがいわゆる「ボーダー」ことBPDの人々だろう。)
このような人々には接客サービス業だとか、困難な環境にある人の支援だとか、多くのメンバーからなるプロジェクトのリーダーだとか、人の親だとか、そういうことをやって欲しくない。いずれの場合にしても、社会に対する悪影響が大きすぎるのだ。特にこういう人が人の親になるというのは私たちの社会の悲劇である。