別に動物愛護が悪いと言っているわけではない。むしろ動物は保護されてしかるべきだと思うし、保護活動に勤しんでいる方々は漏れなく称賛されるべきだと思う。
それでも自分がどうしても「動物愛護」というものに違和感を覚えるのは、彼らの「愛護する」動物とは一体どこまでなのだろう、と考えているからである。
おそらくだが、彼らの家にはゴキジェットがあるだろう。食卓に小蝿が飛んでいれば潰すだろう。
要するに、いくら動物愛護をしているとはいえ、必ず彼らにも「動物の好き嫌い」は存在すると思うのだ。少なくとも自分は犬や猫やその他の愛護活動をしている人間が「ゴキジェット撲滅!」などと活動しているところは見たことがない。
別に自分はこの「生命に対する好き嫌い」を抱くことに関して否定するつもりはない。生理的に無理なものは無理、それは当然だと思うからだ。
確かに犬猫の処分は無い方がいい、それはそうだ。だがおそらく日本中で殺されているゴキの数の方が圧倒的に多い。工事に伴って巣を壊されている蟻の数の方が多い。
「動物愛護」という理念を掲げる人々に、そうやって「救う生命を選択している」という認識があるのだろうか、という疑問がいつも抱かれるのだ。
別に自分はすべての生命を救おうなどと考えている理想論者ではないし、家にはゴキジェットがあるし、食卓のハエを潰す。それでいてネットで猫や犬の動画を見ては喜んでいる人間だ。
ただ、やはり、それでも「認識」はしている。自分は生命を区別していて、「平気で潰してもいいもの」と「潰してはならないもの」に分けている、と認識している。認識して、これがもしかするととんでもない罪なのではないか、と思った上で、それでも区別することを続けている。
小学生?くらいの弁論大会で犬猫の処分を批判する人を見るたびにそういう嫌悪感に陥った。結局「生命が大切だから」批判しているのではなく、「可愛い生命が大切だから」批判しているのだろう、と。繰り返すが別にそれでもいいのだ。「可愛い生命を助ける」ことを選択するのは個人の自由だし、それも一つの善であることには変わりはない。自分が嫌悪感を抱くのは、本当は後者の理由であるのに、まるで前者のように振る舞うことだ。
繰り返すが、別に動物愛護自体を批判する意図も、愛護団体及び活動家を批判する意図もない。認識していようがしていまいが、行動を起こしている人が偉いということは事実なのだから。
「敬遠する」けど「意図はない」とな https://anond.hatelabo.jp/20200110110122 と仲良く喧嘩すればいいとおもうわ
「あらゆる動物を殺すな」みたいな極端なこと主張してる動物愛護家は少ないでしょ。 まあスタンスにもよるけど「必要最低限しか殺すな」とか「殺すときに苦痛を伴う手段を取るな」...