はてなキーワード: おkとは
ミクの歌唱力とかは特に求めていない。「歌詞が聞き取れればおk」ぐらい
こんな歌詞で人に歌わせらんないだろと言うようなシモネタな歌とかニッチな歌のカバーとかを気軽にバンバン聞ける状況が楽しいという感じ。
(シモネタ系だと「メンスでごめんね」とか「おちんちんランド」とか、ニッチ歌のカバーだと「チャージマン研」の主題歌を歌わせてみたとか。)
あと「それが魅力?欠点の間違いだろ」と言われるかもしれないが、歌詞と歌詞の切れ目の「息継ぎ」が無いのは個人的に大きい。
「息継ぎ」の度に、なんとなく冷めるんだよなあ。(ライブとかで歌っているときの息遣いとかは大好きなんだけど、イヤホンで聞く場合はどうしても気になる)
以上、「聞き手」としての回答になってない回答でした。
この、「ネタバレ食らった程度でつまらなく感じるような作品はもともとたいしたことない作品だ。本当にいい作品はネタバレしても面白い」論を見て思ったんだが、
こういうタイプの論調って他でも時々見かけるよな。
例えば「他人からのバッシングでつぶれてしまうような人間の才能なんてもともとたいしたことない才能。本当に才能があるやつはどれだけバッシング受けてもひとりでに立ち上がってくる」とか。
こういう論調って、何か胡散臭いんだよね。なんつーのかさ、こういう事言う奴って、単に面倒臭いだけなんじゃないの?あと、責任回避したいだけじゃないの?って思う。
大体、「本当に才能あるやつ」とか「本当にいい作品」とか、その「本当」って何よ、って話になる。「本当に」ってのはマジで曲者。なんか説得力あること言われた気になるけど、実質結局何も言っていないよな?本当にいい作品ってどんな作品?っていえば要するに、今回の場合でいえば「ネタバレしても面白い作品」であってさ。そりゃトートロジー的っつーか。無意味極まりないっつーか。
実際には、色々だろ?いい作品、ってのもたいがい曖昧な言葉だけど、それを敢えて使って言うと、「ネタバレ食らったら魅力が半減するけどいい作品」とか、「ネタバレ食らっても特に面白さは変わらない作品」とか「ネタバレしなくてもしてもどっちみちつまらん作品」とか色々あるわけで。そこんとこを、いちいち考慮したり判断するのが面倒くさいから、いっぺんにまとめて「本当にいいやつはバレしてもおkだろ!多分」的な感じでやっちゃってるだけじゃないの?
才能ある奴は何しても勝ちあがってくる理論でもそうだけど、こういう「本当にいいやつは何をしてもびくともしない」系の論って、だから面倒なだけなんじゃないのって。本当にいいものを壊さないように、思慮したりするのが面倒だから、「いいものは何をしても大丈夫なんだ」ってことにしてるだけなんじゃねえの?そりゃさ、「ホンモノは何をしても大丈夫!100人乗っても大丈夫!」ってことにすりゃ、楽だけど。そう都合がいいもんかね?
あと、「本当に才能ある人間はバッシングしてもひとりでに立ち上がってくるものだ」的論も、単に自分らがバッシングする正当化のための論じゃねえの?って思う。「ホンモノは何をしても大丈夫」論って、裏返すと「だから何やったっていいんだぜ!!オラオラ!……あ?才能が壊れる?作品のよさが損なわれる?ハン!俺らのそんな攻撃で壊れるようなモンなんざ最初からクズなんだよッ!!」ってことの正当化だろ?実際、そういう論調もあるし。「おいおい、あまり作者を攻撃するなよ」→「こんなバッシングで潰れる漫画家ならたいしたことねーんだよ」みたいなやつ、普通にあるだろ?結局そういうバッシングだのネタバレ行為だのを正当化するためだけの論なんじゃないの?
そうそう都合よくいかんだろうよ。んなさあ、「ホンモノは俺らが何をしようが輝いてくれます」なんてうまいこといくわけねーじゃん。都合が良すぎる。実際には色々だろ。そこんとこ、個別に考えることをはしょってるだけちゃうの?でも、はしょるならはしょるで「だから、なんか色々あるから一応全部バレ禁止ね!(バレ禁止ってのはそもそもこういうことだろ)」でいいのに、そっちには行かないわけだろ。だからやっぱり面倒くさがりなんじゃなくて「俺はバレしてぇ。でもなんかうるせえ奴がいる。そうだ!バレの正当化理論を考えればいいんだ!」な思想なんじゃね?
信仰心的なものはあると思う。結婚して自分の家庭を持つようになったけど
ご本尊と仏壇は持ってきているし、勤行や唱題(←お経を唱えること)は自分にとって大事な時間。
唱題で元気がでると感じている。
家庭訪問やめれ。
会合にはでないつってるだろ。
「この人をすくってあげなくては!」みたいな目でいつまでも玄関先でねばんのやめろ。
手紙いれんな。
ようやく帰して吐き気に襲われた。
比喩とかじゃなくて、文字通り吐くかと思った。
ストレスってほんとうに体にでるんだなあと妙に感心した。
本当にこのままじゃ自分のためにならないと思った。
来るなって言ってるのに来る人間に対してストーカーを取り締まる法律とかって適用できるのかな?
男女の痴情のもつれじゃなくてもおk?
こっちがご本尊とかを学会に返さなきゃだめかな?
とにかく、もうこれ以上こんな苦しみをなめないためにも
http://anond.hatelabo.jp/20090222224732
のブクコメを読んでいて長年疑問に思っていた思いがようやく氷解した。どうして自分が今までいわゆる「大学人」に対して反感のような思いを抱いてきたのかが。
彼らは「大学は学問の場である」っていうドグマに囚われすぎていて、「何か学問らしきこと」さえやっていればそれでおkと思っちゃている節があるんだ。まるっきり眼が社会に向いていないのよ。まるで日本の「なんとか道」の考えそのまま。
「物理学道」や「数学道」、はたまた最も社会と繋がっていなければいけない筈の経済学ですら「経済学道」に昇華させてしまう。頭の中で勝手な世界を作り上げて、現実とかけ離れた美しい学問の世界があるものだと妄信している。「道」は辛い修行を経なくてはいけないから、人生を楽しむという発想はまったくない。
「我々の国では、Joy of Life (生きる喜び)を何よりも大切にし、それがすべての価値の基準になっている。それを僕らはJoie de vieと言うのだが、それがこの日本に来てからこの国には全くないのではないかと、僕はいぶかしく思ってきた。」「街を歩いている人も、電車の中の人も、生気がなく、何かを楽しんでいるようには到底見えない」「それはどうなんだ、ホントのことを教えてくれ」(http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20090222/1235270656)。
研究は「道」なので、当然生活のすべてをささげなくてはいけない。
「道」だから大学、大学院という教育サービスの受け手(要はお客さん)である学生に対して、「学問は自分で掴み取るものだ」なんて厚顔無恥な台詞が平気で出てくるし(http://d.hatena.ne.jp/mfurubayashi/20090227)、学生を自分の弟子か何かと勘違いしてしまう。「道」なので、学生が学位を取ったら当然師匠である自分には謝礼を支払うべきだと考えるし、それを恥ずかしいことだとすら思わない(http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200902040233.html)。
自分の研究室に在籍していた人間のことを「弟子」なんて言葉で言うのは、日本人だけ。恥ずかしいからやめような、それ。講演などで、「私は海外のなんとか大学のなんとか学の権威のなんとか教授の弟子でありまして」なんていうのは、聞いているこちらが赤面してしまうよ......。
社会を見ていないから、研究は当然「役に立たない」。むしろ役に立たないことを何かの誇りのように考えている節すらある。企業がドクターの学生を嫌がるもの当たり前の話。「一生懸命お勉強しましたねー。んで、君何が出来るの?」って聞かれても、何も出来ないんだもん。それを指摘されると真っ赤な顔をしてファラデーを引用する。
「生まれたばかりの赤ん坊がなんの役に立つのでしょうか?」
そうだね。未来がどうなるのかはわからないよね。でも、多分君の研究はうちの和室にある畳の目の数と同じくらい、どうでもいいことなんだよ、社会にとって。君の口から出るファラデーの台詞は、今ある現実に少しでも影響を与えたくて、散々苦しんだ末に出てきたものじゃないんだよね。君は自分でもよく意味の分かっていない偉大なファラデーの台詞に甘えているだけなんだよ。
研究に莫大な国からのお金が出ているのは、それが社会に対して有用であるからなのに、成果を還元する気がない。というよりも、還元できる成果がない。先の見えない研究を延々と繰り返すだけ。何の戦略もないし、思想もない。なのに、武士と同じで、食わせてもらって当然と考えているんだ。
アメリカでは修士以上の学生に対しては、生活できるだけの収入が保障されるけれど、日本の学生にはそんなもの払う必要はない。弟子ですから。向こうでは大学がきちんと産業とコミットできていて、研究が真に意味のあるものになっているから、修士であろうがなんだろうが、きちんと収入を手にすることが出来る。博士号をとった人間が、きちんと成果を社会に還元しているので、いい流れが生まれている。就職もきちんとできるし、学歴が高ければ高いほど、よりよいポジションを得ることが出来る。
日本では弟子が就職活動をしようものなら、「師匠」が必死に邪魔をする。研究のほとんどをろくな審査能力のない国というパトロンに頼っているので、学生を企業に送り込むことが出来ない。一度教授になると、いつまでたっても大学という唯一の居場所にしがみ付く。そして、そういう人間しか大学に残れないから、負の連鎖が続きますます大学は陰湿でヒステリックな場所になっていく。騙されてドクターに進んでしまった学生は、すぐに自分の現状に気がついて愕然とする。必死に就職活動しても、ほぼ間違いなく修士の学生よりよい条件で職を得ることはない。
まともな人間はある程度割り切って、あっという間に就職するか、海外の大学院に行ってしまう。
何十年たっても、大学は常に変わらない。
たとえばある1人の人間が一方的に何かを主張しているが、
それはその人間だけが思い込んでいた何らかの誤謬であった場合については問題はないわけだな?
たとえはよく分からんが、そうそう「こうしたらいいんじゃない」みたいなのが出せないのは分かった。
その上でさらに質問。
どっちが「最低限つかえるWebディレクター」として育成しやすいかな?
もちろん人の資質の占めるウエイトが大きいのは分かるが、今回それは勘案しないで。おねがい。
学生時代にアメリカに旅行した時、「英語わかんないけどジェスチャーでなんとかなるだろ」
って軽いノリでブラブラ観光に出かけて、実際最初のうちはそれなりになんとかなってたんだ
色々観光して歩いてるうちに小腹が空いてきて、レストランか何か探して飯を食おうと思ったところに、
ファーストフードっぽい外観の店があって、看板に「なんとかヌードル」って書いてあるのを見つけた
ちょうどいいやってことで入店して、「ワンヌードルプリーズプリーズ」とか適当に言ったら
一応注文として通じたらしく、店員も「おk」って言ってオーダーしに下がってった
で、なんかテーブルの上になんかご自由にどうぞ的なものが置いてあったから適当に食って待ってたら
「Tack a nut a better 'n death car ?!」
って18センチのまま一気にかましながらものすごい勢いで怒鳴られて、
わけもわからないまま店追い出されてしまた
「俺はその評価だと思っているんだからそのとおり言うよ。」って言っておけばおk