はてなキーワード: 清水の舞台とは
若干事情は異なるけど、俺の場合は嫌な人というか性的に受け付けない相手(異性)と結婚しなければならないような状態で、正直うざい。
老後が不安とか子どもが欲しいとかいった可愛らしい動機はなく、単に社会的体裁のため。
とにかく独身者には住みにくい世の中なんだよね。
同様に偽装結婚をしている人がチラホラいる業界なので(40代以上で同性愛の人は基本そう)、
そんなのが当たり前なのかなと、なかば諦めている。
でも、一般的に職場の人やら両親からには喜ばれることなので、
偽装をしている人はそれなりの覚悟はするけど、後悔(?)はしてなさそう。
していたら、離婚してるだろうし(している人も多いとは思うけど)。
ただ、その覚悟が「俺」にあるのか、正直悩む。
結婚相手のことを幸せにしてあげる自信なんて、自分が幸せでなかったらないからね。
はてなは任天堂と同じ、「娯楽産業」というカテゴリで括ることができるかもしれません。
しかし、はてなが任天堂のやり方をなぞれば成功するのか?答えは「No」です。
まず既存のコントローラーを捨てたことについて「自殺行為」と表現していますが、これは大きな間違いです。
任天堂がWiiとDSで取った作戦は「負けても絶対に死なない」でした。
WiiもDSも発表当時の常識からしてみれば、「新ハード」としては誰もが驚くほど低性能でした。
これは可能な限りコストを下げることで、失敗したときのリスクを最小限に抑えたからです。
Wii・DSはたとえ他社に負けて最下位になってもハードが売れれば収益とんとんかやや黒字、
あとは任天堂の自社開発のソフトを売れば自給自足で生存できる、そういうハード設計でした。
加えて任天堂には数年間は一切何もしなくても社員を養えるだけの資産があるといわれています。
しかし、それは飛び降りても死なないだけの圧倒的な体力があったからです。
しかしこれらはあくまで「ゲーム」です。任天堂は自社の強みはゲーム・娯楽であると考え、
一貫して「ゲーム」以上の物は作らないようにしています。(この辺りの発言はWebに有ったはずですが、失念しました)
自分の過去である「ゲーム」を捨てたのではなく、逆に「ゲーム」の定義を拡大することで、新しい事を行う。
似ているようですが意味は全く違います。
この点ははてなも真似ることができるでしょう。
はてなを丸っきり捨てるより、はてなが確実に勝てる範囲を利用して「はてな」の定義を広げることで、
『普段インターネットで遊ばない人や、インターネットに関心のない人に
インターネットが自分に関係のある物として触ってもらう』方が得策でしょう。
任天堂関連を追っている人なら気付いたかと思いますが、「自分に関係のある物」とは
Wiiがレボリューションというコードネームで呼ばれていたときからゲーム離れに対する戦略として何度も取り上げられているキーワードです。
私たちは、「"携帯型か据置型か"という区別ではなくて、ゲーム機は生活の中にいかに自然に入っていけるか否かということで考えてはどうか」というふうに、今思っています。
もちろん、ゲームの中で、日常生活とはまったく違う別の世界に没入して遊ぶゲーム…、まあ任天堂で言えば、例えば『ゼルダの伝説』なんかが典型的なゲームでしょうけれども、そういうものはそういうもので、存在価値がありますし、そういうものを待ってくださっている世界中のファンの皆様に向かって、今後も、任天堂はそういうソフトを作っていくべきだと思うんですね。
しかし、これからゲーム人口をこれから拡大していこうということを考えたときに、全く別な世界…日常とは無関係な世界で遊ぶゲームだけではなくて、日常生活の様々なテーマと繋がっていて、日常生活の中に浸透していくようなゲーム、そういうものがあることで、生活の中にゲーム機が自然に入っていくかどうかと。
まあ、言い換えれば、結果、そのテーマに多くの人が興味を持てるのかどうかということが重要ではないかと思っております。
たとえば先ほどの、えー、DSの例で言えば、なぜ脳トレは売れたのか、なぜえいご漬けは売れたのか、なぜ常識力のソフトはタイトル(『日本常識力検定協会監修 今さら人には聞けない大人の常識力トレーニングDS』)を聞いただけで欲しいと言ってくださる方が沢山いるのか、それは、日常生活と関わりがあるから…日常生活の中に自然に入っていけるテーマだからというふうに私たちは考えています。
http://n-styles.com/mt/mt-trckbk.cgi/1501
はてなやはてなのサービスに読み替えると見える物があるかも知れません。
ただし任天堂の場合、問題が「ゲーム離れ」であり、アプローチする相手にゲーム経験がある、
あるいはゲームについて多少は知られている、という前提なのに対し、
はてなの場合はサービス内容がそもそもアプローチ相手が全く何も知らない可能性がある点は注意点です。
まとめるつもりは無いので、この辺りで。
結局はてなは「はてな」にしかなれないでしょうが、未来の「はてな」の定義が
「なんかよく分からないけど便利らしいよ。」とかになってると良いな、と思う次第です。
急に自分の言動も態度もイヤんなった
そしたら好きだったはずなのに、つけてる香水が
臭いように思えてきて、ついでに自分には全然似合ってないような気がしてきた。
初めてのお給料で、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったワンピース、
一番のお気に入りだったのにふと今日窓に映った自分を見たら
全然可愛くねーなって一番嫌いになってしまった。
気分が落ちてきたら、元気出してねって気持ちをこめて友達に送ったメール全部が
絵文字つけただけの言葉じゃんくだんないって思えてきた。
鏡を見たら、大学入学した時に母が送ってくれてからずっとつけてるペンダントが
なんだかダイヤに見えない、もういっそ外しちゃおうかななんて思ってしまった。
足元のブーツは去年一目ぼれしたけどあまりに高くて、
もう色あせて見えてきてしまった。
何したって私が綺麗に見えるわけがないってごしごし擦ったら
マスカラごと睫毛が抜けました。
突然、好きだったものが全部全部嫌いになってしまった
気分転換に何をすれば、また自分を大事に思えるようになるだろう?
ちゃんと自分を好きって普段から思える生活に早く戻りたい
オタク仲間の友人から突然告白されたことがある。正確には突然というわけではなかったのだけど、まさか告白してくるとは思っていなかったので、予想外という意味では突然と言ってもいい。人から告白されたのは当時30過ぎになる人生の中で初めてであった。
まず前提として、彼も私もかなり重度のオタクで、恋愛よりも恋愛シミュレーションにうつつを抜かしている人種である。彼は恋愛経験皆無、私も毛の生えた程度といったところだろう。だいたいその年で独身彼氏無しというあたりで察して頂きたい。ただし私には他に好きな人がいて、フラグを立てようと必死になっている真っ最中であった。
不遜に聞こえるかもしれないけれど、彼に好かれているな、というのは分かっていた。清水の舞台から今にも飛び降りそうな文面で食事に誘われたり、熱心にメールを頂いていたりしたからだ。周囲の人々がニヤニヤと世話を焼きたそうにしているのにも気づいていた。ただ、まさか告白されるとは思えない程に、彼の態度はこれから私という30過ぎの女を落とそうとしている人間の態度ではなかったのである。確かに食事に誘ったり、メールをするという意味では積極的だと言えるのだろうが、それは形だけのことで、もっと大切な、自分を好きになって貰おうという姿勢に欠けているように思えた。
そもそも彼とはゲームやアニメの話ばかりしていて、彼がどのような生活をしているのか、何を考えているのかは知らなかった。私自身、好きな人はいるものの見込みは少なく、彼を好きになれるものならいっそその方が幸せかもしれないと思い始めていた。繰り返すが30過ぎているのだ、それぐらい打算的になっても許して貰いたい。だから食事の際に少し水を向けてみた。
すると彼は食事の間中、俺はこれまでの人生でこんなダメなことがあって、人と上手く付き合えなくって、オタクで収入も少ない的なことを延々と私に話し出したのである。何なのだこれは。私は彼から「こんな俺どうですか?」とプレゼンテーションを受けている立場ではなかったのだろうか。何故、営業マンから欠陥点ばかりを聞かされなければならないのだろうか。別に取り繕えと言っているわけではない。せめて彼といることで何か楽しいことが起きそうな、安らげそうなプラス面を見せて欲しかった。恋人がマイナス面を見せても受け止められるのは、まず先に「好きだ」という感情があってのことだ。ヘタレが好きなのは2次元限定である。以降の彼との食事は、全くもって楽しくなくなってしまった。
これが噂の「ダメな俺を丸ごと受け止めてくれ症候群」なのか。言っておくがそんな男性が好きな女性は母親と一部のドM女性しかいない。数度の食事を重ねて、彼は私の「一生懸命なところが好き」(主に乙女ゲー方面に)と言ってくれたのだが、きっとそれが総てではないのだろう。交友範囲の中で唯一の女で、オタク趣味を認めてくれて、母親の代わりでもしてくれそうなのが私だったからじゃないのか。そんな捻くれた見方をしなければならない程に悲しかった。私自身、きっと無理だろうと思いつつも、好きな人に営業をかけている時期だったので余計に悲しかった。
好きな人から好きになって貰うために、努力や気遣いが必要だということを私は知っている。「彼とは素の自分で付き合える」「彼といると楽」と言っている友人が、その関係を維持するために「下手くそ」だと言えなかったり、自分が疲れていても彼の愚痴を聞いたりしていることを知っている。それは彼を想えばこそだろう。思い返してみれば、結婚40年目になる両親ですらそうだ。「努力と気遣いが必要な恋愛関係は本当の恋人同士ではない」と言える人は幸せだ、そんな対人関係を築けているということなのだから。
おそらく彼と私が付き合ったところで、心が豊かになるような生活はおくれなかっただろう。努力する気がない人に対して努力をし続けられるような母性は、私にはなかった。ゲームの話が出来るのは楽しいかもしれないが、恋人から得るものがそんなものだけというのは寂しすぎる。結局、好きな人がいると言ってお断りしたのだが、純情な○○青年の想いをすげなく断った身の程知らず、という評判だけが回り回って好きな人にまで届いたようで、その後、好きな人を口説き落とすまでさらに1年に及ぶ努力をしなければならなかったことを追記しておく。
ガキの頃のキャラ設定上、同級生飲みとか、同窓会とか、その他プライベート飲みでもだいたい俺が飲み会を開催するんだけど、30歳に片足突っ込みかけてきた中で、どうやら可処分所得に大きな違いが生まれてきた。
たまたまベンチャーの設立に携わってそのまま居座った結果、俺の年収は普通に企業勤めしてた時の倍になってた。
それはそれでありがたいんだけど、一方で飲み会の場所選びに非常に困る。
同級生の中には俺の年収半分ぐらいのヤツだっているし、まぁ半分とは言わないけど結婚してお小遣い制になったやつもいる。
そういう使えるお金に違いが生まれると、一次会の予算は一人5,000円なのか?8,000円なのか?10,000円なのか?
いやいや、3,000円なのか?
この辺のサジ加減が恐ろしく難しい…
同窓会で幹事やった時、これでも努力したのだが、ホテルの宴会場で一人6,000円でやった。
それでも「高いから行けない」って言われてこないヤツもいた…
学生時代は、みんな和民や白木屋で満足してた仲だったんだけど、満足度の違いが浮き彫りになってきたんだなぁなんて考えたり。
金の大小で人間は測れないけども、金の大小で経験の有無は大きく変わると思う。
さすがに俺も清水の舞台から飛び降りる覚悟で一泊だけリッツカールトン泊まったけど、俺の同級生でそんなヤツはいない。
でもその経験から俺はもう絶対、東横インやそれこそカプセルホテルには泊まれないなって事だけは分かった。
そういう事って誰にも理解されないからさすがに言いはしないけど。
金があることで様々な経験をし、「あ??俺、もうそこまで基準値を落とせないわ」みたいな事の差異が大きくなってきて、そして疎遠になるのかなぁ?
そう思うと悲しいけど、一つだけこの件に関しては、以後一切呼ばないって決めた事があって。
合コンの値段設定で会計の時に「高い!女から取ればよくね?」って言われた時に「あ??コイツとは一生女を介在した飲み会には連れて行くまい」と思った次第。
ガキの頃の気分のままじゃ付き合ってられないし、付き合い方は見なおしていこうと思った。
「自由さと小回り」ってのはベンチャーじゃなくて中小企業でしょう。ベンチャーはやっぱり「清水の舞台からI can flyする」企業だよ。
で、中小の、小回りで障害物を回避しながら時期を待ちつつ、絶好の機会とみるや飛び出せる自由さがベンチャー向きなわけで。あと、飛びきれなかったときの被害が小さいことも向いている理由だけれど。
世の中、色々なところから下請け仕事をもらってまわしている中小が多いと思うけど、そういうのはベンチャーとは言わないよね。ただ、それは機会をうかがってるだけかもしれないが。
要は飛躍のために飛び出そうとしているか、だろう。
こんなことをトラバで書くのもどうかと思うけど、あなたに触発されたので自分も友達のことを書く。
私には友達が居る。ほとんどが地元の友達で、小学校中学校の頃の友達だ。今は地元を離れて23才にもなってまだ大学生をしているけれど、帰省をした折なんかに彼ら彼女らと話すと、それが1年以上ぶりの再会だったとしても昔と変わらず話ができる。
正直な話、彼ら彼女らと久々に話したりするときになると、ものすごく不安になる。みんな地元でお互いこまめにやり取りしながら生活してて、そこへぽつんと帰省してきた私に彼らの輪の中に入る余地はあるのだろうか?と。だから連絡を取るときも、あれこれ頭の中で葛藤をしてそれから清水の舞台から飛び降りるつもりで電話なりメールなりをする。相手は私のことなどどうでもいいと思っているかもしれないけれど、私は会いたいのだし、その気持ちは形にしなければ伝わらないと思うからだ。
でも実際に話してみると、幸いなことにそれは杞憂に終わる。本当にありがたい。
なんで自分に友達が居るのか?というのは何度となく考えていたことだ。私は性格が悪い。最近はさすがに押さえることができるようになったが、小学校中学校の頃は腹が立ったら嫌みや罵倒何でもござれで口喧嘩をよくした。それで友達を泣かしたりしたことも何度かある。それなのに今も付き合いを続けてくれる。
こういうことを考え始めると、単純に彼ら彼女らは私を腫れ物のようにして、それで持ち上げてくれているだけなのではなかろうか?とも考えてしまう。でも、実際に話していると、本当に友達としてつきあってくれているみたいだと感じられる。
だから、友達の真意がどうであれこうして話をしてくれているだけで十分だと思うようにしている。もし内心裏切られていたとしても、私はそれだけのことをした人間なのだと受け止めようと心に決めている。
私に取っての友達とは、そんな感じ。
「なあ、ゆき。バレンタインのチョコの作り方を教えてくれないか?」
平静通りに言えたと思ったが、実際の所、どうだったかはわからない。心の中ではそれどころではなかったから。
なぜかあたしはチョコを貰う機会が多かった。女なのに、だ。確かに悪い気はしなかった。元々甘い物が好きではなかったので食べるのは苦労したが、好意を向けられて悪い気はしない。でも、ほとんどは好意の、友情や親愛としてのチョコだったけど、中には本気であたしに愛情を持ってくれた子もいた。けど、あたしには恋だの愛だのって桃色なことはよくわからなかったし、彼女たちにそれを持てそうもなかったから、断った。彼女たちは取り乱すことはなかったけど、そうですよね………でも…ありがとうございました…!と、涙を目に浮かべながらも、精一杯の笑顔を作って返事されたときはさすがに心が痛んだ…
そういったわけで、あたしにとってのバレンタインとはそのようなもので、誰かにあげたり、ましてや告白するものではなかった。でも、今年はあげる立場になりそうだ…率直に言えば、好きだって伝えたい人ができた。
彼女たちには悪いが、あたしに告白して泣く少女たちを見て、泣くのならば告白しなければいいのに、と思ってしまったことも少なからずあった。でも、いきなり告白されて、いきなり泣かれたあたしの立場にもなってほしい。あたしが悪いのか?と思ってしまうこともあるだろう。でも、今なら彼女たちの気持ちがわかる。好きだって伝えたい…伝えなければ胸がはりさけてしまいそう…あたしがこんなこと言うだなんて知ったらみんなに笑われてしまいそうだけど、好きだって気持ちを知った今は心の底からそう思えるんだ…
でも、料理一つ作れないあたしがチョコレートなんて作れるとは思えない。自分一人でやろうとも思ったけど、家庭科の時間に小麦粉と卵と砂糖で毒物を作りあげてしまったあたしには到底できるとは思えない。クラスや部活のやつにもこんなこと恥ずかしくて頼めない。だから、あたしは、いろいろと恥ずかしい気持ちを我慢して(一週間前から言おうと思ってたけど一度も言えなかったし風呂やベッドの中でシミュレーションしてもいつも顔が真っ赤になって最後まで言えなかった)、幼馴染みのゆきに、清水の舞台どころかランドマークタワーから飛び降りる思いで、頼んだ。ゆきは料理が上手だし、それにゆきならあたしがチョコを作ると言っても、驚きこそすれ馬鹿にしたりなんて絶対にしないからだ。絶対に。ゆきはそういうやつだから。