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2010-12-05

一つめ

しい何かが発見されようとしている。

俺はメッセージを読み取る。

ひたすらに、感じ取る。

理解しようとする。

瞳に映しだされる未来

俺はもう逃げ道を失っていた。

本気で愛していた。

何もかもが、壊れていきそうだった。

ブッ壊れてしまいそうだった。

何もない空間へ放り出された。

俺は自動的に中枢へ送り込まれる。

太陽が闇に消え、理解は飛んでいく。

何もない世界が俺を包んでいく。

もう二度と会えないものに溢れて

Tシャツで走っていた夢を見ていただけのことよ。

何もミラずに。何もせずに手に入る幸福なんてあるわけがない。

何もせずに金を稼ごうなんて、そんなの無理すぎる。

じゃあどうする。俺は俺を信じている。

かなりの速度で、俺は俺になろうとしている。

破壊衝動。気持ちの悪さ。全部全部引き出して、俺はあるく。

ぐっとこらえる今一秒。サイトファクニティにごめんなさい。

ア・イ・シ・テ・ルア・イ・シ・テ・ル愛してた

愛捨てた。どうでもよかったの。

でもね。ポテトは食べたくなかったの。

大好きゲッチュー君だけに愛を込めて。

ルックルックアフターミー。

私ぞんざい何もできませんが来たきゃくれば?

ナイスロックフェスティバルロックンロールフェスティバル

ダイヤモンド・シティ。

ロックンロールフェスティバル。俺は誓う。

俺は願う。ひたすらに感覚を研ぎ澄ます歴史が俺をつくろうとしている。

闇に消えていった答え。誰のものかも分からない手紙

宛のない手紙のように、君も誰かのように、僕たちはあるように。

永遠が蹴飛ばした星は未だ誰のものでもないようさ。

いつまでも言いたかったの忘れてしまった。

やばい。超(*TーT*)泣けるぜ・・。思い出は記憶を呼び覚ます

さぁ、これがバイオテクノロジー。全てを越えていく、一瞬の光。

はいつか消えていく一瞬の光だから。

でもいつも笑っていて

僕は時空を旅をする。カマンベールチーズになっていく。

果てのない戦いを挑もうとする。僕は僕になる。

全てが一つ分の地球におさまる。

僕はロボハートストーリー

まるでロボットのように文章を描く。書く。書いていく。

なぜ。それは拘らない。意味が分からない。それでもいい。

ロックンロールは止まらない。いつまでも君を忘れない

大好きだから。元気いっぱいだから。

権限自由自在だから。どうしてもっていう時は思い出して。

破壊絶望に変えながら、世界は今も回り続けている。

破壊の方針を変えながら、理解は更に高みを目指す。

全部、全部必要だからそこにある。

闇に消えていく悲しみがある。

理解を越えたものは、どうやったって分かりづらい。

話しづらい。きつい。苦しい。悲しい

闇に消えて言った記憶はいっている、今はまだ死ぬ時じゃないと・・。

元気を出せば理解もできる。俺は逃げ出したんだ。そう、誰にも見つからずに。

俺は最強。最高。少しセンチメンタル。そして、永久に死なない。

俺は死なねぇぜ・・相棒

死なねぇよ。受け継がれる意志。俺の意志はやがて受け継がれ、誰かの元へ届く。

俺が死んでも俺の夢は叶う。病んだ国民感情もきっと救えるさ・・

誰かの気持ちが宿る。気持ちいいほどだ。それは、正確にはそれこそは、

死の秘宝。闇と消えた伝説。理解。ダンブルドア

ああ、死んでしまった。これはどういうことなのだろう。楽しみが減る。

お腹だって減るもんねぇ~~~~~~~~~

ミギャラース。

瞳を閉じれば聞こえてくるだろう。

笑っていて。

とても、とても儚い想いだ。

人の夢と書いて儚いのはどうしてなのかを知ってますか。

どうでもいいけどどうでもいいよ、

ふざけた文章に終わりなどないのよ。

いつもどおり。いつも通りのこの世界

破壊衝動。何もない。世界が終に近づいていく。

核戦争が起こり、、人類は滅亡してしまう。終わってしま

何もかも、何もかもが終わってしまう、その前に起こすんだ革命

No more 核。俺はひたすら書く。

宇宙戦争、私もうやめた破壊工作やめた。

途中でどろんでろんになりそうな幅で、もうちょっとこっちがわ。

どうでもいいけど俺の話を聞けよ。聞いてくれよ。

闇は光のためにあるんだぜ。

どうでもいいけどコッペパンください。

ああ、ああ、ああ、素晴らしい

最高のショーだとは思わんかね。

見ろ!人がゴミのようだ!

ムスカ大佐は滅びぬ。何度でも蘇るさ。

口ずさむよ想い出の歌。

蘇るよ。色あせぬ日々。

なんとなく常連

なんとなく君が代

ああ、平行線が取れないなぁ。

言葉の端々に俺が見え隠れするなぁ。

アジカンレミオロメンを越えられるのか。

どうでもいいけどジャパニーズバンド。素敵だよね。

メジャーインディーチラリズム

ファイトスタイルエンジャッジメント。

僕にとっては余白でしかない文字。

文章の空白を埋めるただの小石に過ぎないというのなら。

それこそ無駄じゃないか

2010-10-19

君よ、安易に技術者となることなかれ。

世の中では物を作る仕事というのは製造業カーストの一番下であり、物を作らせる人間がより高給をもらい、その作らせる人間たちをまとめあげる人間こそ最も偉いとされる仕組みが出来上がっている。

そして一般に、彼ら製造業組織を選りすぐり投資する人間こそ平均して最も高い収入を手にする事が出来る。

そこには技術的知識など選択科目の一部門程度でしかなく、学歴とセンスと口先とコネ重要とされる世界である。

残念ながら、生涯技術者希望する人間に裕福な未来はない。

日本の誇りとする技術など、実はそれほど価値が無く儚いものである。

技術の優位は10年どころか5年もあれば容易に覆ることを肝に銘じよ。

君よ、安易に技術者となることなかれ。

2010-08-27

儚いもんだ

会社ダメになる時は突然やってくるもので、というか予兆はもちろん感じていたが、決まると津波のように押し寄せてくるもので。

来期までもたないだろうと思っていたら、今月末にクビになる模様。

まだ正式発表はされていないが、まず間違いなさそうだ。

事実上倒産に基づく解雇だから、今月の給料はもらえるがそれ以上は望むべくもない。

今やっている仕事をどうするのか、上の人間が考えているのかどうかは知らない。

俺の仕事は事務方なので、残務処理なんぞもあるはずなのだが、どうなるものかわからない。

そもそも上が何も考えていない状態なのに、どうやら今月末スタッフ解雇しようと考えていることだけが判明しているのだから。

本当は自分のできる範囲で不義理をしたくないものだが、仕方ない。

もともと斜陽産業だったし、今までもったのが不思議なくらいだ。

さて、次の仕事が見つかるかどうかだな。

大変は大変だけれど、この状況になったおかげでずいぶんと気が楽になった。

2010-08-25

2010年8月25日水曜日) 「さようなら

忘れもしない今年の5月18日武蔵野赤十字病院循環器科医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。

確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIPET-CTなどの精密機器検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。

宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。

一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。

手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書最後サインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。

ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。

妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれカレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界シーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。

少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい

さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師看護師ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。

生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回り人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。

死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメ世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。

出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏わがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。

私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。

しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。

自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。

一番の心残りは映画夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏原作脚本キャラクター世界観設定、絵コンテ音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。

私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏アニメーション監督としても幸せ者でした。

両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。

それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。

両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。

ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました

親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。

両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。

最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。

気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。

そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。

さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。

じゃ、お先に。

今 敏

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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565

無断転載しました。ごめんなさい。

2010-07-28

授業中に脱ぎだした女がいた。

大学生だった頃の話。

僕が通っていた大学はいわゆるMARCHに属するとこ。

文学部なんだけど、その当時、自分の好きなことを追究できるコースが存在した。

そのコースに在籍している学生は、ちょっと変わった奴ばかりいた。

ヲタだったり、既に仕事をしている人だったり、ほとんど授業に出てないと思ったら“草”で捕まっていたり。

講義も、「アニメ論」「美少女戦士論」や映画を見たり、美術に触れたりと、

普通大学の授業とはちょっと違っていた。

卒業の際は、卒論卒業制作を提出しなければならなく、

僕はその当時は既に友人らとアパレルブランドを作っていたので、

そのブランドPVを作って提出した。

確か、その卒業制作の中間発表会だったと思う。

ある女子生徒の順番になったとき、教室にスペースができ、

真ん中にひとつだけ机が置かれた。

その女子生徒は本当にパッとしない女で、地味でかわいくなかった。

教室が薄暗くなり、窓もカーテンで閉ざされた。

気付くと、その子がシンデレラみたいな格好をして舞い踊り始めた。

バックにはCOCCOの『強く儚い者たち』が流れている。

その女子生徒は、中央の机の上に座り、

そのシンデレラみたいな衣装を丁寧に脱ぎ始めた。

音に合わせてゆっくりと脱ぐ女子生徒は、

いやらしくなく、綺麗だった。

下着姿になった女子生徒は、恥じらいもせず誇らしげだった。

曲がタイタニックテーマに変わった。

僕は唾を飲んだ。

女子生徒はブラジャーホックに手をかけ、

手際よく外した。

かなりの貧乳だった。

まな板に梅干という表現がぴったりだと思った。

さすがに下は脱がなかったが、

まさか大学の授業でこんなことが行われるとは思わなかったので、

貴重な体験ができたと思う。

その女子生徒は現役のストリップ嬢だったらしい。

卒業できたかどうかは知らない。

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