はてなキーワード: ペーパーバックとは
前々から思っていたがあの早川ポケットミステリと言うやつはなんなのだろう
不気味な表紙。やたら紙質の悪いページ。小口の黄色いインク
とても手に取ってもらおうとしている本では無い気がするのだが
紙の質を下げて単価を安くしたペーパーバックと言うにはそれほど安く無い
と言うか単価下げたいんなら表紙は無地でいいだろう。あの抽象的で不気味で所有欲の湧かない表紙にしているのはやはり何か意味があるのか
本を買うときは何も中身だけ買うわけじゃない。
現代の文庫本にも劣る紙質と無価値な表紙。さらにカバーすら付いていない。
正直あんなゴミに金を払う気にはなれないので、今まで一度もポケットミステリを買った事は無い。
というか手に取るのすら嫌なのでロクに読んだ事すら無い
正直あのレーベルが未だになくなっていない事に驚きだ
別れ話がこじれた結果、「別に付き合う相手なんて誰でもいいんだからわざわざ君のような面倒な相手とつきあう必要はない」という趣旨の捨て台詞を吐かれてふられたことがある。結婚の話も出た相手だった。その言葉に私は自分でもびっくりするくらい深く傷つき、立ち直るまでには1年半時間がかかった。一時は誰とでも寝るということをやってみようかと思ったくらいだった。どうしてそう思ったのかはよくわからないけど、そのときはそうすると納得できるんじゃないかと思えたのだ。余計な話になるが、私の両親はとんでもなく保守的な考え方をする人達で、私は「結婚するまで処女でいるように」と躾けられて育った。つまらない冗談のようだが本当のことだ。さすがに20歳を過ぎてそれを額面通り受け取ることはできなかったが、それでも全く無視はできないという程度の束縛感はあった。だから自分がそう考えたこと自体が結構な驚きだった。
面倒な相手という点については、まあそう言いたくなる気持ちもわからなくはなかった。取り立てて異論はない。「面倒だから別れたい」と言ってもらえれば私もすんなり納得していたと思う。問題は「誰でもいい」の一言だった。我ながらいくら何でもそこまでショックを受ける必要はないだろうと思ったが、駄目なものは何をどう頑張っても駄目だった。悲しくてまともにものを考えられなかった。
時間が経って落ち着いてから、私は相手に何を求めていたのだろうとよく考えた。そして相手は私に何を求めていたのだろうと。
小学生の頃よく読んだ「赤毛のアン」シリーズに、何巻目だったかは忘れてしまったが、「人間は20歳くらいでその輪郭が決まってしまう」というような一文が出てくる。私はそれを真に受けて10代の数年間を過ごしたので、20歳くらいまでに何とか自分の方向性を確立しなければならないという強迫観念があった。そして20歳になる頃には本を読んでばかりいる生意気な理屈好きの小娘になった。ある時期からは手に取った本に書いてある映画を見て音楽を聴くようにもなった。村上春樹を読んでビーチ・ボーイズを聞きイオセリアーニやアルトマンを見るようになった。アーヴィングからヴォネガットに手を出し古典を読むようになった。そのうちペーパーバックも読むようになった。新しいものを知るたび少しずつ世界が広がっていくように感じられ、すごく楽しかった。でもそういう楽しみを誰かと分かち合うことはなかった。私の属しているところではそういうのは何と言うか、知的な気取りの一種のように見なされていたからだ。私は1人で図書館にこもり1人でタワレコに通い1人で映画館に出かけた。両親は極端に人付き合いが悪い娘にひとしきり説教を垂れたが、私としてはそれに特段不自由を感じなかった。友達がいて知り合いがいて1人の時間がある、それのどこが問題なのかと思っていた。確かにそういうのは客観的に見てあまり魅力的な姿とは言いがたかっただろうが、私は毎日いろいろと必死で魅力などというものについてじっくりと思いを巡らす余裕はなかった。そんなことについて考える暇があるなら丸善まで出かけて本棚を物色する方が100倍楽しい。私は何かの答えをそれなりに必死になって探している最中で、魅力なんてものは後回しにしておけばいいと考えていた。
一方、というか当然というか、私は「若い女性」という自分の属性にどうしてもうまく馴染めなかった。若い女性であることをすごく窮屈に感じた。そしてその窮屈さをなかなか言葉に表すことができなかった。人並みにフェミニズム関連の本も読んだけど、それはどれも目の前のあまりにもベタな現実とはうまく切り結ばなかった。例えばがつがつと本を読む若い女性は私の周囲にはいなかった。有り金全部を使う勢いで映画を見る若い女性もいなかった。本当にものの見事に誰一人としていなかった(たぶん趣味に関して引きこもっていたせいだろう)。私の周囲では、一般的に若い女性はそういうことはあまり好まないものだという観念が割と根強くあった。そういうのは趣味として上品に嗜む程度に留めておくべきものであって、没頭するべきものではなかった。もちろん若い女性の精神分析の専門家だとか映画監督だとかいう人がいるのは知っている。統計の授業を担当なさった先生はUCLA帰りで、とんでもなく優秀な上におよそ文化と名の付くものなら何にでも博識な女性だった。でも彼女たちは言ってみれば「私の履歴書」みたいなものだった。自分に特段優れた才能が備わっているわけではないことにはとっくに気づいていたので、それらはただ単に雲の上の出来事でしかなかった。たぶんそういうのは選ばれた若い女性だけに許された特権なのだ。それに特権を維持するのは見るからに大変そうだ。そう思っていた。私は自分の置かれた状況にはそれなりに満足していた。家族は私に呆れながらも基本的には好き勝手にさせてくれていたし、友達も私がよくわからない何かにかまけているからといって意地悪をするようなこともなく優しく放っておいてくれる。環境にはずいぶん恵まれたと思っていた。もし私が男の子だったらもっと堂々とできたのかもしれないが、男の子は男の子でいろいろと大変そうだとも思った。ここから出て行きたいとは思わなかった。うまく言えないのだが、どこかにあるはずの理想の地を探すことではなく、今いる場で何とか居心地のいい状態を確保することの方が建設的な考えのように思えた。
そんな状態にもかかわらず、お付き合いする相手が現れることがあった。縁があったのは同級生や会社の先輩といった人達で、音楽や映画の話がきっかけになることが多かった。好みが似ている人とは話がしやすい。自分が基本的に聞き手に回ることしかできないとしても、親しみのある世界の話ができることはとても嬉しかった。社会人になってからはなおさらそう感じるようになった。女の子同士がお茶だけで何時間でも話しまくるように、好きなことの話だけで1日中笑ったり驚いたり考え込んだりできるのは本当に楽しかった。でもそれと同時に、1人で楽しむことを選んだ領域に人を介在させるのは少し怖いことだと感じた。そこでは1人で過ごすことを選んだはずだ。そのルールを変えたりしてひどい目にあったりしないだろうか。でもひどい目ってどういうことを言うのだろうか。よくわからなかった。でも、はっきりと意識に上らないくらいぼんやりとした一瞬の感覚だったにもかかわらず、その嫌な感じはなかなか消えなかった。
相手との距離が近づいてしばらくすると、私はびくびくするようになった。付き合い始めて1年も経つと、仲良くなるきっかけだったはずの私の趣味嗜好のようなものが、次第に相手を苛立たせるようになってきたのがはっきりと感じられた。私が何の気なしに漏らす一言に相手がすごい剣幕で「普通の女の子はそういうことは言わないものだ」と怒り始めることも珍しくなかった。その都度、私がどちらかというと普通じゃないことは私もあなたも承知しているはずだったと思いますが、あなたの言いたいことはたぶんそんなことじゃないんでしょうね、と思いながら黙って聞いた。自分でこんなことを言うのはばかみたいなのだが、私が縁あった男性は目立たないけれどしっかりしていて人の気持ちを察するのが上手な人達だった。どうしてそんなに人当たりがいいんだろうと思ってよく見てみると、誰と接するときでもフェアであることを優先させているのがわかった。女の人からの評判はよく(ただし決してモテるという訳ではない)、マッチョな男の人からは幾分軽んじられているふしがあった。そういう人をここまで怒らせるからにはたぶんこちらに非があるのだろう、と私は思った。だから相手を怒らせそうなことは片っ端から控えるようになった。でも、そうなるとそこにあるのはただの力関係だけだ。会話の内容が当たり障りのない世間話のようなものになり、映画館やレコードショップを避けて出かけるようになり、そうして程なくして別れることになるのだった。
相手の年齢や社会的な属性が違っても別れる理由は同じだった。ある時の別れ際に冒頭のことを言われた。私がショックだったのは、いつの間にか関係がすっかり塗り替わってしまっていたことだった。友達の延長みたいにして付き合い始めたつもりだったのに、それとはかけ離れた関係を作り上げていた。最終的に私は規格外の若い女性でしかなかった。更にショックだったのは、「誰でもいい」と言われて最大限に傷ついている自分だった。仲良しの友達に言われたとしても十分ショックなフレーズだとは思うが、私の受けたショックはそれだけでは説明がつかなかった。付き合っていた相手にだけはコンビニで飲み物を選ぶように私を選んだと言ってほしくはなかった。でもいつの間にかそうなっていた。相手が最終的に私に求めたのは女の子らしい女の子であることだった。それと呼応するようにいつからか私も、私が私であることの担保を相手に求めるようになっていた。いつの間にそれを求めるようになっていたのか、自分のことなのにまるで理解できなかった。付き合い始めた時の気持ちははっきりと思い出せるのに、その時は担保なんて関係なく楽しいことや嬉しいことはその意味を意識する必要もなくシンプルにそれだけだったはずなのに、見た映画に興奮して渋谷から千駄ヶ谷まで意味なく歩いてしまった私は相手に会うとうまく口がきけなくなっていた私とまるで矛盾なく同じ私だったはずなのに、それらがきれいさっぱり失われてしまっていることがうまく飲み込めなかった。でも、お互いに求めるものがそれだけになった時点でそこにはもう役割だけしか残っていない。確かにそうなってしまえばいくらでも代わりはいるのだ。お互い相手にその望むものを差し出す余地がないのは嫌になるくらいよくわかっていた。何だか騙されてたちの悪い契約を結んでしまったような気分だった。でもそれに荷担したのは他ならぬ自分だったのだ。
今はハウルの動く城の原作を読んでるよ。TOEICは五百点台後半。
自分にはちょうどいい感じで、とりあえず続いている。
そこで、今までに気が付いたポイントをちょっとまとめてみるよ。
時間をおいて読み直すと(帰りの列車で読んだ箇所を次の日の行きの列車でよむとか)6割しかわからなかったページが8割以上わかるようになる感じ。8割以上わかると話についていけるので読むのが楽しくなる。
英英辞書はみつけていないけど英和辞書は普通にあった。いざとなったら辞書があると思うと安心できる。
作者が同じだと同じ語彙や言い回しが頻出するので他の作者の物語よりずっと読みやすい。
これ日本語の本では気が付かなかったけれど、数倍の時間をかけて読んでいる英語の本だとわかるものですね。
http://anond.hatelabo.jp/20080224010026←これ書いた人です。
うーん、そうかもねえ。時間も足りてないし、教え方も良くないってのが妥当な話かなあ。
論文が読めるレベルの英語力をつける教え方について持論を言えば、中学レベルの文法を完全にマスターしてもらった上で、つぎに、英語だけで書かれた文章を英語の絵本から初めてペーパーバックのレベルまで多読をすることと、速読英単語とか(まだあれ人気あるのかな?)CD付きの英文をシャドーイングで多音読。で、多読・多音読と同時平行で高校文法のマスターにも手をつけてもらうのが良いと思ってる。
この方法で、たとえば、自分が教えてた高校3年生のヤツは、春に中学英文法もまるっきり覚えてない状態で勉強を始めて、夏休みが終わる頃にはセンター試験で7割5分取れるようになったよ。彼はたぶん一日3時間くらい英語に使ってたから、4月から8月の5ヶ月間で、延べ450時間くらいの学習で済んでる。けっこう効率的でしょ?
ただ、これは「英文を読めるようになる方法」なので、相手に通じる英作文ができるようになるかっていうと、それはきっと、また別の話なんだけどね…
たまクリエイターでもないのに、なぜかクリエイターが搾取されているという人たちがいる。例えば
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51071216.html
http://d.hatena.ne.jp/mkomiya/20071117/p5
とか。だいたいこういう人はクリエイターが搾取されていることにして著作権侵害を正当化し、なおかつそうした不公正な体制を崩そうとしている正義の使者を気取っているのだと思うのだけど、こういう人によれば日本は「中間搾取」なるものがひどいらしい。だから印税について調べてみたが、やはり10%とというのは普通であるようだ。分類によっても変わるが仮にペーパーバックとハードカバーで分類するなら、ペーパーバックで6-10%、ハードカバーで10%から15%。小売価格と卸売価格でもかわり、小売価格だと8%から10%、卸売価格だと13%から16%らしい。卸売り価格は小売価格の60%。ただしこれらは目安であって、5%という印税率になることもあるらしい。
ソースはこちら
http://www.caderbooks.com/pubfaq.html
http://www.ivanhoffman.com/royalties.html
http://www.fonerbooks.com/contract.htm
出版社が搾取しているという根拠には社員が高給であることが上げられると思うのだが、幻想だろう。高給なのはごく一部中小企業では400万円から500万円。
一方、中小規模の出版社や雑誌・書籍の制作を請負う編集プロダクションは、30歳で400??500万円ほど。
http://ranking1.nobody.jp/salary/tv.htmlしかも高給な講談社などであってもそのうち300万円以上は残業代。
小学館、集英社ともに30歳代後半で平均年収は1000万円を超える。残業の多い編集者などでは30歳で1000万円を超える人も。残業の少ない部署と比較して年収で300万円近く差がつくこともある。
同上社員が高給だから搾取しているなんて、鳥山明は儲けてるから漫画家はすべて金持ちっていてるようなものだろう。だいたい講談社とかメジャーなところは「現代」や「non・no」など主に社員が書く雑誌で稼いでいるのだろうし。以上を踏まえると10%という印税率は搾取されているとはいえない。
ただ基本的に市場が効率的である限り、中間搾取を試みる人間がいても搾取は存在しない。例えば搾取の代名詞である派遣業で考えてみよう。仮にAさんがいて、その労働の価値が時間当たり2,000円であったとしよう。しかしながら現在1,000円搾取されていて、1,000円しか得られていない。ここで中間搾取を試みる人間がいればAさんに時間当たり1,500円を提示し自分は時間当たり500円を中間搾取することを考え、Aさんに提示する。Aさんは1,000円から1,500円にアップするのでこの提案に乗るだろう。ここで終われば搾取は存在したままだが、話はここで終わらない。ここでまたAさんから中間搾取を試みる別の人が出てくる。彼は例えばAさんから250円中間搾取することを考え、Aさんに時間当たり1750円の給与を提示する。Aさんはこの提案にのり、派遣会社をかえるだろう。こうした話はAさんが中間搾取されている間は続く。こうした話が続くと究極的には中間搾取がなくなる。中間搾取を試みる人間がいても搾取は存在しない。というよりも中間搾取を試みる人間がいるからこそ搾取は存在しないのである(ただその調整過程では中間搾取は存在し、現在それが問題になっているといえる)。
ペーパーバックというか、講談社ノベルスに代表される新書判の小説群がありますね。文庫よりも価格が高く(一冊千円ぐらい)で、ジャンルも偏っている(推理小説多し)。単行本と文庫の間の空き席を埋めるかたちで登場したのかな。長距離電車のお供という感じもある。いわゆるライトノベルもノベルスの土壌で育ってきたものなんでしょうね。
参考
デスクワークの途中で緊張感が切れてどうしようもなくて、一、二時間仕事のことを完全に忘れたい、というときにライトノベルが無性に読みたくなる。マンガだと物足りないし、軽めの一般小説だと趣味に合わない、雑学本は飽きたし、新書もめんどくさい、難しい文学を読むと脳が休まらない、映像作品だと手持ち無沙汰になってそわそわしちゃう、というようなときに、出来のいいライトノベルってちょうどいい。週に二、三回本屋に行って、一回に一、二冊ずつ買うペースで、ちょうど本が切れると本屋に買い足しに行くペースになっていい感じ。これって何かに似てるな、と思ったら、あれだ、タバコ。卒論を書くときに一瞬だけタバコを吸ってたんだけど、あれに感覚が大変よく似てる。嗜好品としての本なんだな、ライトノベル。