はてなキーワード: ペーパーバックとは
http://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=41
このへん?
意識的に呼吸を遅くするあるいは呼吸を止めることで症状は改善します。患者さんは不安が強くなかなか呼吸を遅くすることができませんので、
まずは患者さんをできるだけ安心させゆっくり呼吸するように指示します。
紙袋を口にあてていったん吐いた息を再度吸わせることで、血液中の炭酸ガス濃度を上昇させる方法(ペーパーバック法)がありますが、
この方法では血液中の酸素濃度が低くなりすぎたり、炭酸ガス濃度が過度に上昇したりする可能性がありますので充分な注意が必要です。
アルコールjは知らないです。
日本人にとって、直訳という言葉は「機械的に文法に沿って訳語を並べて、意味不明の訳文を作ること」といった印象が強い。意味が通じる翻訳をするには、意訳、つまり元の文を理解した上でその内容を自分の言葉で書き直す必要があると考えられている。
しかし英語で直訳を表わす"literal translation"は、そういった言葉ではない。もちろん、機械的に置き換えて意味の通じない文を作ってしまうことも言うのだが、"literal translation"は「原文に忠実である」というポジティブな側面を持っていて、formalで立派な翻訳という感覚を伴う。
それはつまり、「意訳」に良い印象がないということでもある。それは「意訳」に当たる適切な英語表現がないことでも分かる。
https://www.onehourtranslation.com/translation/blog/literal-translation-vs-conveying-sense-text
ここでは"literal translation vs. conveying the sense of the text"(直訳 vs. テキストの意味を伝えること)というタイトルになっている。日本人から見ると「"直訳 vs."と来たら『意訳』が来るに決まっているだろう」と言いたくなる。しかし、英語で意訳という言葉は、直訳とvs.出来るほどの市民権を得ていない。
英語の翻訳はフランス語やラテン語といったヨーロッパ圏の言語から知識を取り入れるために行われることが多く、ヨーロッパ圏の近縁語同士では直訳は有効な方法論だ。結果として、"literal translation"は立派でフォーマルな翻訳という意味合いが生じた。
対して、訳者が勝手に自分なりの表現を加えてしまうと、fidelity(原文に対する忠実さ)が欠けているという批判の対象になる。
たとえば、私は素人ながらアニメの英語翻訳に関わったことがあるのだが、海外のアニメオタクは意訳を嫌う。佐藤さんはSatou-san,斎藤先輩はSaitou-senpaiだし、学校の先生の敬称は英語だとMr.なのだが、犬塚先生はInuzuka-senseiだ。
たとえば、アニメのセリフに「ありえなくね?」と出てきたら、文字通り"That's impossible, right?"と訳すのが好まれ、意味を汲み取って"Are you kidding?"と訳したりすると、"over-translation"とか"liberal translation"などと言われて叩かれてしまう。日本人の私から見ると、とても理不尽に感じるが、彼らの感性はそうなっている。
この問題についてググっていたら「literal translationが良いというのは神話だ」という海外の人の意見を見つけた。これを言っているのが日本語の英訳をしている人だというのも示唆的だ。
日本では英語文献を翻訳するのが主なので、literal translation、直訳はほとんど役に立たず、ひどい翻訳の代名詞のようになっている。英語話者にとっての日本語の英訳でも同じだろう。
基本的に、英語圏でTranslationと呼ばれているものと、日本で翻訳と呼ばれているものは、行為としては似ているが、内実は全く異なっている。
英語圏で行われているのは直訳であり、我々がやっているのは意訳だ。英語圏でやっているのは文法ルールと訳語を覚えて他言語に当てはめ、原文を出来るだけ変えずに英語に直すことであるが、我々がやっているのは「他言語を(何らかの方法で)理解し、その内容を自分なりに日本語で作文する」という行為である
直訳が役に立たないということは、つまり文法ルールを覚え、日本語の訳語を覚えて適用しても、英語を理解することは出来ないということだ。
これは残酷な現実であるが、「いくつの文法ルールを覚え、何万の訳語を覚えても、英語を理解することは出来ない」
これは文法や訳語が不必要だと言っているのではない。文法や訳語はヒントにはなる。だが、答えにはならない。
はっきりいえば、ヒントを一生懸命集めて暗記しても、意味がない。文法ルールをいくつ暗記しようと、英単語の訳語をいくつ暗記しようと、それは英語力ではない。
身も蓋もない言い方になってしまうが、法則化出来ないなんらかのプロセスによって、英語を直接理解する能力。それが英語力だ。
そして直訳が出来ない、つまり英語を日本語に変換して理解するための法則が導けないという事実から分かるのは、日本語を理解している我々の脳をどういじくっても、それを英語に適用することは出来ないということだ。
それはつまり、「英語を理解するための脳の回路を、日本語とは別にゼロから構築する必要がある」ということに他ならない。赤ん坊が新しい言語を習得するときのように、何年もかけて、少しずつ脳を開発していき、英語を理解できる脳を構築していくしかないのである。
どこかの英語学習体験記で読んだことがあるのだが、「留学に行った所、フィンランドの学習者と同部屋になった。フィンランドの学習者はひたすら単語帳を眺め、英単語だけをひたすら覚えていたが、それによってあっという間に英語が出来るようになっていた。だから、私も一生懸命単語帳を眺めることにした」といったものだ。
これがつまり、直訳が可能な言語を使用している脳と、直訳できない言語を使用している脳の違いだ。欧州の人々は基本的に、母国語を理解するために使っている脳を英語向けにアレンジするだけで、英語ができるようになる。我々はそうではない。
たしかその体験記の終わりは、「一生懸命英単語を覚えた結果、留学を終える頃にはかなり英語ができるようになっていた」となっていたように思う。しかし私が声を大にして言いたいのは「それは英単語を覚えたおかげではない」
日本の英語学習界には、留学神話がある。「留学さえすれば英語は出来るようになる。留学しないといつまでたっても英語ができるようにはならない」というものだ。
もちろん留学さえすれば英語ができるようになるというのは嘘だ。それはもちろん神話でしかない。「留学して、英語を使わざるを得ない環境に自分を追い込み、一生懸命英語に取り組めば英語は出来るようになる」というのは正しいが、「留学はしたものの、日本人同士で固まって遊んでいただけで、勉強はしていない」といった生活で英語ができるようになるはずもない。実はそういう日本人留学生は数多い。
しかし「留学しなければ英語ができるようにはならない」というのは真実を突いている。
日本の英語教育に従って、文法ルールを覚え、訳語を覚え、どんなに努力を続けても、英語ができるようにはならない。留学して、日本の英語教育から離れ、ただがむしゃらに英語と格闘すれば、それだけで英語は出来るようになる。
そして「がむしゃらに英語と格闘する」ためには、留学は別に必須ではない。がむしゃらに英語の本を読む事もできるし、映画を見てもいい。海外英語フォーラムに書き込んでもいいし、Lang-8で英語で日記をつけてネイティブに添削してもらうのも、アジア圏のネイティブとスカイプ英会話をやるのも良いだろう。
がむしゃらに英語と格闘することが必要なだけだ。そしてそれ以外に英語ができるようになる方法はない。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H1M_V20C15A5CR0000/
全国の公立中学・高校の英語教員のうち、英検準1級以上かそれに相当する資格を取得しているのは中学で28.8%、高校で55.4%だったことが25日、文部科学省の2014年度英語教育調査で分かった。政府の教育振興基本計画は17年度までに中学で50%、高校で75%との目標を掲げている。英語教員のいっそうのレベルアップが必要な状況が浮かんだ。
高校の英語教師で英検準一級が55%、半分近くが英検準一級を持っていないということだ。準一級を持ってないということは、日本の文法・単語の暗記中心の教育をする能力すら疑問符がつく。
準一級の問題は、日本の英語教育で教えられたとおりに暗記した単語を当てはめ、文法ルールにそって直訳すれば理解出来る、日本人向けの英語もどきでしかない。それが分からないということは、英語もどきを教える資格もないということだ。
もちろん教師は聖職として尊敬されるべき存在であり、それを指揮するのは霞が関文部科学省のエリート官僚であるから、自分たちが教えているのが「実際には役に立たない英語もどきです」とは言えない。「私たちは英語がよく分かりませんし、『生徒をちゃんと英語が出来るようにしろ』と言われても出来るわけありませんよ。むしろ、そんなやり方を知っているなら教えて下さいよ」などと口が裂けても言えるはずがない。
それに対して一方では「聞き流すだけで英語がペラペラに!」とか「たった100語で英語は出来る!」とか「頻出フレーズを暗記すれば日常会話はバッチリ!」とか、英語教育界はオカルトだらけである。
もちろん商売でやってるのであるから、「がむしゃらに英語と格闘しろ、それ以外ない」などと言えるはずもないのだが、そんなことを言っていても誰も英語が出来るようにならない。なんとかならないものだろうか。
私が実践してきた、オススメの、実際はがむしゃらにやるだけの英語学習法を紹介しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20170526220542
http://anond.hatelabo.jp/20170524213622
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
コメントを頂いた。本を読んでもTOEIC3000語が覚えられない、ということだった。
TOEICのリーディングは結構速読が必要なので、その実力が身につくまで、100万語ぐらい、500ページのペーパーバックを12冊分程度読まないと、普通は最後までたどり着かないんじゃないかと思う。12冊分を辞書を引きながら、単語や表現の感覚を感じ取りながら舐めるように読めば、どうやっても8000語程度の単語を感覚的に理解できる、生きた語彙力が身についてるはずだ。必要なのは暗記力ではなく、文を深く読み、英語表現の意味を感じとる力だ。記憶は忘れるけれど、感覚は忘れない。忘れたと思っていても残っていて、何度か同じ表現を見かければ、その都度感覚は強化され磨かれていく。
単語を覚えるというのは読書の途中で自動的についてくるもので、ピクニックの途中で摘める野イチゴのようなものだ。しかし英語学習者は読書というピクニックには出かけず、ピクニックの準備だけを念入りに行っているように感じている。「自分にはピクニックも難しい。ピクニックに出かけたらヤマで遭難するかもしれない。その時のために食料を買い込んでおこう」と言いながら、辛い奴隷労働をして腐りかけのイチゴを買い込んでいるように見える。ヤマに出ればいくらでもおいしい野イチゴが摘めるのに、ヤマに行っても腐ってて使い物にならない表面だけの単語知識を必死で暗記しているように感じている。これは本当によくないことだと思う。
もう一つコメントを頂いた。学習者は英英辞典はオックスフォードでなく、ロングマンをやるべき、というご意見だ。
辞書から得られるものは単語の理解ではなく、ヒントでしかない。ヒントを英語で貰っても基本的に英語学習者にはわかりにくい。英英辞典自体を読み物として楽しめないなら、英英辞典を見ても英和より効率が悪いと考えている。もちろんロングマンが読み物として楽しい、読んで頭に入りやすいという方がいるならその方が良いと思う。私はオックスフォードが読み物として楽しいので使っているが、面倒な時はウェブリオに走っている。
この記事は長文すぎて最後が切れていたので、二つに分割したものの後半部分だ。前半部分はこの記事と繋がりがあるようでないのだが、いろいろと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170529095534
ネタがなくなったので、多分この増田で吠える英語考察は今回でしばらく休止するかと思います。今まで長文をご覧いただいた方、コメントを頂いた方、ありがとうございました。
それは全く把握が逆で、欧米では書籍一般(=ハードカバー)の値段が非常に高かったんだよ。
安価な書籍(=ペーパーバック)は酸性紙で印刷クオリティも低く読み捨てるならまだしも保存できるようなものではない。
わりと普及している英語圏では、本を作るときに最初から電子書籍のフォーマットで作成し、それを紙でも出版しているという状態。
日本の場合、極少数の出版社を除き、まず紙ベースで書籍を作成し、その後何らかの方法で電子化するという手順を踏む。
もうこの時点で電子化がオプショナルな扱いを受けるにきまっている。
で、なんで紙ベースで作るかというと、英語圏だと紙の出版物だとハードカバーで装丁がしっかりした本くらいしか売れなくなってるんだけど、
日本だとまだ紙で作られた安価な書籍がまだまだ売れるから、別に電子化前提で作らなくともよくね?という現実があるから。
★☆☆☆☆
20ヶ月身ごもっているという妊婦の謎と、密室で消えた夫の謎。
それら2つの謎を追う。
うんちくはすごかったけど、別にうんちく読みたいわけじゃない。
一応ネタというかオチの伏線っちゃあ伏線だったけど、あんなに紙幅を割くことはなかった。
当時はああいう考え方が容易に理解を得られないだろうからってことで、懇切丁寧に説明したのかなあ・・・
10年前は前半のgdgdで投げたけど、やっぱり今読んでも前半はつまらない。
逆に後半の怒涛の展開、というかスカスカ感には拍子抜けさせられたけど。
amazonレビューとか見る限り、合わない人間は少数派みたいだけど、自分はその少数派みたい。
キャラも魅力的どころかドン引きですよ。とくにフリーライターの過去。
夏の空気感が~とかいう感想見かけたけど、そんなもん感じられなかった。
風鈴が、りん、と鳴ったとかそんくらい。
ミステリではない。
でもネタっつーかオチがいろいろと無理やりすぎるっつーか、脳内推理しすぎでそれが事実だったって前提で進みすぎてちょっとついてけない。
続けて魍魎の匣読み始めたら、こっちは最初からめっちゃ読みやすいし、面白く感じる。
昨日、谷川流の学校を出ようシリーズは2巻から読むのをすすめるのがベターってのを見かけたけど、
何も聞かされずに・知らずに、姑獲鳥の夏を京極シリーズ一冊目で読んだら、合わない人は確実に2冊め以降は読まないと思う。
夫は密室で死んでたけど、死体が関係者の認識の外にあって、見えてなかっただけでしたー
なんつーか、予想外なオチを狙いすぎて、でも一応のエクスキューズとして前半で伏線はってましたよ的なのが、
いろいろと胸糞わるいし。
榎木津がさっさと警察に話しとけば終わったのに
親も一度も個室に入らなかったとか。
なんかもーね・・・
ぶっちゃけ京極作品としては榎木津の薔薇十字探偵社かなんかのペーパーバックのやつで初めて触れてたから、
ペーパーバックの榎木津メインのやつは結構面白かった記憶あるんだけどなあ・・・
俺も4年生になって卒研に入ってしばらくはそんな感じだったよ。読まないとならない論文はどんどん積まれて行くのにひとつひとつの論文が泥沼の中を腰までつかりながら進んで行く感覚。
英語力の問題とはちょっと違うと思う。ペーパーバックの小説は普通に読めてたから。
論文には論文の読み方があるんだけど、数をこなさないと読めるようにならない。まあ何ヶ月か頑張って読んでれば気づくとさくさく読めるようになるよ。
分野にもよると思うけど、うまい博士論文の序論や背景の部分は論文誌や会議予稿よりも丁寧に書かれてることが多いので、自分のやってるところの研究の流れで重要な博士論文があったらそれを見てみるのも背景を頭に入れるのに良いかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20111029232710
の続きね。結構気になっている人が多いのだなと思ったので、さらに追加解説を。
最初に書いておくと、Amazonはアコギだけど、ユーザーには(短期的に)歓迎される可能性が高い。
それ故に対応を間違えると、日本の電子書店は太刀打ちできずに壊滅するだろう、
それはAmazonが世界最大級の小売りで十分利益を上げているからだ、という話。
(あくまでも友人が出版社につとめていてその話を聞いた中から)さらに説明しようと思う。
迷惑かからないようにぼかして書いてあるし、版面権や絶版、DRMや市ヶ谷方面の話題は煩雑すぎるので割愛している。
一ツ橋が出版社の全てみたいな話をするな!とか気になる人も居ると思うけれども、大枠で読んで欲しい。
(それに、これがググらずに判る人は、たぶん説明は不要で十分判ってると思うので)
最初に「経費圧縮による分は、安く出来るはずだ」というところから。
取り分は、作者(10%)→出版社(60%)→取次(8%)→書店(22%)→読者
例えば講談社がOnline書店を新たに作ったとして、取り扱いの本が講談社だけなら、取次8%分は削れる。
なぜなら、取次とは「多数の出版社と多数の書店を繋ぐ役割」だから。
ここで「多数の出版社と、講談社Onlineを繋ぐ役割」だと、0%ではできない。
そして、経費が削れても、利益を上乗せする方向にいっちゃいけないって事はない。
「ネットでの課金徴収、データ管理やバックアップにサーバ管理で、コレぐらいの値付けはしても使ってもらえるだろう」
という見込みがあってやってしまっても悪くはない。
それは「そこは消費者に還元しろよ」という感情はわかるけれども、商売としては別。
元々「電子出版なら安くなるはず」と圧力のある状況で売っても、一冊あたりの利益は薄い。
すると、その面倒なところ(他の出版社への声かけ、販売対応、サーバ管理等々)を、既存出版の割合でやってくれるなら、ギリギリなくはないかな、
といくつかの出版社は考えてもおかしくない、というのが前回のお話。
まずは、お金の流れの一般論として再販制度の仕組みについて触れておこう。
(矢印がお金の流れ、その逆向きが本の流れ)
判り難いので、具体例で列挙すると以下のような感じになる。
(出版の70%は作者の10%含み。本屋群の78%は、本屋の取り分の22%を引いたもの)
これに月末締めの翌月払い、条件返本相殺締日とかが絡むけども、胃が痛くなるので割愛した。
……ついてきているだろうか?
差し引きで見てみよう。
ほぼノーリスクで作者は100万円を手にするのに対して、本屋は頑張って110万、出版社も250万。
クリエイターに対する印税10%が低すぎると思っている人は、少しだけで良い。お金の流れを追って欲しい。
(ただ、返本率は、実際には4割程度だろう)
また、取次の集金機能にも着目して欲しい。
配本流通集金と、色々やってるのが取り次ぎだ。
さあ、管理も煩雑、処理も大変、もはや本が札束に見えてくると言う悲惨な状況下の中、Amazonが提示したのが55%という数字だ。
さて、例のリーク記事のAmazonが提示した契約書とされている部分、実はあの式にはちょっとしたポイントがある。
Amazonは当月中の各本件電子書籍の顧客による購入の完了につき、希望小売価格から以下に定める金額を差し引いた正味価格を出版社に対して支払うものとする。
先ほどの金額の流れを見た後だと、気がつくことがないだろうか?
そう、これは「出版社に対してAmazonが支払う金額」についての式なのだ。
具体的に見てみよう。
1500円のハードカバーを、出版社が「電子版だから、じゃあ1000円にするよ」と希望小売価格を決めたとする。
Amazon.com でのKindle版の価格から鑑みるに、おそらく、500円で売るだろう。つまり50%OFFだ。
すると、希望小売価格 1000円x55%=550円を差し引いた金額、450円をAmazonが出版社に支払う事になる。
希望小売価格は出版社が決められるが、紙の本より高くは出来ない。
そして、Amazonは希望小売価格から55%を引いた額を出版社に払えば良い。
50%OFFで売れば、Amazonの儲けは、一冊あたり5%になる。
どういうことになるか、火を見るよりも明らかだろう。
Kindleが8000円、Kindle Touchが1万円ぐらいで発売されてしまったら、どうなるだろうか。
紙の本には手に取れる書き込みできる、そして所有する喜びがある。
しかし、紙の本 1500円 vs kindle本 500円 ならどちらを選ぶだろうか。
10冊買えば本体代の元がとれると思った時に、Kindleデバイスを買わない自信があるだろうか。
Kindleデバイスを売る為だとか、ロングテールで値下げせずとも良い本から利益を回収する為だとか、色んな理由があるだろう。
でもきっとAmazonは、市場で無視できないサイズとなって十分利益が回収できるようになるまで、じっくりゆっくり粘り強く低調に成長を続けるだろう。
なぜなら、オンライン小売の巨人は、他で利益を出せば良いからだ。
もちろん出版社は、1500円の本を、他の電子書店には1000円で卸して、Amazonには1500円で卸すことだって出来る。
忘れてならないのは、Amazonは1500円x45%=675円を出版社に払うことだ。
他の電子書店は、1000円で卸された本から20%だけとって800円払うこともできる。売れればだが。
そして、Amazon対抗のためだけに他の電子書店に750円で卸したとして、電子書店側も決意の10%として675円を出版社に払っても良い。
1万冊売って75万円利益の電子書店、しかも様々なフォーマットでデバイスも様々で、本当に継続できるだろうか。
読者が安い本を買うことは止められない。非難も当然出来ない。
安いKindle版を出さずに独自の電子書籍を出す出版社に、文句を言わないだけの理性があるだろうか。
そして、(アメリカのペーパーバックがでかくて重いという理由があるにせよ)電子版が紙の本を売り上げを上回る世界で、
Amazonを無視して自己流を貫く事での機会損失を、オーナーや株主は許容できるだろうか。
流石にアマゾン、(アメリカ市場からの推測でしかないが)相当にえげつないことをする。
出版社は、既存の電子書店に卸してもAmazonに卸してもそう代わりはないが、消費者は安い方から買う。
そして、Amazonは限界まで値引きをして売るだろう。ダンピングにならないように5%程度の利益を抑えた上で。
黒船Amazonが、日本の電子書店と違う点は、既に成功したネット上の小売業者である点だ。
赤字をものともせず待ち続けられるのは、アメリカの市場で証明済みだ。
商売なんだからきちんと儲けてくれよ、金なら払うから経費圧縮分は利益にしてくれよ、
そう消費者が言ってくれないことは判ってる。
でも、電子書籍は安くて当たり前、デジタルなんだから薄利多売で消費者に還元してくれ、
そういう意見一辺倒だと、現状ではAmazonは無視できる存在ではない。
そしてこれは、Amazonの用意したハードルを乗り越えて契約できる出版社が増えれば増えるほど、
>取っておくべきと考える人達は、自分たちで買って保存するしかないだろう。
実際、現実的に考えると、ここが結論かなと思う。
情報をどれだけ抱え込めるかって処は、図書館の存在意義の一つだから
多分電子化できるものなら、がっつり電子化したいだろうさ、雑誌なんかは特にな。
図書は多分しばらく無理。活版印刷並みの革命起きてても、それを拒む層がいる。
>ところで「運営費が出ない」と言いながら「希少本を売らない」のは何で? 売れば利益が出る本もあるんだろ?
これ、いろいろ事情がな……。あるんだ。
恥かしながら、うろ覚えを箇条書きするので、
図書館学や法律に精通している方に突っ込んでいただけると有難い。
ILL(文献取り寄せサービス)の手数料とかは、儲けとはちょっと違う。
このあたりは、調べたいとか言ってレファレンスカウンターに行くといい。
海外の事例は他の増田に任せる。延滞料金の取り扱いはちょっと知りたいところ。
・そもそも、資料の転売ってありなのか?
個人としてはあり。元記事の処理がされてれば、盗難本とは思われない。
amazonで図書館の廃棄本(ペーパーバックとか)が出てたらとりあえず買う。
ブッカーで保護されてて、丈夫で汚れにくく使い勝手がいいんだよな。
組織としては難しい。グレーゾーンだが、グレーだからこそ「無い」という結論を
出す館は多いんじゃないかな。
資料は、税金ないしは学費などで賄われているケースが大半だ。
そもそも、自分の所属する機関の「財産」として計上されている資料の扱いは難しい。
「廃棄処分」するならともかく、「転売」となると、相当面倒な手続きを経るだろう。
千冊処分するために、千冊それぞれ個別に起案を出さんといけないとか、ありえて嫌だ。
新刊の整理なんぞする暇はなくなるから、新しい本も雑誌もしばらく諦めてくれ。
なんて事は本末転倒なわけで。
だから「財産」扱いしない費目で買う雑誌や新聞の廃棄は、楽っちゃ楽だ。
いざって時に「ここからここまで捨てるけど誰か要る?」と聞きやすい。
で、「別にいいや」→「じゃ、チリ紙交換に出しますわ」ってなる。
個人的には、シュレッダーにかけるなら電子化しようぜ!って思うんだけど
著作権者さん達がな。
追記。
図書館間で、「廃棄するけど誰かいる?」という寄贈のしあいっこがある。
MLだったり色々なんだけど、古くて入手できないような資料を分け合える機会がそれなりにある。
もうたくさんの人に訳されてるけど,じぶんにはあまりしっくりこないのでまた訳してみた。
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今日世界最高の大学のひとつでみなさんの卒業式に同席できることを名誉に思う。本当のことをいえば,私は大学を卒業したことがない。これが大学の卒業式にもっとも近づいた瞬間だ。今日,私の人生から三つの話をしたい。それだけだ。大したことはない。たったの三つだ。
最初の話は点を結ぶことだ。
私はリードカレッジを最初の6ヶ月で退学した。でも本当に辞めるまでさらに18ヶ月かそこらモグリとして出入りしていた。じゃあなぜ退学したんだ?
話は私が生まれる前に遡る。私の生物学的な母は若い未婚の大学院生で,彼女は私を養子に出すことに決めた。彼女はどうしても大学卒に養子に出したいと考えていたので,誕生と同時に弁護士夫妻に受け入れられるようすべて準備済みだった。でも私が生まれて,土壇場になって彼らは本当は女の子が欲しいと決めた。それで順番待ちリストの次にいた私の両親に夜中に電話がかかってきた。「予想外の男の子だったんです。欲しいですか?」「もちろんです」生物学的な母はあとで,母が大学も出てなくて父が高校も出てないことを知った。彼女は最終合意書に署名するのを拒んだ。数カ月後に私の両親がいつか私を大学にやると約束して彼女はやっと態度を変えた。これが私の人生の始まりだ。
17年後私はたしかに大学に行った。だが私は世間知らずにもスタンフォード並に高価な大学を選択し,労働階級の両親の蓄えは全て学費に費やされていた。6ヶ月経って,私はその価値が感じられなかった。これからの人生で何をしたいのかわからなかったし,大学がすべきことを発見する助けになるとは思えなかった。なのに私はここで両親がこれまで貯めた金をすべて使おうとしている。だから私は退学して,みんなきっとうまくいくって信じることにした。あの時はとても怖かったけど,振り返ってみればあれが私のこれまでで最良の決断だった。退学した瞬間,もう興味の持てない必須科目を取らなくてよくなったし,ずっと面白そうなクラスに入り込むことができるようになった。
ちっともロマンティックじゃなかった。寮に部屋もなかったから友達の部屋の床で寝た。コーラの瓶を返却してもらった5セントで食料を買った。日曜の夜には街の向こうまで7マイル歩いてハレークリシュナ教の寺院で週に一度のまともなご飯を食べた。最高に楽しかった。そして興味と本能に従って迷い込んだいろんなものが後に大きな意味を持つことになった。一つ例をあげよう。
リードカレッジは当時国内最高のカリグラフィー講座を持っていた。キャンパスのあらゆるポスター,引き出しのラベル,みんな美しい手書きカリグラフィーだった。退学して普通のクラスを取らなくてよくなったので,カリグラフィー講座に参加してやり方を学ぶことにした。セリフ書体,サンセリフ書体,文字の組み合わせで変化する文字間のスペースの量,すばらしいタイポグラフィがどうしてすばらしいのかを学んだ。カリグラフィーは美しく,歴史的で,科学では捉えられない繊細な芸術だ。そしてそれを私は面白いと思った。
これらの何一つ人生で現実的に役立つ見込みなんてなかった。でも10年後,みんなで最初のMacintoshを設計してる時に全部思い出したんだ。そして私たちはそれをみんなMacに詰め込んだ。Macは美しいタイポグラフィを備えた最初のコンピュータだった。私が大学のあのコースに潜りこまなければ,Macが複数の書体とプロポーショナルフォントを備えることは絶対になかった。そしてWindowsはただMacをコピーしたので,おそらくパーソナルコンピュータは今日のようなすばらしいタイポグラフィを備えることがなかっただろう。もし退学していなければ,絶対にカリグラフィー講座に参加しなかったし,パーソナルコンピュータは今日のようなすばらしいタイポグラフィを備えていなかったかもしれない。もちろん大学にいた時に点がつながるのを見通すことはできなかった。でも10年後振り返ってみればとてもとても明らかだ。
もう一度言う。将来点がつながるのを見通すことはできない。振り返ってつなげることしかできない。だからあなたは将来なんらかの形で点がつながると信じなければならない。ガッツ,運命,人生,カルマ,なんでもいい,なにかを信じなければならない。いつかこの道を進めば点がつながると信じれば,たとえ人と違う道に向かうことになってもハートに従う自信を持つことができる。それが違いを生むのだ。
私は幸運だった。人生の早いうちに好きなものを見つけられた。ウォズと私は20歳の時に両親のガレージでAppleを始めた。一所懸命働いて,ガレージにたった二人だったのが,10年で従業員4000人の20億ドル企業にまで成長した。30歳になる一年前に最高の作品,Macintoshを発売した。そして首になった。いや,自分の始めた会社からどうやって首になるっていうんだ? 私たちはAppleが大きくなったので一緒に経営するのにとても才能あると思えた人物を雇った。最初の一年かそこらはうまくいった。でも将来のビジョンが食い違い始めて,最終的に喧嘩になった。そしてその時,取締役会は彼の側についた。それで30歳の時,首になった。世間の誰もがそれを知っていた。大人になってからの人生すべての中心が失われて,本当に最悪だった。
数ヶ月は何をしていいのか本当にわからなかった。前の世代の起業家たちから渡されたバトンを落としてしまって,彼らを失望させたと思った。デビッド・パッカードとボブ・ノイスに会って,このひどい失敗を謝罪しようとした。本当に誰もが私の失敗を知っていた。シリコンバレーから逃げ出そうとさえ考えた。でもなにかがゆっくりとわかり始めた。私はそれまでの仕事をまだ愛していた。Appleでの出来事は私の気持ちをすこしも変えなかった。ふられたけどまだ愛していた。だからやり直すことに決めた。
当時はわからなかったけど,Appleから解雇されたことは私にとってこれまでで最良の出来事になった。成功者の重圧は,またなにもあまりわからない初心者の軽やかさに入れ替わった。おかげで私は人生で最も創造的な時期の一つへと解き放たれた。
次の5年間に,NeXTという会社と,Pixarという会社を興し,後に妻になるすばらしい女性と恋に落ちた。Pixarは後に世界初のコンピュータグラフィック劇場映画トイ・ストーリーを制作し,今では世界で最も成功したアニメーションスタジオだ。びっくりするような出来事があってAppleがNeXTを買収して私はAppleに戻り,NeXTで私たちが開発した技術は今のApple復活の基盤になった。そしてローレンスと私は共にすばらしい家族を築いた。
Appleから解雇されなかったらこれらは全部起こらなかったとはっきり確信している。ひどく苦い薬だったけど,患者にはそれが必要だったのだ。時として人生はレンガで頭を殴ってくる。信念を失うな。私が進み続けられたのは自分のしていることを愛していたからだと確信している。あなたは愛するものを見つけなければならない。恋人を見つけるのと同じくらい仕事でもそれは真実だ。仕事は人生の大きな割合を占める。本当に満たされる唯一の方法は,すばらしいと信じる仕事をすることだ。すばらしい仕事をする唯一の方法は,それを愛することだ。まだ見つけていないなら,探し続けなさい。腰を落ち着けるな。見つけたら,あなたのハートが教えてくれる。恋人との関係のように,それは歳を重ねるにつれてもっとすばらしいものになる。だから見つけるまで探し続けなさい。腰を落ち着けるな。
三つ目の話は死についてだ。
17歳の時,こんな感じの引用文を読んだ。「毎日を人生最後の日のように生きれば,いつか間違いなくうまくいく」印象づけられた。それからこれまで33年間,毎朝鏡を見ながら自分に問い続けてる。「もし今日が人生最後の日だったら,今日これからしようとしていることを本当にしたいかい?」そして答えが何日も続けて「ノー」だった時,何かを変えなければと気づくんだ。
もうすぐ死ぬと思い出すのは,人生の大きな選択を助けてくれる私の遭遇した最もいい方法だ。外野の期待,プライド,恥や失敗への怖れ,そんなものは死に直面すればほとんどみんな本当に大事なものを残してどこかへ行ってしまうからだ。いつか死ぬと思うことは,何かを失うという考えに陥るのを避ける私の知る最良の方法だ。あなたはもう裸なのだ。ハートに従わない理由なんてない。
1年くらい前に癌と診断された。朝7時半に検査を受けたら明らかにすい臓に腫瘍があった。私はすい臓がなにかすら知らなかった。医者はほぼ間違いなく治療不可能なタイプの癌で,3ヶ月から6ヶ月以上生きることは期待すべきでないと言った。先生は帰ってやりたいことを順にやりなさいと言った。死を迎える人への医者のお決まりの対応だ。つまりそれは伝える時間があと10年あると思っていたことをたった数カ月で子供たちに伝えるということだ。つまりそれは全部手はずを整えて家族が出来るだけ苦労せずにすむようにするということだ。それはつまりさよならを言うということだ。
一日腫瘍と過ごした。その日の夜生検を受けた。内視鏡を喉から胃を通して腸に入れて,すい臓に針を刺し,少し腫瘍の細胞を採取した。私は鎮静剤を投与されていたのだけど,顕微鏡で細胞を調べた結果,手術で治療できるめずらしい種類のすい臓がんだとわかって先生たちが大騒ぎしていると付き添っていた妻が教えてくれた。手術を受けて,ありがたいことにいまはなんともない。
これが私が死に最も近づいた瞬間で,あと数十年はそうであってほしい。この経験があったから,死が有用だけどただの知的概念だったころよりもう少しだけはっきりと言える。
誰一人として,死にたくはない。天国に行きたい人ですら死にたくはない。だが死は我々全員が共有する終着点だ。これまで死を逃れた人はいない。そしてそうあるべきだ。なぜなら死は生命の最良の発明に思えるからだ。死は生命の変革担当係だ。古いものを追い出し,新しいもののための道をつくる。たった今,新しいものとはあなた方だ。でも遠くない将来みなさんもだんだんと古いものになって追い出される。ドラマティックになって申し訳ない。でもこれは真実だ。
あなたの時間は限られている。だから誰か他人の人生を生きて時間を無駄にするな。誰か他人の結論を生きるというドグマに捕らわれるな。他人の意見に自分の内なる声をかき消されないようにしろ。そして最も大事なこと。自分の心と本能に従う勇気を持て。あなたの心と本能はもうあなたが本当になりたいものを知っているのだ。他のことはみんな後回しだ。
私が若いころ,全地球カタログというすばらしい出版物があった。私たちの世代のバイブルの一つだ。ここからそう遠くないメンローパークでスチュアート・ブランドという人物によってつくられ,詩的な感覚を人生にもたらした。まだ1960年代でパーソナルコンピュータもデスクトップパブリッシングもなかったから,全部タイプライターと鋏とポラロイドカメラで制作された。まるで35年早くやってきたペーパーバックのGoogleみたいだった。理想主義で,整然としたアイデアとすばらしい思想で満ち溢れていた。
スチュアートと彼のチームは数号のあと,すべての活動を終えて最後の号を出した。1970年代中頃で,私はみなさんくらいの歳だった。最終号の裏表紙には,あなたが冒険好きだったらヒッチハイクをしようかと思ってしまうような早朝の田舎道の写真があった。その下に「ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ」の言葉があった。それは終刊にあたっての別れのメッセージだった。ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。私はいつも自分にそう願い続けてきた。今,みなさんが新たに卒業するにあたって,あなたにもそう願う。
ハングリーであり続けろ。愚かであり続けろ。
本当にありがとう。
はてな界隈では、定期的に英語の習得法が話題になるが、俺もそろそろ参入してみようかな、と。
■自己紹介
俺の英語力は、TOEIC975点、実用書・平易なペーパーバックなら辞書なしで速読できるレベル。
CNN/BBCが字幕なしで理解できて、それなりに気のきいたことも英語で話せる。
語彙力は、http://www.wordengine.jp/vcheckで測定してみたところ、約20000語。
■趣旨
だが、巷にあふれかえる英語の勉強法は、基礎力がないのにいきなり実践を勧めるものが多い。
例えば、臆せずに何でもいいからしゃべってみろだの、辞書をひきながら本を読めだの。
この手の勉強方法は、学習者のコンフォート・ゾーン(快適な領域)を外れることが多く、大抵の人は不安感や不快感を感じて、学習をやめてしまう。事実、俺も何度も挫折してきた。
そこで、この記事で私が提唱したいのは、基礎からきちっと積み上げる、実直かつ具体的で不安のない英語の勉強方法である。
重要なところは全部網羅していると思うし、実際に自分で試してみてうまくいったものばかりだから、信頼性の高い勉強法だ。
これから紹介する勉強法に加えて、モチベーションの管理と習慣化のテクニック(これに関しては今度記事を書くかも)さえあれば確実に英語は身に着く。
■本論
やることは3つ:文法を理解する(骨組みの構築)、単語・例文(肉付け)、実践(本を読む、ポッドキャストを聴く、など)
以下が具体的なやり方。
◆1. 文法に関しては、『英語リーディング教本』(薬袋 善郎 著)・『日本人の英語』(マーク ピーターセン著)の2冊の本が超オススメ。
そもそも文法は必要なのか?という議論は常にされてるけど、俺の実感としては、文法を学んでおくと英文の理解速度が飛躍的に向上するから、後々すごく楽。
学校英語の影響で文法を忌避する人が多いし、その気持ちはわかるんだけど、本来は文法=ショートカットだよ。
莫大な文例をもとに法則を自分で見出すより、すでに見出された法則を学ぶほうがはるかに手っ取り早いでしょ?
さて、『英語リーディング教本』は英語の理解力が格段に向上すること間違いなしの超名著!!
そんなに厚くない本なのに、効果がめちゃくちゃ高い。
俺が今まで読んだ参考書のなかで一番役に立った。誇張じゃなくてマジで。
この本を理解すれば、英文法の骨格は完成する。骨格さえ出来てしまえば、後は肉付けするだけだ。
『日本人の英語』は、日本人にありがちな英語のミス(例えばI ate chicken last night.とI ate "a" chicken last night.の違いなど)が豊富に書いてあって、英語リーディング教本でカバーしきれなかった冠詞・前置詞・自制などの微妙なニュアンスを理解するのに非常に役に立つ。
文法の学習は、基本的にこの2冊だけ読めばOK。
だが、上級レベルになるにしたがって、冠詞や文法の微妙な違いが気になるようになると思う。
そういうときは、『例解 現代英語冠詞事典』(樋口 昌幸 著)、『ロイヤル英文法』がおすすめ。
ちょっと高いけど、どっちも枕元においていいほどよく出来た本だ。
◆2. 単語の習得は、P-Study Systemという無料のソフトウェアが超おすすめ。
忘却曲線理論とやらを参考にしていて、ゲーム感覚で効率的に単語が身に着くソフト。
俺はP-Study Systemを利用して、大体2年間の勉強でGREレベル(アメリカの大学院入試)の語彙力を身につけることが出来た。
これに出会う以前は、俺は単語帳を買って、音読したり、ノートに書き写したりしたが、結局やる気がなくなってやめてしまった。
もう単語を覚えるのは無理かと諦めかけていたんだが、このソフトウェアを使って毎日コツコツ学習していたら、見事なまでに単語が定着した。
きっと俺みたいな人は多いと思うんだけど、机に向かって紙面を相手に学ぶのと、PCを使って学ぶのでは、心理的な労力が全然違う。後者の方が圧倒的に気楽。
よく単語の習得方法として、英文を読みながらいちいち辞書をひけって人は多いんだけど、よっぽど根性のある人じゃないと続けられないよ。
辞書を読んでるのか本を読んでるのかよくわからなくなって、苦痛極まりないからだ。
リーディングと単語学習、2つのプロセスを同時にやるような中途半端なことをしないで、単語は単語だけ一気に覚えてしまうといい。
短期集中・個別撃破作戦で行こう。
やる気のないときはラジオを聴きながらでもいい、とにかくだまされたと思って、やり方はどうでもいいから続けろ!
これ使っとけば絶対に語彙力つくから。
例文の暗記についてなんだけど、これもやっといたほうがいい。
なぜかというと、これは文法の学習と同様に、型を覚えれば、いちいち頭使わなくても英語がスラスラ出てくるから。
書籍は、『英語丸のみ辞典』(全三巻、井上 一馬著)がおすすめ。
例文暗記は結構単調で辛いんだけど、確実に報われる。
だから、暇なときに興味のあるところだけ、気の向くままに音読するといい。
嫌になったらすぐやめるのが、続けるコツ。
◆3. 実践に関しては、特にリーディングを重視するといい。
この段階までくれば安定飛行に入ったようなもの。
既に単語はある程度覚えているだろうから、John Grisham, Sydney Sheldonの小説を読むといい。
本を読みつつ、気になった表現をたくさん蓄えよう。
前述の通りに文法をちゃんと理解していれば、特に頑張らなくても自然に英文が頭に蓄積されていくよ。
俺の場合は、リーディングをたくさんやって、表現を蓄えたから、他の3技能(リスニング・ライティング・スピーキング)は、それぞれ適当な参考書を数冊やるだけで大丈夫だった。
■終わりに
長文を書く習慣がないもんだから、ちょっと疲れてしまった。拙い文章で申し訳ない!
でも、結構たくさん書いたつもりなんだけど、完成したものを読んだらちょっとした作文程度なんだよな。
僕が雪村に出会ったのは、大学の研究室の新入生歓迎会のときのことで、そのとき歓迎する側にいたのが僕で、歓迎される側にいたのがいっこ下の雪村だった。
彼女は、長くきれいな黒髪の落ち着いた女の子で、お嬢様という感じではないが、どこか品のある立ち居をしていた。
僕は彼女とは別のテーブルにつくことになり、でも彼女のことが気になったのでたまにそちらの方へ目をやったりしていたのだけれど、ちゃんと正面に座って話す機会は、ひとつ上の先輩がくれた。
「真田くん、ちょっとこっち来てよ」と先輩が僕を手招いて呼んだ。「この子エーティーフィールド張ってて、俺ひとりじゃキビシイよ」
それで僕は、彼女の向かいに座って話をした。雪村は聡明で、控えめで、微笑みながら人の話にうなずき続けることができるタイプの女性だった。
でも僕は自分のことが話したいわけではなくて、彼女のことが聞きたかった。僕はゆっくりと、何か自分と合うような話題がないかと探した。彼女の趣味は読書で、好きな作家は恩田陸(←「ああ、あのガチホモミステリの……」)。よく読むのは講談社ノベルス(←今にして思えば恩田陸は講談社ノベルスとあんまり関係ない気がする)。映画も好きで、好きな監督はスタンリー・キューブリック(←『バリー・リンドン』)とピーター・ジャクソン(←『乙女の祈り』)。ピクサーとジブリも好き。好きな漫画は『夢幻紳士』『百鬼夜行抄』『うしおととら』『タブロウ・ゲート』……。まともにやったゲームは『ファイナルファンタジーX』くらいで、時間のカウンタが止まるまでやって(←大学受験が終わってから暇だったようだ)、「全てを越えし者」を倒すところまではいったとか。あと何かのレースゲームは前に進めなくて諦めたという。
僕はといえば、好きな作家は星新一で、好きな映画は『ショーシャンクの空に』で、好きな漫画はジャンプとチャンピオンとヤングジャンプとヤングマガジンとスピリッツとモーニングだった。僕はその程度の文化パワーの人間だった。
雪村は本当に本が好きで、暇なときには一日一冊くらいのペースで読んでいた。「『雑食なのでなんでも読みます』とか言うやつは信用できねえよ。そういうやつは絶対に大して本を読んでない」と吐き捨てる友人が僕にはいたが、雪村は本当に雑食で、ノンフィクションを除けばなんでも読む女の子だった。小説も漫画も。
その新入生歓迎会の日は、友達が帰るというので、彼女もそれについて早めに帰っていってしまった。僕はもっと残っていってよと頼んだけれど、穏やかに断られてしまった。
次に僕が彼女と話をしたのは、それからしばらく後の教養の授業のときのことで、雪村は教室の最前列に座って、社会学だったか文化人類学だったかの講義を無視してペーパーバックを読んでいた。
勇気を出して隣りに座って(←勇気を出したのだ)、何読んでるの、と彼女に訊ねた。雪村は手に持った本の表紙を見せてくれた。G.R.R.マーティンの『玉座をめぐるゲーム』だった。もちろん僕にはまったくわからなかった。
それからも僕は、折にふれては勇気を出して彼女に話しかけていった。レポートがあるので……と断られてひどく落ち込んだりもしたけれど、ついに僕は彼女を連れて名古屋城にデートにいくことに成功した。名古屋城はつまらなかったけれど、彼女といるのは楽しかった。
これはおもしろかった。本当に。
それからも授業で隣りに座ったり、食事に誘ったりして、僕らは付き合うことになった。僕は実家に住んでいて、彼女は下宿をしていたので、よく彼女の家に泊まって二人で本を読んだり、映画を見たりした。本山にゲオがあったので、近所でレンタルができて助かった。
でも不思議なことに、幸せなことはそんなに長く続かないもので、僕と雪村が二人で東尋坊を見に旅行に行ったとき、泊まった旅館でカニを食べて一緒の布団で寝たあと、彼女は僕の知らない何かに引っ張られて、僕が寝ているうちに布団を出て服を着替えて旅館から脱げ出して、東尋坊の先から海に飛び降りてしまう。
東尋坊では死ねないという話があるけれど、やっぱりそれは嘘で、飛び降りればちゃんと死ぬ。雪村がそれで死んだのだから間違いない。
彼女を失った僕は悲しくなって、雪村が死んだというそのこと自体よりもむしろ雪村が僕に一言も告げずに死んでいったことに鬱々と悩んで、こりゃだめだ、このままじゃ何も解決しない、と思ってそのまま十五の夜ばりにバイクで走り出す。でもそのバイクは別に盗んだものじゃないし行き先もきちんとわかっていて、僕は一直線に福井まで行って、雪村と同じように海にダイブする。そして生きて浮かんでくる。本当に死にたいのなら、そのための飛び降り方をしなければならない。
病院のベッドでしばらく暮らすことになった僕は、とりあえずアマゾンで小説と漫画と学芸書とDVDを注文しまくって、それを片っ端から消費する。雪村が生きていたときにはこの女はまたなんか読んでんなあとしか思っていなかった僕が、いまさらになって雪村の触れていたものたちに目を向け始める。村上春樹を、伊坂幸太郎を、恩田陸を道尾秀介を舞城王太郎を僕は読む読む。雪村のようにペーパーバックをぺらぺらとはいかないが、翻訳者に感謝しながら、ヴォネガットをカポーティをフィッツジェラルドを読む読む。福満しげゆきを藤田和日郎を増田こうすけを読む読む。カントを、デリダを、ヴィトゲンシュタインをホフスタッターをドーキンスを読む読む。そんでDVDはよく考えたら病室じゃ見られねえなと思ってそのままジャケットだけを眺める。いいじゃんアマデウス。時計じかけのオレンジ。タクシードライバー。
そして読みたい本をあらかた読み終えてしまったので、そろそろ家に帰ってDVDでも見るかと思って僕は退院する。退院するために荷物を片付けてきれいな服に着替えて、もう忘れ物はないよな、と思って振り返った病室に雪村がいるのを見て僕はびっくりする。
「いまさら化けて出てんじゃねーよ」と僕は言う。
でも雪村は生きていた頃と同じ顔で、僕がさっきまで寝そべっていた病室のベッドに腰掛けている。いつもと同じように黒い服ばっかりを着ていて、別に幽霊だからって白いベッドが透けて見えたりはしない。
「いやーいいじゃん。嬉しいでしょ」と雪村は言う。
そんな口調じゃねーよ。
みたいな事を言ってるとある英文記事が面白かったので訳してみた。
********************
http://www.cracked.com/article_18817_5-reasons-future-will-be-ruled-by-b.s..html
未来がハッタリによって支配される5つの理由
理想の未来を思い浮かべてみよう。いや、地球最期の男になった自分がゾンビの群れを蹴散らす妄想じゃなくて、社会から見た理想の未来を。エネルギーはクリーンで無尽蔵、品物は豊富で汚い仕事は機械が全てやってくれる。みんな幸せでしょ?
でも実は、この未来は既に色んな意味で実現している。そしてこの未来を表す言葉は「屁」だ。
とりあえず説明しようか。
#5.
もし俺がお前に「予算ゼロで可能な限りのポルノをネットから持ってきてくれ」と言ったら、どれだけのエロ画像・エロ動画を持ってくる?
多分答えは「全部」じゃないだろうか。
これがちょっと面白い話につながる。ここ数十年、発展途上国では汚染された乳児用粉ミルクで何千もの赤ん坊が死んでいる。あれ、面白いって言っちゃった?ごめん、使う単語を間違えた。とにかく、何が起きてるかって言うと、衛生環境が悪いため母親は粉ミルクを汚染された水で溶かしている。んじゃ何で自分の身体からタダでミルクが作れるのに、わざわざ毒の粉ミルクを赤ん坊に与えるのか?それは粉ミルクの製造社であるネスレがそうしろと言ってるからだ。
企業はタダで手に入れられるものに対してお金を出すよう説得する……みんなが知りたかった未来の姿がこれだ。
みんな俺がファイル共有やデジタル著作権や、腹黒なレコード会社の話をするんじゃないかと思うだろうけど、あんなのはこれから来る未来のほんの一片にすぎない。世界は変わった。生まれた時から俺達の頭に叩き込まれた社会のルールはひっくり返されようとしている。
未来学者やSF作家はよく「欠乏のない社会」――スタートレックのように、物質複製機やフュージョンリアクターが全ての欠乏を終わらせた社会について口にする。確かに物凄く無茶な妄想に聞こえなくもないけど、俺たちの生活の中では、これが既に実現してる部分が沢山ある。エロなんかそう。今ポルノは空気よりも豊富だ。空気は有限だけど、今人類は宇宙が燃え尽きるまでエネルギーをおっぱいのJPG画像に変換する機械を手にしている。今やおっぱいは無尽蔵なのだ。
さて、ツイスターゲームすら出来ないような狭い部屋でも、そこで過ごす時間のほぼ全てをネットサーフィンとネットゲームに使うんだから構わないっていう人がどれだけいるか。彼らは別にプール付きの二階建ての一軒家が欲しい訳じゃない。300ドルのネットブックと月額20ドルのネット接続があれば、友人、出会い、娯楽、趣味、そして家族や同僚との連絡全てが可能になる。家で仕事をする事すら可能になる。
マズローの欲求段階の多くがデジタルのみで満たされる事が可能なのが今の時代だ。
俺たちネット住民はゲームのデジタル著作権等についてぎゃーぎゃー騒いでるだけで、事のスケールの大きさに全く気が付いていない。まるで生まれた時からずっとフェンスの中に閉じ込められた犬が、嵐でフェンスが吹き飛ばされて、周りを見渡して「すげぇ、庭だ!」ってはしゃいでるようだ。
違うぞハチ公。目の前に広がってるのは庭じゃなく、世界そのものだ。
#4.
ビジネスは、生き延びるために無尽蔵な製品が有限であるフリをしなければならない。
というわけで……理想郷が実現した!人類の勝利だ!もうこんな記事読むのやめてパーティでも始めようぜ!
いや、ちょっと待て。粉ミルクの件を忘れてないか?
ここから話が色々とトチ狂ってくる訳で。例えば、公共の図書館は過去500年もの間本を無償で貸し出してきた。出版社は、図書館が本を買っているからこれを良しとしているし、人気のある本なら一度に何冊も貸し出せるよう複数冊購入してくれる。そして何度も読まれると本はボロボロになるから、数年置きに買い換えてもくれる。
そこで、出版社はより優れた本を作り出した。電子書籍と言う、100億回読まれても傷一つつかない不滅の本だ。このとんでもない代物を生産するのに幾らかかるかって言うと、これが1円もかからない。出版社に何も支払わなくても、読者は自分で本の複製品を「生産」して自分のパソコンに保存する事もできる。この本もまた「無尽蔵」だ。
なので、出版社にとって次のステップは単純明確だった:本が自滅する仕様にする事。
図書館に売られた電子書籍は1年後、もしくは特定の回数だけ貸し出された後に自動削除されるようになった。これは出版社と公共図書館の間でとんでもない論争の種になった。何せどちらも社会の構造をバラバラにするような「ほつれ」を見つけてしまったのだから。考えてもみよう:
A. 自然劣化しないのなら、客に必要な分だけの電子書籍を買い集めて永久に保存する事も出来るんじゃないの?
B. ちょっと待てよ。ただの電子ファイルだろ?じゃ1冊だけ買って、後は読みたいって言う客に対してコピペしてあげればいいんじゃないの?
C. ちょっと待てよ。そもそも図書館なんて必要か?出版社から買って自分で友達にコピーしたものを“貸して”やればいいんじゃないの?
D. ちょっと待てよ。印刷も製本も必要ないのなら、そもそも出版社なんているの?作者から直接買えばいいんじゃないの?
E. ちょーーーっと待てよ。作者が作った1冊を用意すれば、あとはみんなそれをタダでもらっちゃえばいいんじゃないの?
ここで何が消滅したかをちょっと考えてみよう。出版会社の社員が詰まった高層ビル、本が詰まった倉庫、本屋、図書館、印刷機が並んだ工場、製紙工場、作者が印税で買ったいろんな物。これら全てが消滅。
これら全てを何とか維持していく為、出版社はFARTSと呼ばれるものを利用している。FARTSとはForced ARTificial Scarcityの略で、直訳すると「強制人工欠乏」という意味だ。いや、こう呼んでるのは俺なんだけど、俺くらいのネーミングセンスが連中にもあればみんなこう呼んでるはず(訳注:FARTS=「屁」。以降はこれを「屁」と訳す)。
みんなよく聞け:未来はFARTSに支配される。
みんなソニーのマトリックスみたいな近未来バーチャル世界「Playstation Home」がデビューした時を覚えてるか?その時なんとも衝撃的な事件があった。人気ウェブ漫画Penny Arcadeの連中がバーチャルボーリング場にログインして、レーンが開くのを待つため並んでいた。ボーリング場なんて本当は存在しないはずのバーチャル空間で、だ。全てがサーバ上で0と1で作られてる世界なら、レーンなんて実質的に無限に用意できるはずだ。誰でもいつでも使えるレーンが何千も用意されててもおかしくはないのに、俺らに用意されたのは「屁」だ。
#3.
娯楽やコミュニケーションから仕事をするのに必要なソフトまで、あらゆるデジタル製品に言える事だが、俺たちの経済の大半は「屁」によって機能しているのが現状だ。そして時間が過ぎれば過ぎるほど、日常的に利用しているもの全てがその見えない雲に覆われていく。
凄いだろ?でもまぁ、お前さんは上の連中の言われた通りの事なんてしないだろう。企業が何もしなくても手に入るようなものに対して好き勝手に値札をつけるような未来、許すはずもない。これじゃあまるで……うーん……女性が自分の体液を使えば済むような事で大量のお金を使ってしまうようなもんじゃないか。
俺だってそう思ったよ。俺は情報強者なんだぜっつって。んで、机の周りを見渡してみた。
俺の隣にはAquafina天然水のペットボトルがある。何故かというと:1990年代にペプシ社とコカコーラ社がペプシとコーラの売り上げが伸びない事に気付いて、実質無限にあるはずの水道水を買って、ボトルに詰めて、山の絵が印刷させたラベルをつけて、値段を200倍にして、そんで俺がそいつを買った、という訳。
水の隣には頭痛薬のExcedrinがある。そりゃあ店がローカルで出してる銘柄だって分子構造レベルまで一緒だろうけど、俺は倍の金を出してこっちを買った。だってExcedrinだぜ?キャッチフレーズが「ザ・頭痛薬」なんだぜ?んでその下にあるのがローン支払いの明細書で、「手数料:$5.00」と書かれている。
俺のパソコンなんてもっとやばいぞ。Windows 7をインストールしてあるんだけど、新品のHDDだったんで入れたのは200ドルのフルインストール版だ。アップグレード版は100ドルなんだけど、ちなみにどっちもディスクの中に入ってるデータは実は全くの一緒。安い方はただ前のバージョンがインストールされてるかどうかが分かる機能があって、無ければインストールさせてくれない仕様なだけ。
パソコンを新調する事になったら、今インテルがテストマーケティングしてる新しいプロセッサを入れるかもしれない。で、そのプロセッサ、一部の機能が事前に意図的にブロックされてる。何故かと言うと、そのブロックされた機能が使えるようになる「アップグレードカード」を50ドルで売りつけるためだ。
連中は俺達を虚無に対して金を支払うよう教育してて、俺達はずっとそれに従ってきた。お前の机の上にだって「屁」があるだろ?
#2.
さっき電子書籍を例に出したのは理由がある。俺は機会がある度に本を出してる事を宣伝してる(内容は怪物とチ○コのお話)。今はペーパーバック版が10ドルくらいで出てる。書くのに5年かかった。けど現実は、もしアンタが電子コピー版を入手しようと思ったら、それが可能だって事。お前に金を出させるための「欠乏性」は俺達の妄想の産物にすぎない。John Dies at the Endは350ページ分の「屁」だ。
Amazon.comと大手出版会社の議論の原点はそこにある。誰も値段をいくらにすればいいのか分からない。何となーく適当に決めなきゃいけない。どうせ最初の一部を作ってしまえば後は生産費はかからないんだから。
その一方、俺と俺の家族と俺が賃貸と車のローンを借りてる銀行とIRSと俺が飯を買ってるスーパーは、みんな少し手を伸ばせば俺の本のコピーがすぐにタダで手に入れられてしまう事に気付かないという共通の期待を抱いている。やがて世界中が同じ期待を抱くようになるだろう。
で、その問題を何とかするのが、知的財産権を侵害する人間に対して、誰であろうと鉄槌を下す世界規模の条約b>ACTAだ。ネットの住民はみんなこいつを嫌ってる。何故なら①みんなのHDDを覗き見出来るレベルのプライバシーの侵害が出来ないと実施出来ない事と、②無意味だからだ。まるで沈んでいる船が海に大砲を向けて威嚇しているようなものだ。
何でこんな事をするのか?大企業やレコード会社はアクティビジョンの利益を守るためか?メタリカの反海賊版活動家(笑)ラーズ・ウルリッヒが純金じゃなくプラチナで出来た飛行機を買うためか?どっかのライターがサルにオートバイの乗り方を教えるためか?ふざけんな!
でも犬とフェンスの話を忘れちゃいけない。世界は変わった。全員にとって。俺もラーズ・ウルリッヒと同じ状況になったし、お前だってそうなんだ。
ラーズは音楽を売って飯を食って、お前は自分の労働力を売って飯を食ってる。いずれは氏の音楽と動揺、お前の人としての労働力は電子化されて低コストで代用が効くようになり、お前の技術は完全に無価値になる。
どっかのゲーム屋さんで働いてるって?次の世代のゲーム機はゲームを直接ダウンロード出来る仕様になるからゲーム屋なんていらなくなる。ビデオ屋だって同じだ。ブルーレイは多分俺達が最後に目にする物理的なメディアだろう。レジのバイト?セルフレジに仕事が取られるどころの話じゃないぞ。将来的にはRFIDシステムを導入して、買い物品を持ったままセンサーを通りすぎれば自動的に口座から引き落とすシステムになる。スターバックス?お前のやってる仕事の何が機械で出来ないって言うんだ?郵便局?あそこで働いてる奴は実質人間スパム配信機でしかないだろ。郵便物の半数以上は真っ先にゴミ箱行きになる不用品だ。メール社会となった今、郵便局にとって利益が得られる客はダイレクトメール業者しか残っていない。
ちなみに俺がサービス業ばかり挙げているのは、お前らの中の殆どが製造業で働いてるはずが無いからだ。そういう仕事の殆どはもうロボットにアウトソーシングされてる。
技術力の発展のお陰で、雇い主にとって労働の殆どはお前らにとってのネットポルノと同じ「欠乏のない」ものになる。連中にとってコイツはポルノと同じくらい勃起させてくれるものだ。
ACTAやMPAAやRIAAをどれだけ憎もうが、お前の給料は既に「屁」で支払われている。
#1.
文明を救うのは「ハッタリ」
こうして俺らは貪欲な企業どもに金を支払わなくても大抵のものはタダで手に入る事を喜んでるが、それは同時に企業どもが俺らに金を支払う必要もなくなってるって事だ。どちら側も、将来人々は特に理由もなく「“支払う”事を選択する」事を期待している。ゲーム屋さんなら、店員も会社も客が唐突にゲームに対して対価を払う事を選択し、それを人から受け取る事を選択してくれるようにと願っている。
「良い仕事をすれば社会はそれに対して喜んで対価を支払う」みたいな屁理屈はいらない。ネットの住人の俺は、その理屈がどうなってきたか見てきた。サーバが落ちるくらいトラフィックが多い人気サイトが、PayPalの募金口座で閑古鳥が鳴くばかりという理由で閉鎖に追い込まれるなんて何度見てきたことか。もしその仕事に対しての生来の価値に見合った対価を支払うのが人間なのなら、Achewoodが「お金ください」とお願いする事もなかった。
「自分で払う対価を決める」という制度は最終的には募金だ。そして人は特定の気分にいるか、余分なお金を持っている時にしか募金をしない。商業の代わりには成り得無い。
別に給料の話に限って言ってる訳じゃない。人間社会ってのは、人が作ったものを人が必要としてるから成り立っている。総合的なニーズが人を集結させ、リソースを共有させ、そうやって最初の集落が生まれていった。人はモノが必要で、他人が俺らに必要なモノを与えてくれるためにも、俺らが作ったモノを他人が必要としてくれなくちゃいけない。これが何千年も続いてきた人間社会の歯車だ。そして今その歯車が止まろうとしている。
という訳で、社会を救うためにも、今まで何度も人類を救ってきた見えないチカラに頼らないといけないようだ。俺はこいつを「ハッタリ」と呼びたい。
ハッタリは次の成長産業だ。ペットボトルの中の水が山の天然水だと、汚染された粉ミルクは乳児に命を吹き込むと俺らや教育を受けていない母親達に信じさせてきたアイツらは、将来的には外科医よりも重宝される事になる。
文明の発展と同時に、彼ら「屁」の守護者達は俺達が無から作れるものに対して、「良い人であるために」みたいな曖昧な価値観を元に、対価を支払う文化を形成するだろう。丁度Appleのロゴが、既に安価で出回ってるものと同価値のものに対して2倍の金を出させる洗脳効果があるのと同じように。
そしてやがて常温核融合炉やナノテク生産、人間一人につき100GB/秒のWi-Fi接続で電子コンタクトレンズに色々とダウンロードできる技術が実現化した時代になっても、ハッタリ師達は「古き伝統」を守り続けているだろう。3セントで複製機が吐き出してくる靴よりも、80ドルの靴を買えと。何せこっちは「手作り」なんだから。
「支払のための支払」を新時代のモラルとするかもしれない。それか「屁」を中心とした新興宗教か……
少なくとも俺らが他の方法を思いつくまでは。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~dabomb/english_internetradio.htm
ひたすら英語のシャワーを浴びる。
仕事が終わっても日本人と付き合っちゃ駄目。英語カフェへGo!
ちょっと費用はかかるけど
さて、はてなに限らずネット上には、「良い英語の学習法」に関するエントリがたくさんあります。ここらで「悪い英語の学習法」をまとめてみようと思い立って書いてみました。
英語というのは、自分の脳と肉体を駆使した活動です。「英語が出来る」というのは、必要に応じた形で自分の脳と肉体を動かすことができる、ということです。どうやったらそれができるようになるのか?自分で動かしてみることを繰り返して練習するしかないんですね。例えば、「聞き流すだけで英語が上達する!」と謳う英語教材があります。あれは、「サッカーの試合を山ほど見流すだけでサッカーが自分でも上手にできるようになる」とか、「ゲームのプレイ動画を見流すだけで上手にプレイできるようになる」とか、「プロのミュージシャンのライブを見流すだけで楽器が演奏できるようになる」というぐらい荒唐無稽な話です。人間がアウトプットの反復練習無しに習熟できる技能なんてこの世にありません。
(2) アウトプットをチェックしない
じゃあ例えば音読してればアウトプットしたことになるか。毎日部屋で一人でただただ読んでいればいいのか。何もやらないよりは遥かにマシですが、効率のいい方法とはいえません。アウトプットにはフィードバックが必要です。果たしてそのアウトプットが本当に適切なものであったのかをチェックして、修正を繰り返すことが必要です。そうしないと実際に使い物になる技能は身につきません。例えばあるゲームを、無敵モードで毎日プレイしていたとして、上手になるでしょうか?目をつぶって同じボタンを連打しているだけで毎日同じ結果が出る作業をしていて、上達するなんてことがあるでしょうか?
(3) 身の丈に合わないインプットを選ぶ
サッカーの素人がワールドカップの試合を見たとします。「面白い!」「すごい!」という感想はあっても、サッカー技術に関して得られる情報は決して多くありません。それに対して、自分で実際にサッカーに取り組み、ある程度以上のレベルに達している人間は、同じ試合からずっと多くの情報を得ることができます。「今の体の使い方すげえ」「ああ、ああいうフェイントの仕方があるのか」「あの状況であそこを見てるなんて!」などなど。つまり、同じインプットであっても、そこから得られる情報は、学習者のレベルに応じて大きく変わると言うことです。あなたが何らかの英語教材を使っていて、「ああ、これはこういう風に表現すればいいのか」という風に、自分の英語の糧となるような情報を見いだせないのであれば、その教材はあなたの身の丈に合っていません。
(4) 普段できないことをやろうとする
例えば「ペーパーバックを手当たり次第に読みなさい」という人がいます。実際にやってみる前に、自分にそれができるのか良く考えてみて下さい。例えば、日本語の新書を手当たり次第に読みなさい、と言われて、それをどれだけ続けられるでしょうか。実はそれが出来るのは、知的好奇心に溢れていて、なおかつ有象無象の中から自分にとって面白いものを見つけられる嗅覚を持つ人だけなんです。普通の人が手当たり次第に本を選ぶと、ほぼ確実に「面白くない」ものに当たります。面白くないものを努力で面白くすることは絶対にできません。そして面白くない学習が長続きすることもありません。
(5) 特別な才能のある人を真似しようとする
大人になってからの外国語学習は、楽器の演奏と似た部分があって、「才能の差」が確実に存在します。沢山の外国語を苦もなく習得できる人もいれば、その何倍もの時間をかけなければならない人もいます。そして後者の方が圧倒的に数が多い。問題は、後者が一握りの天才と同じやり方で学習しようとすることです。この背後には、往々にして「楽をしたい」という心理が隠れています。あの人はあんなに楽々英語が出来るようになってる、じゃあ私もこんな面倒くさいことしなくていいんだ。残念ながら、殆どの場合「私」には特別な才能はなく、天才と同じような上達もありません。
上記は全くもって「当たり前」なことなはずです。しかし私が見る限り、英語学習に関しては、この当たり前を置き去りにした迷信が跳梁跋扈しています。有効なメタファーは「スポーツ」「(アクション系の)ゲーム」「楽器演奏」です。全てに共通するのは基礎を大事にすること、反復練習を行うこと、アウトプットのチェックを繰り返すこと、そして少しずつ上達していくことなのです。
「文庫本『姥(うば)捨て山』説」というのがある。
人気作家の小説などは、雑誌に掲載されたあと、しばらくたって単行本になる。私が若いころは、単行本化された本はかなり長いあいだ入手できたが、いまはそうはいかない。書店の棚は飽和状態で、返品されれば日の目を見る機会は少ない。ほどなく断裁されて品切れ状態になる。そうなれば、有名作家の一時は評判になった作品でも入手できない。出版社は有名作家に顔が立たず、とりあえず文庫本にすることで納得してもらおうとする。しかし、文庫化された本は、コミックスなどごく一部を除いて、有名作家の本でも劇的に売れず、流通はしているものの事実上、死んでしまう。
役立たずの老人を殺してしまうのは殺すほうも気がとがめる。殺すのではなくて、山に捨ててくることでその残虐性を減じるというのが「姥捨て山」の巧妙な仕組みだが、文庫化のプロセスはこうした「姥捨て」にそっくりだ。本を殺すのではなくて、穏便に「自然死」させようというわけだ。
こうした「文庫本『姥捨て山』説」というのは、私が唱えたわけではない。文庫本が世の中に登場し始めたころから、関連業界でひそかに囁(ささや)かれていた言葉だ。
いうまでもなく、こうした文庫本は、読者にとって魅力的なものにはならない。個々の本そのものの価値は文庫化されたからといってもちろん減るわけではないが、注目度が下がっているものであることはいなめず、そうした本ばかり集めた「姥捨て山」では、文庫が魅力的なものになるはずはない。かくして文庫はやっぱり売れず、たいていの本にとってはきわめてマイナーな販路にとどまっている。
出版社は利益を確保する必要があるから、高値で売れる新刊について敢えて廉価版を出そうとは考えない。
海外のペーパーバックが成功したのは、ベストセラーの新刊なども同時発売で、しかもきわめて安くペーパーバック版を販売したからだ。
日本ではこのような期待はできない。日本は、文庫後進地帯、もしくはマンガ文庫に特化した「ガラパゴス地帯」になることだろう。
せいぜい言えるのは、出版市場が縮小し、出版界が新たな販路を切り開く必要性がいよいよ高まってきたということぐらいだろう。
ただそれが、従来の流通経路を破壊し、出版社が自分たちの存在基盤そのものを掘り崩す可能性を覚悟してまで動く気になるほどのものかといえば疑問に感じる。世の中の大きな期待によって動くということは何につけてもあるわけだが、業界の存続そのものに関わっているということになれば、そう簡単には動かないだろう。
参考URLhttp://allatanys.jp/B001/UGC020005120100427COK00537.html]
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-171.html
読書猿(くるぶし)さんによれば
Atkinson & Hilgard's Introduction to Psychology 15th ed. by Susan Nolen-Hoeksema、Barbara L. Fredrickson、Geoff R. Loftus、 Willem A. Wagenaar (ペーパーバック - 2009/6/15)
英文平易。解説丁寧。要約簡潔。心理学史的視点を維持しつつ、現代心理学の分野のほとんど全ての重要項目を網羅したオールラウンドの『王道』的教科書。邦訳『ヒルガードの心理学』(2005)は、一つ前の版の訳になってしまった。
らしいよ。
臨床心理と計算機科学はわからない。
はてな界隈では、定期的に英語の習得法が話題になるが、俺もそろそろ参入してみようかな、と。
■自己紹介
俺の英語力は、TOEIC975点、実用書・平易なペーパーバックなら辞書なしで速読できるレベル。
CNN/BBCが字幕なしで理解できて、それなりに気のきいたことも英語で話せる。
語彙力は、http://www.wordengine.jp/vcheckで測定してみたところ、約20000語。
■趣旨
だが、巷にあふれかえる英語の勉強法は、基礎力がないのにいきなり実践を勧めるものが多い。
例えば、臆せずに何でもいいからしゃべってみろだの、辞書をひきながら本を読めだの。
この手の勉強方法は、学習者のコンフォート・ゾーン(快適な領域)を外れることが多く、大抵の人は不安感や不快感を感じて、学習をやめてしまう。事実、俺も何度も挫折してきた。
そこで、この記事で私が提唱したいのは、基礎からきちっと積み上げる、実直かつ具体的で不安のない英語の勉強方法である。
重要なところは全部網羅していると思うし、実際に自分で試してみてうまくいったものばかりだから、信頼性の高い勉強法だ。
これから紹介する勉強法に加えて、モチベーションの管理と習慣化のテクニック(これに関しては今度記事を書くかも)さえあれば確実に英語は身に着く。
■本論
やることは3つ:文法を理解する(骨組みの構築)、単語・例文(肉付け)、実践(本を読む、ポッドキャストを聴く、など)
以下が具体的なやり方。
◆1. 文法に関しては、『英語リーディング教本』(薬袋 善郎 著)・『日本人の英語』(マーク ピーターセン著)の2冊の本が超オススメ。
そもそも文法は必要なのか?という議論は常にされてるけど、俺の実感としては、文法を学んでおくと英文の理解速度が飛躍的に向上するから、後々すごく楽。
学校英語の影響で文法を忌避する人が多いし、その気持ちはわかるんだけど、本来は文法=ショートカットだよ。
莫大な文例をもとに法則を自分で見出すより、すでに見出された法則を学ぶほうがはるかに手っ取り早いでしょ?
さて、『英語リーディング教本』は英語の理解力が格段に向上すること間違いなしの超名著!!
そんなに厚くない本なのに、効果がめちゃくちゃ高い。
俺が今まで読んだ参考書のなかで一番役に立った。誇張じゃなくてマジで。
この本を理解すれば、英文法の骨格は完成する。骨格さえ出来てしまえば、後は肉付けするだけだ。
『日本人の英語』は、日本人にありがちな英語のミス(例えばI ate chicken last night.とI ate "a" chicken last night.の違いなど)が豊富に書いてあって、英語リーディング教本でカバーしきれなかった冠詞・前置詞・自制などの微妙なニュアンスを理解するのに非常に役に立つ。
文法の学習は、基本的にこの2冊だけ読めばOK。
だが、上級レベルになるにしたがって、冠詞や文法の微妙な違いが気になるようになると思う。
そういうときは、『例解 現代英語冠詞事典』(樋口 昌幸 著)、『ロイヤル英文法』がおすすめ。
ちょっと高いけど、どっちも枕元においていいほどよく出来た本だ。
◆2. 単語の習得は、P-Study Systemという無料のソフトウェアが超おすすめ。
忘却曲線理論とやらを参考にしていて、ゲーム感覚で効率的に単語が身に着くソフト。
俺はP-Study Systemを利用して、大体2年間の勉強でGREレベル(アメリカの大学院入試)の語彙力を身につけることが出来た。
これに出会う以前は、俺は単語帳を買って、音読したり、ノートに書き写したりしたが、結局やる気がなくなってやめてしまった。
もう単語を覚えるのは無理かと諦めかけていたんだが、このソフトウェアを使って毎日コツコツ学習していたら、見事なまでに単語が定着した。
きっと俺みたいな人は多いと思うんだけど、机に向かって紙面を相手に学ぶのと、PCを使って学ぶのでは、心理的な労力が全然違う。後者の方が圧倒的に気楽。
よく単語の習得方法として、英文を読みながらいちいち辞書をひけって人は多いんだけど、よっぽど根性のある人じゃないと続けられないよ。
辞書を読んでるのか本を読んでるのかよくわからなくなって、苦痛極まりないからだ。
リーディングと単語学習、2つのプロセスを同時にやるような中途半端なことをしないで、単語は単語だけ一気に覚えてしまうといい。
短期集中・個別撃破作戦で行こう。
やる気のないときはラジオを聴きながらでもいい、とにかくだまされたと思って、やり方はどうでもいいから続けろ!
これ使っとけば絶対に語彙力つくから。
例文の暗記についてなんだけど、これもやっといたほうがいい。
なぜかというと、これは文法の学習と同様に、型を覚えれば、いちいち頭使わなくても英語がスラスラ出てくるから。
書籍は、『英語丸のみ辞典』(全三巻、井上 一馬著)がおすすめ。
例文暗記は結構単調で辛いんだけど、確実に報われる。
だから、暇なときに興味のあるところだけ、気の向くままに音読するといい。
嫌になったらすぐやめるのが、続けるコツ。
◆3. 実践に関しては、特にリーディングを重視するといい。
この段階までくれば安定飛行に入ったようなもの。
既に単語はある程度覚えているだろうから、John Grisham, Sydney Sheldonの小説を読むといい。
本を読みつつ、気になった表現をたくさん蓄えよう。
前述の通りに文法をちゃんと理解していれば、特に頑張らなくても自然に英文が頭に蓄積されていくよ。
俺の場合は、リーディングをたくさんやって、表現を蓄えたから、他の3技能(リスニング・ライティング・スピーキング)は、それぞれ適当な参考書を数冊やるだけで大丈夫だった。
■終わりに
長文を書く習慣がないもんだから、ちょっと疲れてしまった。拙い文章で申し訳ない!
でも、結構たくさん書いたつもりなんだけど、完成したものを読んだらちょっとした作文程度なんだよな。
もっと作文能力を上げたいし、他にも英語に関して語りたいことはたくさんあるから、後学のためにフィードバックを募集中。
実は真の敵は英語の勉強方法ではなく、「続ける力」なんだよね。これについて後日詳しく書きたい。
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5000users御礼
本書は評者からみると不思議な本である。実に面白い、同時に反米的な歴史記述とCIA陰謀論に挟まって中国重視論の独特の言い回し、つまり三つの部分が混載されている。ひょっとしてチョコレートでくるんだ毒入り饅頭かも。
題名だけをみると保守派の多くは反発を抱くだろう。しかし誤解を恐れずにアイ・キャッチを狙うあたりは著者ではなくて版元の商業主義的魂胆かも知れない。
冒頭から脱線で恐縮だが、この光文社ペーパーバックスのシリーズは、本書が135冊目。執筆陣は浜田和幸、松本道弘、藤井厳喜、野間健、徳本栄一郎の各氏らと何故か知り合いも多い。とくに浜田、藤井両氏は、このシリーズから数冊上梓されていて、執筆陣も左右混交である。
新世代が読むだろうと思う。というのも、横組みで英語がばんばん入るからだ。逆に小生のように日本語の書物は縦書きでないと親しめない世代にとって、最初はこのシリーズを読むのに骨が折れた。仄聞するところでは、横書きシリーズ、伸び悩みがあって間もなく終巻らしい。閑話休題。
さて近藤大介氏、期待の新作である。近藤氏は『週刊現代』前副編集長。元北京大学留学組。平壌にも小泉訪朝に随行、スクープが多い。日本が米国を捨てて中国と同盟し、韓国も仲間に入れようか、という提言は日本の外交現実を無視しているが、さすがに中国語と韓国語が流暢な著者だけに、情報には格段のおもしろみがある。しかし結語の三国同盟は納得しかねる。
サロン・マルキストという比喩は、革命をワインを飲みながらサロンで語る知識人。典型はサルトルなど。本書を通読した最初の印象はそれである。サロンにおける理想主義。日本共産党は歌を忘れたカナリア、飽きたらず暴力路線に走った反ニッキョウ系は、三派四派五派と分裂し、中核派はと革マル派は互いに殺し合った。
本書に何が欠けているか。暴力革命で政権を取った中国共産党は十三億人の無辜の民を壟断し、支配し、反革命勢力、すなわち民主主義者、独立運動家を「テロリスト」と名付け、逮捕し拷問し処刑する。敵は殲滅するのがかれらの掟である。
中華民族というスローガンは他民族を漢族へ「同化」することであり、これは五族協和の日本の理想とはほど遠く、孫文のそれは「漢族」が「満蒙回蔵」を強制同化し、支配することを意味する。
ウィグル絶滅のためにはロブノール近辺から楼蘭にかけて、46回の核実験。おそらく数十万人が被爆して死んだ。7・5ウルムチ暴動では平和なデモ隊に軍が出動して水平撃ち。おそらく二千から三千のウィグルの無辜の民が虐殺されただろう。
中国の本質は暴力支配、特権階級は富を独占し、その体制を可能な限り長く持続しえるそのためには外交も利用する。本書は、こうした事実をあえて論じない。だから不思議な本である。
では面白い部分はどこか?日本では親中派政治家はみんなCIAの謀略で失脚したそうである。田中角栄、カナマル某ほか。小沢がニシマツでやられかけたのもCIAだそうな。まだある。金正日がある日、北京から帰国のおりに列車爆破。流川とかいう駅だったが、あれを仕掛けたのもCIA。金正日のコックだった藤本某にはCIAから接触があり、毒殺依頼があった由。こうなると007の世界だ。盧泰愚、陳水扁の失脚は反米姿勢だったから?
真相にちかいことは、陳水扁は国民党の戦術=「野党を貶める生け贄」であり、台湾では司法は独立しておらず、もし陳水扁の汚職をいうのなら馬英九も宋楚楡も似たようなスキャンダルを抱えていながらなぜ司法の追求が突如止んだか。だから台湾における司法は中国共産党と同様に司法権の独立が曖昧で、国民党の顔色を窺う裁判官が多いからである。CIAとは関係がないのではないか。盧泰愚の「自殺」は身から出た錆、でなければ謀殺の可能性も否定出来ない。
というわけで田中の失脚はロッキード証言だが、日米の司法取引の差であって、米国の陰謀ではなかった(徳本栄一郎氏が田原総一郎の陰謀説を批判した。田中ブレーンだった小長氏自身が『そういう線で裁判やマスコミ対策を処理しようと提案したら田中総理は「おう」と言った』と証言している)。
本書を読んで考えさせられる箇所も多い。評者が本書を読みながら、どうしても孫崎享氏の書いた『日米同盟の正体』(講談社現代新書)を連想せずにはおられなかった。
外交官出身の孫崎享氏はイラク、イランでミサイルの雨の中、外交を展開してきた人で三月まで防衛大学で教鞭を執った。(そうそう、これもどうでも良いことだが、バグダッドの在イラク日本大使館で宮崎は、孫崎(当時は公使)と会ったことがある。88年だったと記憶する)。
その外交官がイラク戦争突入はアメリカ人の「旋風のような愛国心」の結果であり、リーカーンの南北戦争、真珠湾攻撃と似ているとする。反戦ムードを一気に好戦へもっていく謀略は政治に付きものであり、その点は近藤氏や孫崎氏の分析に同意するが、なぜか孫崎本には外交的結論がない、つまり日本の自立外交を模索してもいなければ対米追随が悪とも言っておらず、最後の最後はアメリカの核の傘は機能しないだろうと言いながら、日本の核武装は反対という。
つまり本書の著者と孫崎防衛大学前教授のスタンスは徹底して政治のリアリティ、外交の合理主義である。
外交は道徳が入ると機能せず、倫理を持ち込むと、外交の基本が成立しない。打算と国益の追求。しかし戦争の回避。軍事力の背景がない日本は、だからといって「ふつうの国」のように外交独自路線を採用することが不可能である。