はてなキーワード: ハイパーリンクとは
refererじゃ不足ですかね?不足だとしても、どんなリンクだとか、そういう情報を付け加える事自体は簡単です。あとは、それが標準化される(受け入れられる)か否かの話です。
セマンティック・ウェブってその部分が重要になる気がします。
この辺はFOAFとかRSS AutoDiscoveryのような例があります。あと、サーチエンジンのクローラーがとってきた方法も参考になるでしょう。ただ、これも標準化される(受け入れられる)か否かが重要ですが。
結局、その辺の人達が全然動いてない。誰も必要性を理解していないか理解させる事ができていない。ニーズが表面に出てこないから誰も実装しない。標準化しない。できない。
なぜなら、声の大きな人は必要ないし、必要な人は小さいから誰も相手にしないから。
あとは、ニーズ次第でしょう。儲かるほどのニーズがあるか否か。
現状でもおおよその事は出来るし、必要な人は自分で実装したりしてもらったりしています。そういうニーズを汎化してギャズムを越えて儲ける事が出来る、と誰かが確信したら、mixiの様に誰かが立ち上げるんじゃないですか?
http://anond.hatelabo.jp/20070815155514
はいはーい。かつての鉄ヲタで、今はいろいろと『県道』についての記述を充実させている、小人さんですよー。
それを言うなら、jp-Wikipediaは鉄ヲタ率高すぎ、という事になる。結局こういう項目の8割は2割の人間が作る。いや、9割は1割の人間が作る。人数はあまり関係ない。
データベースの充実というのは、世の中に一定割合存在する、データベースの編纂などが大好きな人間(俗に「小人さん」と呼ばれる)が住むか住まないか、という点に大きく左右される。
いやねぇ、鉄ヲタ・道ヲタ・そしてアニオタやゲーオタにとって、Wikipediaってのは居心地がいいんですよ。何がといわれたら、つまり「めいめいが参加することで充実させていく」という喜びが溢れてるから。そしてただ充実させるんじゃなくて、ネットでは「ハイパーリンク」という仕組みがあるから、そこで築かれたデータベースは、それこそ「クモの巣=ウェブ」のようにネットを覆う事になる。
よく、大きな寺社の改装工事の際に、寄進・あるいは寄付を市民に頼む事がある。この場合、たとえば寄進した人の名前を灯篭や石杭に刻むのは、周囲に見られる所に置かれる効果もあるわけで、いわば一種の『ステイタス』とも言えましょう。では、瓦などは?いったん葺いてしまえば、次に取り外す時までは寄進者の名は見えないはずなのに、それでも名入れの瓦を寄進する人は大勢いる。なぜかと考えてみると、それはつまり「ライブ感」というか、イベントへの「参加感覚」が共有できるからではないか、と思ってみたりするのだった。そしてそれは、Wikipediaに参加する小人さんの姿に、そのまま当て嵌まる。
めも。
HTMLに見た目を指定することを書いてはいけないとよく言われるが、それだけでなく、user agentの動作を指示することにも慎重でなければならない。動作を指示する記述とは、例えばtarget属性や、HTML 5のlink typeのprefetch、sidebar、nofollowなどのことである。
これらがあまり有用でないのはuser agentに柔軟な対応をとる余地を与えないということが一番の理由である(当然ながらuser agentにはIEやFirefoxなどの「ウェブブラウザ」だけでなく、検索エンジンのロボットやダウンロードツールなども含まれる)。target属性について考えよう。あなたは何故そのリソースを新しいウィンドウで表示して欲しいと思うのだろう。自分とは違う人や組織によって作成されたリソースだからだろうか。ならば「自分とは違う人や組織によって作成されたリソースだ」と書くだけで良い。user agentは新しいウィンドウで表示するかもしれないし、「別の人によって作成されたリソースです」とアラートを出すかもしれない。あるいは本文と平行して見るべき図だからだろうか。ならば「本文と平行して見るべき図だ」と書くだけで良い。user agentはユーザの設定によって新しいウィンドウで表示したり、サイドバーに表示したりするだろう。「sidebar」についても同じようなことが言える。サイドバーに表示して欲しいのは何故だろう。もしそのリソースが目次ならば、目次と書くだけで良い。(「nofollow」がおかしいというのはHTML 5を策定している人たちもわかっていて、ただ互換性を考慮したようだ。しかし、厳密に言えば、"nofollow"はlink typeとして実装するべきものかどうか疑わしい。一例ではあるが、私のようなiTunesユーザなら、<a rating="0">などと書くことも容易に思いつくだろう)
このように、著者は自分が望む動作ではなくその動作を望む理由だけを書くのが理想的なのである。
付け加えれば、<a href="javascript:...">という記述も不適切だ。これはしばしばJavaScriptが無効な環境にあるユーザに混乱をもたらすとして批判されるが、一番の問題はスクリプトのスイッチは論理的にはリンクではなくボタンだということだ。これはtarget属性や不適切なlink typeでリンクの動作を規定しようとすることと同じ誤解が原因だと思われる。リンクは原理的に動作のスイッチではなく、あくまでリンクなのだ。従って、見た目でそれがa要素かbutton要素かを決めるべきではない。見た目はスタイルシートで指定しよう。
理想的には、クライアントサイドスクリプトも今ほど必要ではないのかもしれない。HTMLのフォームの仕様とuser agentのUIがここまで貧弱でなければ、今日我々がスクリプトでやっている、合理的で、ただの飾りではないことの90%以上はHTMLだけで記述できるのではないだろうか。ウェブのバージョンがいくつになればそれが可能になるのかはわからないが……。
画像とか動画とか音声とかにHTMLを埋め込むことができたら楽しそうじゃね? HTMLに画像や動画を埋め込むんじゃなくて。逆に。写真やイラストを展示するサイトでありがちなのが「リンクはHTMLにお願いします」ってやつで、画像に著作権表示とかコメントとかを添えるには現状そうするしかない。でもやっぱり画像そのものに書き込みたいだろうし、リンクするほうもリンクしたいリソースは画像そのものであって、「おまけ」のほうではないんだよね。俺も友達のバンドのサイト作ったことがあるんだけど、MP3のタグじゃ貧弱だし、ハイパーリンクも使えないし。そういうのもうある?
ウェブ2.0の次は? なんて話も散々既出だが、肝心のウェブブラウザがろくに進歩してないじゃないか。というわけで、ほろ酔い気分の俺がウェブブラウザの中の人たちに要求したいことが4つほどある。
まずはHTML。IEのCSSの対応のまずさは今や誰もが知るところだが、そもそもHTMLもしょぼい。link要素はいつまで黙殺され続けるのかね。かわいそうに。しかし問題はIEに限ったことじゃない。Fxもデフォルトスタイルがしょぼい。h6とか、見出しなのに米粒サイズになっちゃうし。しかも太字だから読めねーよ馬鹿。文字サイズだけじゃなくて、ボーダーや背景色を与えるようなスタイルもあって良いはずだ。まあそういうことができないのは、HTMLを表示制御言語として使っていた我々のせいだが…。Operaではちょっと違うデフォルトスタイルを選択することもできるが、このスタイルもまたしょぼい。もうちょっと頑張って欲しい。
次に、テキストエディタとしての機能を充実させてほしい。ブログだの何だので、ブラウザで文章を書く機会は増える一方なのに、現状ではCtrl+z/x/c/vくらいの機能しかない。Operaなら予め登録しておいた文字列を挿入するやつやスペルチェックはあるが、もっと突っ込んで、単独でテキストエディタとして使えるくらいを目指して欲しい。
そもそも、textareaがinput[type="hidden"]のでかい版でしかないというのもどうなのか。まあこれはHTMLのデフォルトスタイルの話だが。普通、短い語句や数値だけではない「文章」を入力するからこそtextaraeaになっているはずなのだが、それにしては非常に使いにくいじゃないか。そんな気がしない? 俺はエディタで書いてコピペしてるんだけどさ。例えばアイコンだけ表示してあって、クリックすると2chブラウザのレスエディタのようなウィンドウが開かれるとか、そういう実装をしても良いはずだ。あるいは思い切って普通のテキストエディタに丸投げするのも面白い。MUAではそういうことができるものが既に存在する。
3つ目はYouTubeブラウザ。YouTubeだけじゃなくて2chとか、その他の人気サイトも含めて。2chブラウザは既に存在するが、そういうのをウェブブラウザがデフォルトで装備していても良いと思う。OperaがBitTorrentのUAを持ってるように。まあ、無くても良いけど。
4つ目はウェブブラウザの話ではないが、ウェブ向けの画像、音声、動画などの形式が開発されるべきだと思う。というのは、……めんどくさくなってきたので以下適当に箇条書き。各自脳内でつなげて補完しやがれです。
みなさんは、「無断リンク禁止」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。
これは、見かけはリンク禁止のようだけれども、実は、リンク禁止になっているとはとても言えないもののことで、「似非アクセス制御」や「サイバーノーガード」などとも呼ばれます。
『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、「最高裁が電話してというので」や、「うちは警察へリンクさせてもらっている」や、「文書で申し出よ」などのフレーズを挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。
例えば、皆さんもよくご存知のように、『リンク許諾制はトラブル回避にいい』と一部で信じられ、ひところは大手官公庁もこぞってリンクポリシーを掲げるほどのブームになりました。無断リンク禁止ポリシーがよく書かれたのは、もちろん、リンク許諾制のトラブル回避効果に裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。新聞社や日弁連などでも書かれましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。
しかし、実は、リンク許諾制がトラブル回避に良いという根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。最高裁判所までが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。
いまは、都道府県警察本部で人気が出てきているようです。しかし、実のところ、リンク許諾制を主張したところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。
いま、このような、無断リンク禁止のようで禁止ではない、「ニセリンクポリシー」が蔓延しています。
こういった「ニセリンクポリシー」のなかに、公正中立性や悪質業者に関わるものがあります。その話をしたいと思います。
よく知られている例の一つは、『無断リンク禁止にしないと、悪質業者に信用を悪用される』といういわゆる栃木岡山県警説です。しかし、この説に、信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセリンクポリシー」です。
もちろん、どんなにインターネットの普及が進んでもそれなりの初心利用者がいますから、悪質業者の言いなりに影響されることはあるでしょう。しかし、それだけなら、名前の無断使用や紙のチラシなどでも同じです。ハイパーリンクのあるなしとはまったく別の話なのです。
ところが、この説は、広報業務関係者に広く受け入れられています。全国各地で、広報現場によるポリシーのコピペが行われているようです。
もちろん、気味の悪い業者がうちと関係があるかのようなことを書くので困っているという広報担当者は多いでしょうし、広報室長もそういうのを何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「無断リンク禁止」が一見、福音に思えたことは分かりますが、効果のないものに飛びついても、仕方がありません。
そもそも、信用の悪用を何とかしたいというのは、リンクの問題ではなく、表現の問題だったはずです。うちと関係があるかのように書かれて困ると考えるなら、やめるようにきちんと主張するべきでしょう。表現を変えさせる根拠をリンクに求めようとしてはいけません。
もう一つ、今度は、リンクにまつわる奇妙な説を紹介しましょう。
リンク先をトップページにすると、きれいなウェブページになり、個別のページにリンクすると、きれいなウェブページにならないというのです。
ページというのはHTMLのことですから、これは、リンク先のURLがページの良し悪しに影響を与えるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。
この説が、いくつもの大手企業や地方公共団体で、利用規約に使われていることが問題になっています。ページデザインを改善しない自らの怠慢を正当化するのに、格好の材料と思われたようです。
しかし、本当にそうでしょうか。
この説は、たくさんの問題をはらんでいます。
まず第一に、明らかに科学的に誤っています。理科離れや学力低下が言われる今、道徳だからといって、ここまで非科学的な話を、事実であるかのように言っていいはずがありません。
しかし、それ以上に問題なのは、ページが汚くなる原因を、リンク元の責任に求めようとしていることです。
ウェブページは、ハイパーテキストの手段ですから、その使い方は、あくまでも、ページを作る人間が自分の頭で考えなくてはならないはずです。トップページ以外へのリンクはどんな状況下でも駄目なのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。
栃木岡山県警説が他者の表現を制限する根拠をリンクに求めるものだったのと同様、ここでは、ページデザインの崩れの原因をリンク元に求めようとしています。それは他人に対して多くを求め過ぎです。
ページデザインの維持も信用の確保も、リンクされる側が自分の頭で考えなくてはならないことであって、リンク許諾制でお茶を濁せるものではないはずです。