横増田です。
増田の主張は結構一理あるんだが因果が多分逆で、増田の言うバカ(教育を受ける機会に十分に恵まれない人)でも文章が読み書きできるようするために言文一致が求められたのではないだろうか。
明治時代の「国民」創出の中での義務教育で、日本漢文に近い読みは効果的ではなく、その時代の発話に近く、かつ公用で使える表現が求められたのだと思う。
だからむしろ小説や講談よりも、新聞や雑誌などが言文一致を担ったのだと思う。そうしたフォーマットを用意することで、初めてバカ(教育を受ける機会に十分に恵まれない人)は書く機会に恵まれる。
形式がないと、増田の言うバカ(教育を受ける機会に十分に恵まれない人)は自分から書けないのだと推測します。
そして事態を難しくさせていることは、以外に文語文が時代の洗練を経て便利だったと言うこと。結構生き延びる。
こちらもまた、高等教育になるのだろうけれども形式に慣れてしまえば文語文もまた利便性があったのだろう。
専門じゃないけどそんなふうに思っています。