俺らみたいな鈍感で身勝手な賤民に、罪悪感とか内省みたいな高尚な心機は似合わないからやめようぜ。
せこい罪にいちいち悩んで罰を期待してみたり、浅い内省をして心を知った気になったり、いったい何のおままごとをしてるんですかね。
内省なんてものは河原でひたすら砂を数えるようなものだと思いませんか。一万粒も数えてみれば達成感は得られるでしょうが、ほとんど何もできてないんだってことは顔をあげて、だんだん狭く閉じられてそれでも視力の先へと続いていく川の上流を見れば分かるでしょう。
砂粒を拾うたびに小さな罪を見つけて一喜一憂するなら、そんなものとっとと川の増水に流されてしまえば良いじゃないですか。どうせ、すぐにどこに流されたか見つけられなくなってしまうような罪だ。見つけようにも紛れてしまって、形すら忘れてしまっているような罪だ。
罪の意識と内面への探求の下に自己陶酔が滲みだしてるぞ。対象に観測者が入れ込んでいる。俺たちは砂粒を数えてるんじゃなくて、砂粒を数える自分を見てるんだ。砂粒は無限だが、目は二つしかないんだ。どっちが簡単で、どっちに気を取られやすいかは、瞭然だ。
だから、馬鹿みたいに笑って生きてればいいだろ。頭を空っぽにして罪のない笑顔で欺き合ってればいいだろ。見なかった振りをするくらいなら、見るのをやめればいいだろ。その方がむしろ誠実だろ。俺たちが見下してる馬鹿で粗野な人間みたいに。
どうせ、そんなことしても、やっていることは今と何も変わらない。それこそ砂粒一万ほどの誤差しかないのだ。