2019-03-15

anond:20190315100503

「まず罪無きものが石を投げよ」と言いたいんやろうけど、この文脈でその言葉範囲が拡大されたら、それは普通に暴力からね?

かに心が傷つけられたとき、「ああ、傷ついた」と思って自分自分を省みて自分も誰かの心をこんな風に傷付けてきたのかもしれないなあ」と考え反省するのは、意味があるだろう。でも、第三者が、「傷つけられた!」って声上げてる人に「お前自身、誰かの心を知らずに傷付けていたことが今まで一度もないの? あるとすればお前にその声を上げる権利は無いだろよ」って言うのはどうなのよ。それは余計なお世話になりかねないし、最初の自省がそういう文脈で用いられる危険については考慮した方がいいよね。

まり反差別の声を上げる人が自省として自分たち自身差別者かもしれない」と考えるのはよい。それで運動裾野がより広がるなら運動自身にとっても重要なことだ。でも、反差別の声を上げて戦っている人に「お前も差別者じゃねえか」と部外者が指摘したら、それは単に反差別の声を押さえ込む理不尽暴力としてしか機能しない。だから最初増田カキコミ(自己筋道として)は肯定できるが、それが運動論になるなら軽々に肯定できないな。

  • でも部外者が指摘するまで自分たちがキモくて金のないおっさんを差別してきたかもしれないと自省することは絶対にしないし そのことを正当化するためにこそ部外者の指摘を暴力とし...

  • 自省する気もなくダブスタ理論を押し付けてくる輩を受け入れよと? 受け入れないと暴力だってか? 差別主義者に反差別の声を上げる資格なんかあるわけないだろ・

    • お前だって差別主義者だろ。 自分棚に上げて人のこと批判する資格あると思ってんのか。 俺は差別主義だが。

      • 俺は差別主義者だが? だからこそ反差別とやらのダブスタを衝いてるんだが?

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