先日、無性に人恋しくなって昔の友人に連絡してしまったときに、はたと気づいてしまった。
自分は、こうした唐突な連絡をする側ではあっても、急な便りをもらう側の人間ではないのだということに。
意識的にしろ、無意識的にしろ、無性に連絡を取りたくなる相手の選択には理由がある。大方の基準は自分から見て仲がいいと思っていたかどうか、だと思う。
こちらから連絡すると、当然仲が良かったわけだし今でも悪くはないのだから、邪険にせず毒にも薬にもならないような雑談に付き合ってくれる。
けれども、相手から「なんだか話したくなって」と連絡が来ることはない。
そこにも色々と理由があるんだとは思う。例えば、認めたくはないけれど自分が思っているよりも仲が良くない、だとか、もしくは日常に満たされていて唐突に人恋しくなって誰かに連絡するようなことなどしない、だとか。
連絡が来ない理由が必ずしも自分起因だとは限らないのだと頭ではわかっているのだけれど、それでも、「なんだか急に話したくなった」って連絡が来ないような人生の積み上げ方をした自分のこれまでを悔いてしまう。
これから出会う人との関係構築の仕方はきちんとしよう、なんて前向きな考え方もあると思うけれど、短い人生ではあるものの一番価値を見出している時代の友人から声がかからないことの寂しさは凍えるように寒い。
寂しさ、虚しさ、それらから生じる我が身の寒さのせいで、一層肩を震わせる平成最後の師走。
新しい年、新しい時代こそは、と思う気持ちはあるけれども、きっと同じことを繰り返すんだと思う。
私は孤独には強い性質だと思っていたけれど、全然そんなことはなかった。せきをしてもひとり、尾崎放哉の有名な句が思い起こされる。