「愛している」というのは、相手のことをすべて受け入れ容認することなのでは?
たとえば「愛しているけれど相手に駄目なところがあるから結婚しない」とした場合、それが「愛しているとはいえない」と批難されなく相手を否定できるのは金銭的もしくは相手の素行の悪さに初めて気がついたときになされるものだと思う。
他人に危害や迷惑を与える場合、それは「いやな思いをする」という形で第三者を巻き込むので、夫あるいは妻に対しての愛のみでは第三者が救われないのでアウトだとわかる。
しかしここで、「よい思いをする」として第三者を巻き込む場合は、浮気もありなのでは?
この場合であれば、第三者にも多大な迷惑はかかっておらず、さらに重要なのは愛による「相手のことを受け入れる」ということ。
単純に「浮気するなんて酷い!」という場合、それではパートナー(夫の場合)の「ちょっとほかの女の人と寝たいな」という願望を、妻は受け入れていないことになる。
この「相手のことを受け入れる」という行為が愛であるならば、浮気願望もまた受け入れるうちに入らなければ真の愛と呼べないのでは?
それとも「迷惑のかからない相手との泥沼化しない不倫は愛の名の下に許される行為」ではないと否定して、許さないのはもしかして他の人と寝たことよりも、自分が捨てられるのが怖いから?
そういう一夜限りの関係のはずが、避妊に失敗して子供ができて、 人生めちゃめちゃになる。 だから、ダメなんや。
「愛している”けど”浮気は許さない」だろう。 そういうことを言う奴は、相手に浮気されても文句一切言わずにOK出して欲しい。