その時、その場、そこでの自分の立ち位置含めて正解を選べることが心地よいこともある。
それを繰り返して年をとれば渋い大人になれるだろうと思っていた。
当意即妙な返しができないと馬鹿にしたり、馬鹿にされるのは当たり前だなんて思ったこともある。
考えてたよ。ずれた答えしかできない人は下の階層の人間なんだろうなんてね。
完璧な人を求めていた。
でも完璧なことは少し視点を上げてみると不完全だったと気づくことがある。
完成度の高い人がいるとコミュニティとしては幼稚なことが多い。
例えば大きな会社なんかでは仕事において属人性を排除することことがよいと言われるように
健全な組織を維持したければ特定の人に組織を左右させてはいけないことが知られている。
人に頼ってそれを前提としていると周りも歪んでくるんだ。
純朴で未発達な人の集まり、田舎のコミュニティとかを改めて見ると新鮮に思うことがある。
退屈なほど似通ったものの集まりが、鈍く、濁った印象を持っていたものが、
さらに大きな集団の一部として見ると時に鋭く尖り、時に偏っていて、時にグロテスクなまでに鮮やかな印象を与えることもある。
洗練された組織に粗削りや愚鈍な要素を持った人や集団が放り込まれた時に意外に状況が面白くなったりして。
まだまだ未知は残っているんだね。