2016-01-28

弔電の台紙に胸がざわつく

最近、身内に不幸があったり、知り合いに弔電を打ったりする機会があったんだが、

あれ、台紙に随分と差があるのね。

安いのはペラペラの紙なんだが、刺繍がついてたり、押し花がついてたり、七宝焼きがはめ込んであったり。

で、当然価格差結構ある。

で、そんなことを知ってしまうと、「もらう立場」になると「ああ、案外あの人ケチってる」とか感じてしまったり、

打つ側としても、はたして、どのランク?とか考えてしまう。

まあ、香典なんかも金額の多少はあるわけだが、何となく相場観というのはあるから

まあ、心の対処ができる。

でも「弔電台紙」に関しては、自分の中に「相場観」というのが無いせいか、

価格の差を意識してしまうと、なんか妙に落ち着かない。

本来は「メッセージを送ったという事実」と「その内容」で評価されるべきものなのに、

余計な物差しが入ってくるせいだろうか?

もちろん、世の中には、「弔意を表す」という場にあって

(むしろそういう儀礼の場だからこそ?)

自分はこんな高価なものを送れるのよ」とマウンティングしたい人がいて、

そこに付け込んでアブク銭を稼ごうとするのは商売としてアリなことは理解するんだが、

それにしてもなあ。

「線香つき電報」とか「プリザードフラワーつき電報」なんてのもあるが、

逆に、こちらのほうが「台紙に高価なものをつかう」より、

心がざわつかなくて済む。

これはたぶん「弔電プラスアルファ」として受け止められるからだろうか。


いずれにしろ、「人の死に際して哀しみを伝える」時くらい、

こういう、いらん気疲れは無いようにしてほしいもんだと思う。

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