最近、アルバイトで、初めて「製造業」の仕事に就いた。ライン作業のやつ。
それで、ぼくは、仕事は遅いわ・コミュ障だわで、「労働力」としては最低な位置にいるんじゃないかと思った。というか自覚した。
自分で自分を「労働力としては最低」なんじゃないかと位置づけてみました。
歳はまだまだ全然若いし、十分健康体ですし、「俺のほうが全然、労働力としては最低だよ!」と思う人もいるかもしれませんが、誰かと比べているわけではないです。
ただ、「僕は、社会にとってはそういう位置にいるんじゃないかな」と思いました。
誰かと社会的な位置比べをしてるんじゃなくて、「社会にとっての自分の位置は今ココなんだ」という、社会にとっての自分の立ち位置、の話です。
それで、いま僕が働き始めた職場では、ぼくは全然「良き労働力」ではないだろうし、むしろ、「形の悪い歯車」だと思います。
「替えの聞く存在」の中でも、労働力としては質の悪い部類に入るんじゃないかと思います。
それで、現在ぼくらは、
前提として、「自分じゃなくてもいい」というより「自分じゃないほうがいい」もありうる。そういう位置に置かれている。んじゃないかと思います。
機能的価値が自分よりも上の存在がいるのであれば、「お前じゃなくて、その人のほうがいい。むしろお前は要らない」になりますし、
自分が置かれている社会にとっての立ち位置が分からなければ、自分を適切な場所に置くことは難しいと思います。
おそらく僕は、社会にとっての自分の位置を把握できていないから故に、自分をどこに置けばいいか分からなかったのだと思います。
社会にとっての自分の立ち位置を知らないが故に、『自分を適切な場所に持っていけない。』
いま、自分がどういう状況に置かれているか分かってないから、どこにも行くことができないんだ。と、今の僕は思います。
もう一度言いますけど、社会にとっての労働力として、俺たちって、最低の位置にいるんじゃねーの?
「労働力」としては、最低レベルな可能性も十分あると思うんですよ、僕らって。
社会が求めている労働力にはなれない存在。労働力としては「クソ」。
前提として、「僕らは労働力にもなれないクソである」という前提で生きなきゃいけないんじゃねーの、と思いました。
「労働力」として見たときに、「個人」に価値がある可能性ってなかなか無いと思うんですよ。
製造業で求められるものは、「個人」としての価値より、「労働力」としての価値がほとんどだろう、と。
それで僕は、「労働力」として見たときに、ぼく個人である必要は全く無いんだなー、と思った次第です。
ぼく以外の誰かでもできることだし、機械で代替できることだし、「労働力」として見たときに僕らはそういう位置にいるんだなー、と思いました。
労働力としてはクソなんだ、ってことですけど、完全な労働力として生きるべきではねぇな、ってことで。労働力としていくら優秀であっても。
「ぼく個人である必要は全く無いんだなー」っていうのは、どの階層でもそうだけどね。 よほど特殊な技能職でない限り、交換可能な人材で組織を作ることが、組織存続のためには不可...