2014-05-28

介護現場での死の落としどころ

今朝、うちの施設にきている利用者が亡くなったそうだ。もちろんこういうことは初めてではないんだけど、毎回毎回、気持ちの着地点が見つからない。

介護職員ならどこでも、どんな研修を受けても教わるはずだ、利用者が亡くなっても深入りしすぎるな、気持ちを切り替えろ、と。

僕たちは仕事に集中すればするほど、それぞれの利用者への主観的思い入れとは別に客観的な事項として利用者の状態を深くインプットしていく。場合によっては、その家族よりも深く。その日その日の状態を見て、今日は動きが鈍い、とか、少し顔色が悪い、など、その都度細かな変化につぶさに対応していかなければならない。死に向かいつつあるのを間近に見ながら、その人のもつ”生”に執着するのが僕たちの仕事宿命なのだと思う。つまり、業務の一環として、全ての利用者に深入りせざるを得ない、というわけだ。

それが、亡くなった途端、深入りするなとか、切り替えろとかに変わるわけだ。凄いふり幅である

何でこんなこと書いたかって、悲しくて切り替えなんて到底出来ない、というわけではない。むしろその逆で、毎回毎回ビックリするくらいにスパッと切り替えられている。今日利用者が亡くなったことで改めてその事に気付かされて、ちょっと自分に驚いている。

その利用者に対しての主観的思い入れは、少なかったかなとは思う。とはいえ、週3で、業務的には深入りして接してきた人が亡くなったのだ。その事にさしてなびかずあっさりと切り替えられている自分が、人の死に対して鈍くなったのか、とか、冷たい人間になったな、とか考えてしまう。

先に述べた、研修などで教えられる切り替えについては、ある意味模範的なくらいだ。実際、こうした切り替えは凄く意識してやっている。ただ、人としてどうなのかなとも思うのだ。

誰かが死ぬ時の、その時の気持ちの落としどころが今、ちょっとからない。

  • いや、落とし所を自分で見つけられたから無理にでも切り替えられるんだろ。 落とし所を見つける、ってのは別にそれに納得する、ってのとは別の話だからな。

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