2014-04-04

暴力的な馬鹿物語に肯定されながら育った

世の中には様々な物語が有る。出版されたフィクションや、ニュースが作る世論、酒の席での武勇伝。種類は様々だ。

その中でも「俺は昔ヤンチャだった」という物語は人気がある。

最近はその人気も下火なのかもしれないが、少なくとも昔は大いに人気があったと思う。

昔はヤンチャだったという物語の中では「暴力的な馬鹿」は主人公や愉快な仲間の一人として肯定される。

男らしく、あるいは女の意地を守るために、彼ら彼女らは欲望や勢いのままに生きる。

そしてそれらは「人間味に溢れている」などと持て囃される。

仇役は「大人しい賢人」や「普通っぽい人間」だ。

物語の中で彼らは人間味がない、裏で何してるか分からない、人の目を気にしていると好き放題の言葉でけなされまくる。

子供向けの物語の中でも主人公が「暴力的な馬鹿」で有ることは少なくない。

伸び伸びとした健康的な子どもとして描かれ、ルールを守るガリ勉野郎を次々蹴散らすヒーローとして活躍する。

暴力的な馬鹿」が活躍する物語が溢れかえった世界で僕らは育ってきた。

そして僕たちは「暴力的な馬鹿」が正しいような気の迷いを起こしそうになってきた。何度も。

もしも僕らが最初から暴力的な馬鹿」だったらきっと何度も何度も物語の中で自分が肯定される内に自分こそが正しいと思い込んでいただろう。

そうして世界には「自分たちこそがジャスティス」と思い込んだ「暴力的な馬鹿」が溢れてしまったように思う。

もしもそうならば、これは社会的負債しか無い。

社会ルールを守り、互いの気持ちを思いやれる人間の集まりでこそ構成されるべきだ。

暴力的な馬鹿」はその真逆しか無い。そして彼らは自分たちが正しいと思い込んでいるのだから更生する見込みはない。

僕らはこの積み上がった負債にどう立ち向かえばいいのだろうか。

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