http://anond.hatelabo.jp/20090928013858
>黒の乗り手は自分が支配されている指輪の位置を感じることができる。また、その乗騎は鋭い視力で怪しいものを見つけることができる。
映画では、物陰に隠れている2メートル以内にいる指輪を持ったフロドに気付かず立ち去ってます。また、離れていると指輪がどこにあるのかを知ることが出来ないため、ゴラムを拷問して「ビルボ」「シャイア」という単語を聞き出し、そのヒントに従ってホビットの村を探しています。また、火山の近くでもたもたしているフロドを誰も追って来ないので、映画での黒の乗り手は指輪探知能力が非常に低いです。
http://anond.hatelabo.jp/20090928010831
>鳥に乗って空を飛んだり、竜を追い払ったりする力はその時に得た。
転生する前に、鳥を呼んでサルマンの塔から脱出している。エルフの国から出発時のガンダルフが竜の存在を知っていたのかや追い払う力を持っていたかは不明。
>神や精霊が人間の世界に対してやることにいろいろ制限があるのは神話の世界のお約束。
人間集団を率いて火山に向かったり、サウロンの本軍と人間の軍を率いて自分が先頭に立って正面戦争したり(人間の国のリーダーを自分の判断で殴って気絶させて自分が勝手に指揮権を奪って、退却の指示を徹底抗戦の指示に変更して戦闘)、サウロンの一番の部下である9人の王のリーダーと直接対決したりすることは問題無しで、ホビットに乗り物を提供するのはだめというのはおかしい。
ニートが何をしたいのかもわからないけど
でも、人によってはいい人。人によっては嫌な人。そんなもの。
後は自分にどこまで正直かどうか。
わかるわー。
こっちでは評価され喜ばれて、
でもあっちでは疎んじられ、
で、それがなにか?って感じ。
二人で盛り上がってしまう。
誰か入ってきてくれ~
この人仕事ができないのを男のせいにしてる気がする
>>何せ、こちとら10年女子校だったからね。付き合いのある男友達は理解のある人ばかりだったし、バイトの先輩は仕事の関係だから、そんなに突っ込んだ発言もしないし。<<
関係なくね?
バイトの人だから関係崩したくなくて言いたくなかっただけかも知れない。
特に
>>何せ、こちとら10年女子校だったからね。<<
って何が言いたいのかさっぱりわからん
堂々と名前を出せるようになったのは最近かなあ。水泳大会のポロリ要員だった時期もあったけれど。
元増田はAV女優=性商売(何なんだろうなこの単語)で体を売る行為との間に差はなくよろしくない行為だと考えているようだ。売春といっているのは他の人だと思う。
この文章はおかしい。
だってこの書き方ではまるで、日本以外の男性は女性を馬鹿にしていないみたいじゃないか。
男性は女性を馬鹿にする事で、「守ってやる側の立場」にいる気になり心の安定を得る。知らんけど。
何せ、こちとら10年女子校だったからね。
じゃあ、女の子だけの会社でも作って女の子ばかりを相手に仕事をすればいいじゃない。
個人の生産性が高ければ、属する国のGDPなんぞどうでもいい。誤差の範囲。世界のどこにいても、メシを食っていける。
ところが寄生虫にとってはこれがとても重要。何のとりえが無くても、日本に住んでるだけでオコボレにあずかって「贅沢」できるからだ。
つまるところ、チーム生産の利益にフリーライドできるという点で、所属する組織の経済成長は重要なわけで、寄生中にとっては、宿主の健康は死活問題なわけですよ。
「GDPが低下している。この国の国民は、いったい何をしているんだ。大変だ、大変だ。」=「宿主の元気がなくなっている。まずい、まずいぞ。私は自分だけの力ではこんなゼイタクできないんだ。」 by 「国士」というカモフラージュをした寄生虫
マイノリティってのは「その社会の権力関係において、その属性が少数派に位置する者の立場やその集団」。
あの頃、僕たちは若さゆえに持て余した膨大な時間とエネルギーと空っぽの頭で、クラブでムネオハウスに合わせて見ず知らずの人たちと笑顔で「委員長!委員長!」と叫んでいた。
正直、あの頃の自分は鈴木宗男は「陽気で胡散臭いオッサン」としか思ってなかったし、辻本清美も「無邪気で胡散臭いオバハン」としか思ってなかった。
もちろん所属政党なんて知らなかったし興味もなかったし、知ったところでその党がどんな党かを判断する知識もなかった。
ただ、有り余る膨大な時間とパワーで、無駄な創作をして無駄なラジオをして無駄なミラーリングをして、無駄なDJに合わせて無駄に笑顔で大声をあげて踊って、それが本当に幸せだった。
今でもあの時にチケット代と引き換えに貰ったムネオハウスのCD-Rは持っている。
ジャケットからレーベルまで完璧に印刷してキャラメル梱包されていて、これを前日に何百も手作りしている人達の無駄さ加減を思うと、愛おしくてしょうがないから捨てられなかった。
でも最近は、そんな若さゆえに無邪気で時間とパワーを弄ぶ若者たちをたぶらかして、自分たちの手駒にする最低な大人たちがいるらしい。
秋葉原でデモが起きたんだってさ。ネットで知った若者がたくさん駆け付けたんだってさ。
mixiで検索して何人か参加した人たちの日記を読んだけど、みんな無邪気で、まるでロックフェス帰りのような高揚感を伴う、本当に無邪気な日記だった。
「来るまで緊張して怖かったけど、組織の人たちに日の丸を渡されて一声勇気づけてもらうと日本人としての自覚がわいてきた」
「出発前でみんなでシュプレヒコールをした。こんなに大きな声を出したのは久しぶりで、全身に勇気と誇りが立ち上るのを感じた」
「みんなと一緒に歩くと沿道の人たちが温かく声をかけてくれた。こうやって人と繋がれるんだという喜びを感じた」
「排外主義だとケチをつけてきたらしいシナか朝鮮人或いはサヨクが居ると聞いて、私も駆け寄って二発殴ってやった。私の一撃はクリーンヒットだったようだ。祖先の恨みまではらせた気分になれた」
そのままロッキンオンに送ってやりたい文章たちばっかりだった。彼らは多分、本当に無邪気なんだと思う。無邪気で、そのパワーの使い方を覚える前にこんなのにたぶらかされちゃった類なんだと感じた。
もしかしたら自分も10年遅く生まれていたら、彼らと同じ列の中に入っていたかもしれない。
だから正直なところ、いわゆるネトウヨと呼ばれる彼らよりも、そんな彼らを丁度良い手駒として扇動している、良い年して色々判っていて、それでこういう事をしている首謀者たちが本当に恨めしく思う。
何回でも言ってやるよ。お前達は最低だ。右翼左翼以前に、どこの国の人間以前に、無邪気ゆえに頭の足りない若者をこんな使い方をして、そこに良心の呵責を感じていないなら、それは本当に人として最低だ。
サヨクの人って最終的に何をしたいんだろう?
社会がどうなったら満足なんだろう?それで何を得るんだろう?
いまいちよくわからないんだよね。
男(略)
だから選択的夫婦別姓は早く導入されるべき。
とか言ってる進歩的な左翼人たちも、結婚そのものは否定しないんですよね。
伝統的権威(幻想ですよね!)と戦い続ける左翼ファイターも、結婚生活には憧れるんだなー。いい話ダナー
という煽りを思いついたんだけど、はてサ(自称する人もいる位で、尊称ですよね!)のトラックバック、俺、待ってる。
名前という発想自体に問題があるのではないか。とか。だめかな。
あとちょっと調べたら、「明治より前は夫婦別姓だった」ってどうやら間違いっぽいんですけど。調べましたか?どうでしたか?
あと別姓になると、お墓とか遠い親戚の冠婚葬祭とか、超めんどくさいことになりそうじゃね?冠婚葬祭って発想自体、はてなっぽくない?
あと一家で事件に巻き込まれたニュースとか、名前のテロップが出てきても何が何だか分からなくね?気にする方がていどひくい?
メリット盛りだくさん。デメリットは、大したことないよね。幻想です。ネトウヨの妄想。マジ笑える。って雰囲気が優勢ですが、どうかな。
わたし、みんなの話が聞きたいだけなの。
けど、「女はわがまま言うのが仕事、男はわがまま言われるのが仕事」って言う男が魅力的かというと、そうじゃない罠。
それが持論や器の大きさならまだしも、モテるための自己アピールってのはバレバレだから。
「魅力ある人間」は、善人だろうが、悪人だろうが、どんな持論だろうが、関係ない、って話だと思うけど。
「ただイケ」と同じだろ?
その二択でどちらか選ばなきゃ駄目なら、ランダム抽出を選ぶよ。いや、真面目に。
ありむーはない→じゃあ、アリな男が来るかもしれない可能性に賭けるってだけで、どっちも嫌だけどね。
俺の友達がそのタイプの欝なんだけど、多分視点が全然違う。
そいつも最初は、自分が悪い自分が悪い、と自分を追い込むタイプだった。
ところが自分で何か意思決定をするのが怖くなってきた。そして意思決定をやめた。
何かするにしても「医者に言われたから」「親に言われてるから」で行動する。
で。
医者に「もっと回りに甘えていい」と言われた。ので、とにかく周りに迷惑かけてもいいから甘えている。
だけだった。
単純明快だ。
ところがこれ、医者が正しいと妄信してるので矯正は完全に不可能。医者に同伴なんて友達の身分じゃ出来ないし。
つまり「欝になる素養のある人間は”テキトー”が出来ない」っていうところに起因してる。
非常に面倒くさい。
優子と勇美はお互いを覆うように震え凍えていた。
優子と勇美はお互いに見つめあい、震えるような声で互いに覆っていた。
優子は勇美に対して上着を覆った。震えているに他ならないからだ。優子は今まさに勇美に対して上着を覆ってしまった。
それを見た千秋は勇美に対して意味深な目線を送ったのを優子は微妙に気付いていた。でも優子はそれに気付かないフリをして千秋の視線の外に逃げた。
千秋の視線の外に逃げた優子は勇美に上着を覆った。勇美もまんざらではない様子でそれを受け入れたが、千秋の視線に気が付いて少しためらった。
突然降ってきた雨に身を委ね、変わらない明日に温もりを。昨日を越えて未来を変える。過去の思い出と死ねばいい。
優子は少し下に俯くと、心の中で思ったことを口に出した。
「慎・・・。」
元増田だけど、わかってると思うが念のため突っ込んでおくけど、俺は有村が「最低最悪に気持ち悪い」なんて一言も言ってないからね。
2008年、アニメ界を一世風靡したしたアニメがあった。その名を「ストライクウィッチーズ」と言う。
放送前に誰からも注目されていなかったそのアニメは、斬新な発想と確かな描写をやり遂げ「マクロスF」「コードギアス」というビックタイトルが放送される中、
アニメオタクの支持を一心に得て大成功のまま幕を降ろした。それをきっかけに名を馳せたのが制作会社「GONZO 第5スタジオ」であった。
ストライクウィッチーズ2期を待望される中、5スタが次に手がけたアニメがヤングガンガンにて連載中の「咲-saki-」と言うマンガだった。
コミックス2巻が出る頃にはアニメ化のオフォーがあったと言う人気タイトルである。物語の区切りになる大会決勝戦の終了の目処がつくであろう時期にして待望のアニメ化であった。
「あのストライクウィッチーズを作った5スタが咲-saki-を作る」……原作ファンは歓喜に震えた。実際に放送されたアニメ「咲-saki-」はその期待に応える素晴らしいクオリティであった。
だが、半年の放送を終わろうとしている今、アニメ「咲-saki-」は失敗してしまったと言える。それはなぜだろうか。
当初こそ原作を尊重し、原作の良さをさらに広げる神演出をしていたアニメ「咲-saki-」であった。
原作時の穴の埋めた小手返しの追加、染谷まこの実家の良改変、そしてもっともたる例が第3話でヒロイン原村和が主人公宮永咲を想い、自身の指に口付けするシーンの追加だ。
これは連載版ではあったものの、コミックス収録時に修正された幻のシーンである。それをアニメで復活させた偉業にはすべての原作ファンが大喝采をあげた。
だが、放送が進むにつれてほころび始める。
おそらく最初のほころびはコアな人気を持つキャラクター、鶴賀の蒲原の笑い方であろうか。原作では「ワハハ」と描かれているものが
アニメでのイントネーションが「ワ~ッハッハァ~」なのである。
非常に些細な違いではあるが、ここで初めて視聴者が首を傾げた。だがこの当時はまだ本編の面白さが保たれていたのでさほど気にされず流されていった。
そうした細かい所で未熟な描写が多々あるものの、各個人の「気付き」の能力の差によって大騒ぎにはならずに済んでいたアニメ「咲-saki-」であったが、
ついにブーイングが巻き起こってしまったのが、そう。副将戦での「特急券だー!」である。これはもう原作を読んでいた古くからのファンには到底受け入れられない棒読みっぷりであった。
こんな、演技指導で即座にどうにでもなる一言にゴーサインを出してしまう愚かさ。いかに制作陣の解釈がファンと掛け離れているか痛感してしまう一幕であった。
その「アニメスタッフの解釈の違い」が最悪な形で出てしまうのが決勝、大将戦である。
龍門渕高校、天江衣が出上がりをする際の演出が原作では「爆発」に対してアニメでは「炎上」になってしまっている。
それまで海底撈月と言う「待ち」の上がりで猛威を振るっていた天江が転進、「攻め」に出た時の脅威を演出したのが原作での「爆発」と言う魅せ方であった。
それがアニメでは魅せる事を考えていないような迫力のない炎の炎上でさらっと済まされてしまった。
事実上のラスボスたるキャラクターの一面を確実に削がれてしまった。
さらに致命的なのが主人公宮永咲の必殺技「嶺上開花」を「槍槓」で阻止する鶴賀の加治木ゆみのシーン。
原作ではカンをし、嶺上牌に手を伸ばそうとした所にイメージ演出として槍が降り注ぎ、「その嶺上牌、取る必要なし」とツモを制す非常にかっこいい見せ場の一つであるのだが、
アニメでは宮永がツモろうとするシーンがなかったために「取る必要なし」というセリフだけが原作通りで空回り。
副将戦の原村和vs龍門渕透華のコスプレ的イメージ演出を流用したような安易さも合わさって非常に滑稽な一幕となってしまっている。
このように、初期こそ非常に秀逸であった描写も放送中盤を過ぎたあたりから無残な醜態を晒すようになってしまっている。
この「解釈の違い」は単純に「原作と違う」事が問題なのではない事を声を大にして言いたい。原作と違っても面白い例もある事は「けいおん!」や「大正野球娘。」の成功が証明している。
「咲-saki-」は原作と違ったが故に、つまらない。では何故そうなってしまったのか?
【失敗の原因その2】 大将戦終了を原作連載と足並みを揃えようとした弊害
彼ら、アニメスタッフらはいつからか気付いてしまう。うまく調整すれば「原作連載とアニメ放送で同時に大将戦を終わらせられる」ことに。
それは確かに実現できれば否応なしに盛り上がるであろう。
その為の犠牲に、原作ストックは途中から加速度的に消化されていく。原作連載もアニメが追いつくのを待っているかのように休載を続ける。
元々休載の多い作家であったが、過去例を見ないほど休載が多くなる。そもそもアニメが放送中に連載が休載など前代未聞である。もしこれをただの偶然と思うようなら、とんだお花畑である。
加速した原作消化スピードは細部に配慮する余裕がなくなり、あれほど秀逸だった演出は見る影もなくなる。
(予断だが、「ストライクウィッチーズ」を当初からその演出の秀逸さで評価していた某ブログは、咲-saki-も考察対象にしていたものの決勝先鋒戦を最後に筆を取らなくなっている)
ただトレースするだけならともかく、先へ先へと進めるために緩急がなくなり、落ち着きのない展開になってしまっているせいで「麻雀」という「静」の闘いにアニメ的「動」を与えた
初期の秀逸さも当然なくなる。
かつてアニメ「とらドラ!」が原作文庫刊行とアニメ2クール放送終了の足並みをそろえようとし、文庫1冊分をアニメ2話で消化し、描写が圧倒的に足りなくなり、
説得力もなく感情移入も出来ない無残な結果になった。あの過ちに近いものを「咲-saki-」はやってしまったのである。
【失敗の原因その3】 個人戦
放送途中で原作に追いついたアニメは当然オリジナル展開に突入する。そう、個人戦である。今まで登場した多くのキャラクター達が今度は一人一人の戦いをする。
あのキャラとこのキャラが戦ったらどっちが強いだろう? そんなファンなら誰もが想像する夢の対決の実現。それを放送途中で原作と同時に終わらせ、余った尺を使って実行した。
だが「アイシールド21」を例に、オールスター展開がいかに失敗するか論じられたのはまだ記憶に新しいだろう。
その上、今まで登場してきた多くのキャラクター達の見せ場をたった数話で見せようなんて到底無理な話である。
そんなアニメ「咲-saki-」がオリジナル展開で何をしたかと言えば、原作で一度やった事の再利用である。
咲は一人で迷子になり、和はそれを追いかけ叱り、タコスは試合数を勘違いし、部長は牌を叩きつけ、京太郎はパシリにされ、キャプテンは開眼し、
かおりんは「みっつずつみっつずつ」をし、むっきーは「私なりに精一杯」と言わされてしまう。
アニメオリジナルとして新しい物が何一つとしてない、実にみすぼらしい作劇である。
唯一の要素としてあるアニメオリジナルキャラ、南浦数絵も「南場になれば強くなる」というタコスの類似能力しかなく、なぜ南場で強くなるかと言う理由付けもなく、
人数不足で個人戦にしか出場できなかったというおいしい設定を与えられながらも大多数のキャラと絡むことなく消えていった。
そしてアニメの不出来さは頂点を迎える。そう、個人戦の結末だ。それまでアニメ「咲-saki-」の劣化に気付かなかった最後の極少数もさすがにNOを突きつけてしまう。
これこそがアニメスタッフの未熟さが最大限に表れた結果であった。
「個人戦の結果」という事実を持って、すべての視聴者がアニメ「咲-saki-」は失敗していた事に、ようやく気付いたのである。
個人戦終了後、最終回に向けて全キャラクターが一堂に集結する合宿に入る。個人戦ですら持て余していた大人数をたった2話の合宿で活かせるはずもないのは言うまでもない。
だがそれでも一応の体裁を整えた展開をもってアニメは放送を終えようとしていた。
そのラスト2分。
全国区のキャラクター達が大挙して登場する。その特徴的なデザインは原作者が連載のために先行してデザインしたものであろう事が容易に察せられる。
そんな魅力的なキャラクター達が派手な活躍をダイジェスト的に見せる映像の興奮度の高さが逆に、物語として前後の描写の必要ない場合、すなわち原作の優秀さだけを借りてきた時に
その魅力を最高に発揮するという証明になってしまったのは、何とも皮肉な幕の引き方である。
「咲-saki-」という作品は魅力的だ。それは誰しもが認めるところだろう。だがアニメとして他者に渡った場合、必ずしもその魅力を維持し続けるとは限らない。
アニメ「咲-saki-」は優秀な原作を無駄に消化し、せっかく神アニメになり得たチャンスを逃し、「GONZO 第5スタジオ」と言う台頭していたネームバリューをも失墜させた。
見紛うことなき『失敗』である。