色々な点で不用意な記事だったと思うけど、言いたいことはわかる気がする。
プリパラが性的かどうかはさておき(それは誰が判断するの?という問題があるので)、性的に消費されている、そんな局面は多少ネットを掘っていれば目にする。
それを知った上で、プリパラを見る女児(あるいは娘)に無邪気に接することができるかというと、多少のためらいがあってもいいのではないか。
無論プリパラの先進性はよくわかっている。男の娘キャラにそれは端的に現れているんだろうし、ブラ外しがどうこう叩かれていたが、それは正しさと正しさがぶつかりあった結果だろう。
そして、女児がプリパラを見ること、あるいは女児がプリパラを見ることを傍観することに対して何らかの断罪、ないし性的なニュアンスの感受をしたいのではない。
さらにいうと、「これは歴史的に反復しているものである」という指摘に反発するものでもない。
たとえば、CCさくら板の事情を知りながら娘がCCさくらを無邪気に見ている…そんな光景は用意に想像出来る。
ただ、僕が言いたいのは、そのような構造に対し、多少のためらいがあってもいいのではないか、
無論だからプリパラを見るのを辞めろというわけでは一切ないものの、上記の光景に接してググッと唾を飲む、そんな行為を許されるスペースがあって然るべきではないか?ということだ。
女児が無邪気にプリパラを消費する、そんな光景が社会的に消費される、そんな光景を見守りながら「オタク」が(多少の背徳感とともに)いささかのためらいを覚える、そんな光景があってもいいのではないか。
多分僕は、「ためらい」こそが人間が人間である由来なのだと無邪気に信じているんだ。
そんな安易さを自覚した上で、それでもこの主張をすることはできないのだろうか?
この主張が社会の片隅に登録されて、どこかの誰かの気持ちを動かす、そんな可能性にかけてみることは許されないだろうか?
追記(5/17)
元増田です。
燃えそうにしか思えない話題なのに燃えなかったのはなんでだろ…。
酔ってて文章がゴチャゴチャしてるのは確かだけど。