強制されてないのに強制されてる!とか
そういう事言う人が多すぎる気がする。
書いてあることを正しく読みとるってのは普通の国語教育を受けてたら出来るはずのことで、
特殊な訓練やら才能やらはいらないと思うんだが、なぜこういう事になるんだろう……。
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20140524/1400987657
記事は、艦これというゲームのブームに対して戦前回帰につながるのではないかという不安を抱く投書(筆者の解釈に基づいて要約。原典の確認を推奨)を批判するもの。
曰く、
例の朝日の投書の何が怖いかというと「嗜好は自由であるべきだが、私個人は受け入れがたい」と「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」が矛盾していること。
戦争反対も『嗜好』の一種に過ぎませんぜ、ご老体。
……いったいどこが矛盾しているというのだろう。
いちおう念のために書いておくが、私はこの投書の危惧が妥当であるとか、そういう事を言っているのでは全くない。
そうではなくて、「嗜好は自由であるべきだが、私個人は受け入れがたい」と「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」とが矛盾していると考えることの一種のナイーブさを指摘している。
両者が矛盾しているという考えは、おそらくは「嗜好は自由であるべき」と言いながら「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であ」ることを押しつけている、という解釈に基づくものだろう。
そのことは、続く「もしそれを『戦争反対』の美名のもと強制すれば、戦前と同じですぜ」との文言からもうかがうことができる。
しかし、投書の主は「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」という「希望(意見)」を表明しているに過ぎない。
若者に対して「戦争の恐ろしさを真剣に考えよ」と言っているわけでもなければ、「戦争の恐ろしさを真剣に考えない若者はけしからん」と言っているわけでもない。
ブログ主はこれを強制と捉え(ているように思われ)、剰え「人格批判一歩手前のところまでやらかしてる」とまで断ずるのである。
いくらなんでも神経質に過ぎるのではないか。
無論、意見の表明も基本的には賛同者を増やすことを目的として行われるものである以上、他者の考えに対する一定の干渉ではある。
しかし、コミュニケーションとは本質的に他者への干渉であって、そのこと自体が「強制」として一概に否定されるべきではないことは勿論であるし、意見表明による他者の考えへの干渉が許されないとすれば、民主主義が成り立たないことにもなる。民主主義とは単なる多数決ではなく、構成員間の議論、すなわち他者の考えへの相互干渉によって合意を形成していくことが当然の前提とされているからだ。
そういうわけで、「強制」とは、単に相手に干渉するというにとどまらず、相手の意思に反して無理に何かをさせることをいうと一般には解されている。しかるに、意見の表明は相手方の意思に反して何かを強いるものではないから、「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」は「強制」にあたらない。
人格批判云々については論じるまでもなかろう。
以上のとおりであるから、「嗜好は自由であるべきだが、私個人は受け入れがたい」と「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」とはなんら矛盾してはいない。ブログ主におかれては、他人の意見を重く捉えすぎず、数ある意見の1つ程度に受けとめてはどうか、と提案させていただく。
戦争反対も『嗜好』の一種に過ぎません
と述べながら、一方で、
などとも述べるようなことをいうのだと思う。
意見を言いたい、という名のものとに誹謗中傷を繰り返す御仁wwww
思わず嘆息。 不適切な考え方であることは百も承知のうえで、 これはやはり日本の国語教育が私の考えている以上に 機能していないということかもしれない、 との思いを禁じ得なかっ...
ということを匿名の場でかく卑怯者