世界的に見て日本は一国家としては必ずしも低い評価を受けてはいないが、1人1人の「日本人」という立場で見るに日本人は折衝力が極めて低い民族とみられているのは確かだ。
それは今に始まったことではなくペリー来航の頃から少なくともそのようになっていた。これは長年にわたる遺伝子の取捨選択の結果とするならば、その原因は日本の風土にあると言わざるをえない。
日本人は人に何か強硬な主張をされたり何か痛い部分を批判されたりした場合に、じっと堪え忍ぶ民族と思われている。
それは日本の古き良き付和雷同の文化では個が強く主張するのは好ましくなくて、少しへちまなことを言えば村八分やGoogle八分にされてしまう。
日本の風土を考えるとこれはさも当然のことと言える。底辺校でもデキる奴はデキるように見えるのと同じく日本でも主張の激しい人はいる。それは海外諸国の大多数では平均なのだ。
それが世界から見ていかに奇異に映ろうとうちはうちよそはよそであり郷に入れば郷に従ーえであるからそれ自体は問題ないと言えるが、それに付随していささか厄介な問題が付随しているということを今申し上げているのである。
具体的に話すと日本は何か言われたときに言い返すと基本的にバカをみる国でありだからスルー力がことさらに言われるのであることは想像に難くないであろう。
しかしよくよくつぶさに観察してみれば本当にコミュ力のある人間はちゃんと言い返せる。このコミュニケーション様体をアサーションと呼ぶのが一般的だ。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃの言葉通り言いたいことを言えないのが人間にとって一番苦しい。その場で言い返せればいいが言い返せない時は裏で陰口をたたいたり
机の引き出しの奥にしまってある日記帳に怒りとともに激しく書き殴ったりするのが日本風である。それでも我慢を重ねているうちに無駄に耐性がついてしまうのが人間の設計の悪いところ。
人間は我慢というスキルを無駄に身につけてしまったがために、より良い適応のチャンスを失ってしまった。
つまるところ、その場で変に押し黙ったり変に意地悪な態度をとったり変にねじ曲げたりせずに素直に自己主張しなさいという話である。普通に接することのできる人間を人は最も信頼するのである。
だからホームステイなどした人の体験談に頻出するのが日本人はよくわからない人、それも単に変な人やシャイな人という意味ではなく、人として普通に接しにくい人とみられてしまう。
日本人がグローバルな物差しで図るとコミュ障なのは確かだけど,日本社会の物差しではかれば他国人もコミュ障ということになるのだと思う。帰国子女が日本社会に適応できないとい...