はてなキーワード: 違和感とは
相棒で女性の一人暮らし宅に「写真立てが無い……妙ですね」て言ってて、しゃ、写真、立て…………???となった女性一人暮らし
実際にこのようなくだりは存在しなかったのではないか?という疑惑がある
あれだけ再放送の多いドラマで熱心なファンも多い作品であるにも関わらず、「どの回だっけ?」 「そんなのあった?」 「ググったけど分からない」というばかりで具体的にどの回だったか誰も分からないのだ
X以外の場所で有志に質問してみたところ、それはおそらくseason2(2003年放送)の「ベラドンナの赤い罠」 ではないか、という指摘があった
https://thetv.jp/program/0000001095/1/
家の中に女性とその父親の写真がたくさん飾ってあるのに母親の写真が一枚もないことを右京さんが奇妙に思い、それが事件解決のひとつのきっかけになる、というくだりがある
それをながら見して聞き間違えた上に「寂しい女の一人暮らしなら写真を飾って少しでも華やいだ部屋にするものだ、そうしないこの女性はどこかおかしい」というニュアンスで脳内補整してしまったのではないだろうか
そう勘違いしたとしても2003年放送のものであれば画質的にかなり昔の回であることは明らかで「昔のドラマってこんな酷い台詞があったんだね」と受け止めるのではなく「ちょっと待って!今こんなこと言われたんですけど!ショック!!」と言う風なリアクションを取るのは色々違和感があるが
聞き間違いやうろ覚えのまま批判的なツイートを垂れ流す人ならそのくらいのことをしてもそれこそ妙ではないのだろうと思う
ツイートを見た人の中には、
「写真はカメラで撮ってプリントするのが一般的だった時代の初期回の再放送ではないか」
「以前は置いてあった写真立てがなくなっている、といった何かしらの前提があるのではないか」と推測している人もいたが
中には2024年の今、相棒の最新シリーズが放送されていると勘違いした上で右京さん(とテレビ朝日のドラマ班のスタッフ)があまりにも古い価値観で女性への偏見を垂れ流していると思い込んでカッとなり批判している人も多数見受けられる
また、「私は自分や家族の写真は飾っていないけど推しの写真は飾っている」とグッズ自慢をする者、
「コナンくんや金田一もよく変な認定するよね」と探偵あるあるを語る者もいるが
もうひとつの意見、それは元ツイートは『相棒』ではなく『臨場』の一場面ではないかというものだ
2010年5月26日に放送された回で、刑事たちが亡くなった女性の部屋を捜査するとあまりに殺風景で中でも写真類が一枚もなく違和感を覚えるシーンがあるそうだ
原作小説が描かれたのは2002年でそれを踏まえるとそこまでおかしなやりとりではない
ここまで伸びているツイートだが投稿者は特に訂正や補足をするつもりはないようだし、「ベラドンナの回ではないですか?実際のやりとりはこうですよ」だとか「相棒ではなくて臨場だと思いますよ」といったツイートはおそらく全く伸びず
「右京さんが酷い発言をしていた」ということだけうっすらと皆の記憶に残り、何かの折に「でも確か相棒って独身女性への偏見を助長するドラマなんでしょ?w」と嘲笑されるのだろう
「半年ROMれ」と共に「ソースを出せ」という言葉も失われつつあることを感じることが多い
「確かめる」という行為はコスパが悪く、「調べる」というのは必死になっていて馬鹿馬鹿しいと冷笑される行いで、
信頼に値するものは「広まっているかどうか」で、広まっているんだから真実なんでしょう、と受け止められてしまう
ガレソだって普段あんなに嫌われているのにふとした拍子に信じ込まれてしまう
嘆かわしい!……といいつつ、「写真立てのくだりって再放送の度に突っ込まれてるよね~」というようなツイートも見かけたので本当に存在している回なのかもしれない
本当は増田も年下からタメ口で話されるのを納得できてない(あるいは違和感がある)状態で、無意識のうちに増田も年上にタメ口で話したら嫌われると思ってるのでは?(邪推)
高校は文芸部で、大学は理系だけど研究室が論文の誤字脱字に厳しいところだったので、まともな教育を受けた人間は校正に厳しいのが当たり前だと思ってる。
旧ツイッターなどは書いたら訂正できないシステムなので、ギリギリまで一文字一文字を見直すけど、それでもミスったら仕方ないと諦めていた。
だけど、増田みたいに何度でも訂正できるところで、「てにをは」レベルの、少し読みなおせば違和感を持つようなところをいくつも間違えたまま放置している奴は、それだけでバカに見えるし、いい加減でやる気がないのが伝わってくるからそもそも読もうとも思わない。
たまに仕事でもそのレベルの文書を恥ずかしげもなく出してくる奴がいると、ヤバいのに当たったなという気持ちで混乱する。
日本の(特に理系の)教育はまったく文章を書かせないので、官公庁クラスの書類でもこんなのありかと思うような酷いものが存在する。
自分はたまたま論文力を鍛えてくれる研究室で「どこまで細かくなるべきか」を身体で覚えさせて貰ったけど、日本の技術者は計算や図面が完璧でも、ドキュメントの日本語になると「てにをは」はおろか酷い誤変換やタイポを放置しまくるような人もいて、こんなことやってると信用を失くすぞと心配になってくる。
文章の粗さは知識の抜けや態度の不安定さと同じくらい他人の信用を損なう問題だということを、少なくとも自分がちゃんとした教育を受けたと証明したいならもうちょっと意識した方が良いよという話。
(※ちなみにこの文章だと、読みなおして「馬鹿」と「バカ」の表記の揺らぎが気になるくらいの躾け方をされた。今回はあえて気づいた上で放置しておくけど。)
たまに詐欺メールをフォントで見破る話見るけど、最近フォント(Webフォント?)で漢字の部首の書き方おかしいの見かけない?
しんにょうとかさんずい、ごんべん、『貨』のヒの部分が突き抜けてたりとか、『直』の目とLがくっついてたりとか
気にしないようにすると逆に詐欺メールの違和感を放置しそうになるんだけど、あのあたおかフォント何なんですかね。拒否する方法ある?
あなた�?AIも使�?��なせず、機械翻訳�?となぜわかった�?かも�?��できません みなは既にそれらを使�?��なして�?��ので、発達障害増田の違和感がすぐわかりま�
素人は狙いの絵を出すためにいわゆる"ガチャ"を引くことになるし、そもそも狙いの絵がなんなのかすらわかっていない場合が多いんだよ
イラストレーターだと持ってる技術と知識で狙いを定められて違和感なく修正もいける
あとはまあAIでポン出しした程度だったら見分けがつくようになるってのもあるだろうて、AIポン出しを気づかないのは過渡期だからでしょ
娘は今6歳で、小学一年生。
可愛い盛りで、目に入れても痛くないとはこのことなのだと日々実感している。
仕事帰りには「おと~ちゃん」と俺のもとに引っ付いてきて、なかなか離れない。
思わず俺も微笑んでしまう日々。でもこの先少しずつ離れていくと思うと切なくて…
そこで今しかできないことを体験しようと思い、それは俺への呼び方について。
娘は俺のことを基本的には「おとーちゃん」と呼び、俺は違う呼ばれ方もされてみたかった。
娘にこの話をするとゲーム感覚で「いいよ!」と言ってくれたので、毎日俺への呼び方を変えることになった。
翌朝、「パパ!」と呼ばれると俺は一瞬ビクッとしたがすぐに例の取り決めを思い出すと納得し、少しこそばゆい感じもしたが悪くない。
翌日は「おとーさん」だったら「おとん」だったり「パピー」だったりした。
その都度新鮮な気持ちになり、そしてどの呼び方でも愛情が込められていて、思わずニコニコしてしまった。
だがある日夢を見た。
夢の中で娘は俺のことを「パパ」と呼び、娘はいつも通りで、俺は家の中に居た。
しかし家の中は現実の間取りとほんの少し異なり、それはトイレの位置だったり、キッチンのコンロの位置であったりした。
それ以外は現実とほぼ同じで(それでも飼っていない犬が居た。ゴールデンレトリバーで名前は「シロ」だった)、妙に現実感のある夢だった。
というか非常に現実感が強い夢だった。夢から覚めても夢の内容をしっかり覚えており、覚めた時には夢と現実の境界線が曖昧に感じるような。
寝ぼけ眼でリビングへ降りて行くと娘が居り「おとーちゃん、おはよ」と言った。俺は違和感を覚えたが、娘は俺のことを「パパ」と呼ぶんじゃなかったか?
ん?ああそうかと例の取り決め、それが一周したことを思い出すと娘の「おとーちゃん」呼びに対する違和感はなくなった。
…ように思うんだが、それが未だに少し違和感があるんだ。
俺は確かに「おとーちゃん」と呼ばれてるはずで、あのとき俺のことを「パパ」と呼んだ娘は夢の中の娘で、あくまで現実の話じゃない。
…以前どこかでこれに似たような話を聞いたことがあるような気がする。
もともと業スーとこのスーパーでしか使ってないカードなのと、本文に書いたとおり違和感いくつもあったので
スーパーのセミセルフレジでスキミング被害にあったので備忘録代わりに投稿します
・まぁまぁ規模の大きいローカルチェーンのスーパー(100店舗以上展開)
・使用したのは楽天カード(3Dセキュアや第二パスワードは設定済み)
いつものようにクレジットカードを会計機に差し込んでIC認証で支払おうとしたら即座に読み取りエラー
過去にもたまーに読み取りエラーが出たことはあったが差し直せば大丈夫だった
仕方がないので会計機右側面にある磁気ストライプ読み取りスリットに通すと無事精算できたんだが
おそらくだがIC読み取りで決済は出来てるがレシートを出さずエラー画面を表示するようにプログラムも改造されてる
5/27 スキミングされる
5/29-30 米国Amazonで何度も使用されるがこちらも不承認
5/30 深夜に楽天から【重要】楽天カードから緊急のご連絡 というタイトルのメールが届く
5/31 メールに記載の楽天カード信用管理部に電話して「これこれの買い物したか?」の確認
対応は事務的だが丁寧で親切だった。確認後カード再発行手続きの案内。
政治詳しくないけど、最近岸田さんがよく言ってる「信頼を取り戻せるよう努力する」という言い方の違和感の正体が分かった。
これ「誰のために?」と聞かれたら「自分たち」なんだよな。自分たちのことしか考えてないんだから目線が合わない。
ワシとしては「国民のために」「何をする」のか聞きたい。
セクシー田中さんの両社の報告書を流し読みしたが、日テレ側に書いてあった故・芦原先生に関する行動や心境の記述が、小学館側では何故か触れられていない。
具体的には以下。
7 話のプロットのラリー中の同月 16 日に、本件原作者から A 氏に対し、ベリーダンスのショー観覧の誘いがあり、本件原作者、C 氏、A 氏、F 氏が同席した。本件原作者と A 氏はここで初めて会ったものである
本件原作者は本件脚本家の 1 回目の投稿があった直後の 2023 年 12 月 25 日に関係者と食事をした。食事の際、本件原作者は以下の内容を関係者に話した。
・ A 氏は最初から本件ドラマについて改変ありきで進めていたのではないか疑問に思う。
・ 1 話から 8 話までは自分が大変な思いをして修正したものであるのに本件脚本家の手柄にされており、自分が脚本として作った 9,10 話が駄作と言われているのが許せない。
(中略)
関係者は、本件原作者他とグループ LINE をしていたが、本件原作者の投稿後、本件原作者から「こんな騒ぎにしてしまって申し訳ありません」というメッセージが来た。
関係者が「謝ることはないですよ、言いたいことがやっと言えてよかったですね」というメッセ―ジを送ったところ、本件原作者は「ありがとうございます。」とメッセージを残した。
これらは先生の心理を紐解くヒントになる重要な出来事であるにもかかわらず、日テレ側では調査できているのに小学館側が載せていないこと自体が、何らかの意図があると感じる。
先生からの制作サイドへのベリーダンスへのお誘いは、先生からの唯一の歩み寄りだったはず。同行した小学館関係者は、この時の先生の心理を説明できるはずでは?
また小学館側は1~8話の制作過程は詳細に記載しているが、9話、10話に関しては、先生が執筆することに決定後、それに関する記述はほとんど無くなる(クレジット問題を除き)
原作者が書いたからそこには何も問題が生じていなかったというスタンスだろうか。上記の関係者の内容やブログを見る限り、執筆した為に生じた苦悩があったことは明白であると思う。
全体的に、小学館側は芦原先生の代理人・代弁者という立場で仕事をしていた自覚がないようにみえる文書になっている。
芦原先生が強硬姿勢になる原因を作ったのは日テレ側の制作プロセスの問題だが、原作者と日テレ側が直接やり取りしない体制に合意した以上、それを制御できる立場にあったのはパイプ役の日テレ側の窓口・編集者だけだった。
にもかかわらず、強硬姿勢になるまでの間に小学館側が何らかの具体的なアクションを取ったり、先生の苦悩を慮る配慮をしていた様子が見られない。または報告書の中からカットされている。
日テレ側が負担や問題を押し付けてた結果生じた事件であるということを強調したいが為か、恣意的な、ドキュメンタリー感ある報告書になっているように感じる。
あとついでに。
(2) クレジットについて
本件ドラマの第 9 話、第 10 話の脚本を書いたのは芦原氏であり、その著作者は芦原氏であるから、芦原氏が単独のクレジット表記を求めることはおかしなことではない。
この主張はヤバくないか?
関わっていないと断定して外部の人間のクレジットは外せという要求は、明らかに著作権の範囲を超えた越権的行為だ。
スペシャルサンクスに書かれてる人間全員何もしてないだろ!消せ!とか言ってる人間いたら、どの立場でも顰蹙買うだろう。
(補足:前提として、制作サイドが提案したクレジット案を原作サイドが全て拒絶して9話に脚本家はどの役職でもクレジットされなかった。10話はオールクレジットという手段で認可された。小学館側はこれを妥当とする主張)
・クレジットとは本来敬意を示す箇所であり、直接携わっていなくても表記するケースは慣例として幾らでもある
・脚本家は9話は第5稿、10話は第4稿まで提出していて、その中のアイディアが決定稿に使われていると主張している
・日テレ側は脚本家が9話と10話に関わったことを認めていて、脚本家の名前をクレジットするつもりだった
・氏名公表権の観点から、(利害を人質に)他者のクレジットを消させる行為は、違法である可能性がある
これらのことを考慮せずに、制作側ではなく、取引先でしかない小学館が、一方的に判断してクレジットに口を挟むことを是とすることが強い違和感がある。
小学館はクリエイターファーストの精神であるのであれば、クリエイターの尊厳を軽視するようなことを主張すべきではないだろう。
オイオイ待てよお前だって普段はソシャゲなんて出来の悪い賽銭箱だ。買い切りの方がずっと面白いと言ってきただろ。、と。
要約すれば、買い切りゲームでは失敗してもプレイ時間以外に失うものがないので、1プレイにかける熱を薄めるというデメリットになる。、ということらしい。
つまりアイツが言いたかったのは、ソシャゲであることがマイナスになるゲームとプラスになるゲームを区別できずなんでもかんでも買い切りじゃないから駄目だと言ってる奴らは浅いということだそうだ。
なるほど。
アイツは言葉ではそう言っていたが俺には分かる。
アイツが本当に言いたかったのは、プレイするたびにスタミナを失うというゲーム性が、プレイするたびにコインを失っていくアケマスのゲーム性へと原点回帰しているのに、これを評価できない奴にこのゲームについて語る資格はない。、ということのはずだ。
俺達はあの頃、アケマスをやっていた。
金がない中で、飯代を必死に削りながらアケマスをやっていた。
若かった。
家庭用が出た。
XBOX本体と合わせた値段で考えてもプレイにかかる総コストはべらぼうに下がったはずだ。
だが、どこかで情熱が失われていった。
身銭を切ることがなくなったはずなのに結果に対しての悪態が増えていた。
時間以外は何も失っていない中で、時間だけを失っていくとうい感覚が結果的に、より多くのものを失ったかのような錯覚さえもたらした。
1プレイにかける覚悟、それを生み出していたのはクレジット投入音だったのか。
俺達のアイマスにかける熱はいつしか冷え切り、ガラケーで、スマホで、課金してスタドリを飲みながら走り続ける連中を嘲笑うようになっていた。
あんな集金装置にお金を入れちゃって、好きなアイドルにいつか声がつくと信じてるんだからおめでたいもんだね。、と。
そんな俺達もアイマスの新作が出るたびに少し齧っては、ゲーム性に違和感を覚えてやめてばかりいた。
だが、最近になってそうじゃなくなってきたんだ。
失敗と隣り合わせの育成が、育成の度に失われるスタミナが、単なるポイント稼ぎのための作業ではなく、一回一回に新しい発見のある周回が。
スタミナ制だから、疑似クレジット方式だから、そこに意味があるんだよ。
音ゲーじゃ駄目なんだ。
育成ゲーじゃなきゃアイマスじゃない。
周回じゃなきゃアイマスじゃない。
そして、買い切りじゃ駄目なんだ。
時間以外の何かを失いながら走れないなら、それはアイマスじゃない。
俺達にとっての、俺にとってのアイマスじゃないんだよ。
これが分かってないやつら、本当に浅いよな。