はてなキーワード: 知的障害者とは
http://anond.hatelabo.jp/20070218013048
http://anond.hatelabo.jp/20070219010722
見下したいなら見下せば良いと思う。見下したくないから見下さないらしいけど、何でだろう。TB先はたとえ話であって、筆者は本当にIQ150じゃあないんだろうとは思うけど。素朴に不思議。天才たちはなんでゴッドランドを作らないのかな。私らみたいなIQ100前後が鬱陶しいなら駆逐すれば良いのに。単に凄く優しいから? 私らが知的障害者に抱いてる鬱陶しさは感じてないのだろうか。
私らが障害者を鬱陶しく思うのって、私らの社会がIQ100レベルの社会だからな気がする。IQ150は私らの社会がある程度理解できて、決まりごととかも守れる。そうしてれば、IQ100から見てIQ150は鬱陶しい存在じゃない。IQ150もレベルの低い社会が馬鹿馬鹿しく思えはしても、破壊する労力を使うほどの不満はないはず。ぬるい環境って居心地悪くないだろ。でもIQ70はIQ100社会を理解できないから疎外されて社会不適合になる。
IQ200 vs IQ150 vs IQ100 vs IQ
??IQ200 『つまり…ということです』
??IQ150 『ん??難しい、理解できそうなのだが、ん??難しい』
??IQ100 『へ??そうなんだ。君すごいね頭いいね。俺も久々に勉強してみようかな、今度、海外旅行いくしNOVAでもいってみようかな』
IQ150 vs IQ100 vs IQ
??IQ150 『つまり…ということです』
??IQ100 『ん??難しい、理解できそうなのだが、ん??難しい』
IQ100 vs IQ
??IQ100 『つまり…ということです』
参考:
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俺がその昔、地球は丸いと言ってた時、民衆に頭がおかしいと思われてたよ。
確かに、それ自体としてはなかなかに大変なことだったろう。しかし政策立案者は、この程度のことでオタオタするべきではなく、このような俗情との結託こそが、最も回避さるべきだ。しかし、はてな匿名ダイアリーを読み書きする者の中にはそのような立場の者などいようもないのであってみれば、まぁ好き勝手なことを述べ散らかしていればよかろうとも思われるし、かえってそのような短絡を遠慮なく発信することは、我々庶民の特権であるだろうし、また、特権を保持しているとなれば、それを行使することは義務であるとすらいえるだろう。
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私も襲われかけたことがある。小学生のころ、駅で突然ダウン症の子供につかみかかられた。思わぬ強い力にびっくりしてなすがままになっているところを、見ていた駅員さんとおばさんが助けてくれた。その映像は20代になってもずっと残っている。未だに電車やバスの中で知的障害者とおぼしき人を見ると身がすくむし、声をあげられようものなら逃げ出したくなる。そして祈る、こっちに来ませんように、と。もちろん、それは予想外の言動をされることに対する本能的な怯えにすぎなくて、知的障害者それ自体を嫌悪する感情ではないことは頭で理解しているのだが、それでも怯えている自分に時々嫌悪感を抱く。この感情は、なんなのだ?
同時に、自身も障害者の立場に足を突っ込みかけている。進行性の、高度と中〜軽度の難聴を合わせ持っている。周りの人々は「難聴なんて気にならないよ」と言ってはくれるものの、理解のない人だってたくさんいる。これから社会に出ても苦労するだろう。もちろん自分でもハンデをカバーできるように、人一倍注意してきた。しかしどんなに気をつけたところで、私の認識の外で見えない苦労や迷惑を周りに強いているのは間違いない。でもどうしようもできない。いらつかせたり、反復させたり、気を使ってもらったりと、自分という存在やこのハンデが、社会の中で余計なものであると何度も思い知らされる。でも事実なのだ。誰かに助けてもらわないと生きていけない。
自明のことだけど、「障害者を助ける」という福祉の概念は、最終的に公共の利益のためにある(と思ってるけど間違ってるかも…)。つまり個人が最も幸せになるためには、周りも幸せにしてあげたほうがいい、ということだ。なぜなら皆でそういう取り決めにしておけば、もし自分がコケた時はみんなに助けてもらえる。そしてひとりを助けるためのコストは、限りなく低くなる。だから、キレイなオチとしては、「お互いに助け合っているんだから、障害者に対する差別や偏見はなくそうよ!」となるのだけど、わたしだって知的障害を持つ子供が生まれれば腹を括るまで相当時間がかかるだろうし、彼らを反射的に避けてしまう。そんな自分に嫌な気持ちをおぼえるけど、自分の難聴だって誰かに同じような感情を生んでいるのだ。そういうのを次から次へとみんなでまわさなくっちゃいけないから、建前というものが発生して、みんなでいやーな気持ちになってしまうんだろう。
知的障害者と健常者の境界をご存知だろうか。制度の運用上、それは知能指数で分類されている。
即ち、知能指数が70に満たない者は知的障害者と分類されるのである。
そして、世間からは「池沼」だの「隔離しろ」だの差別を受ける身分となるのである。
ところで、知能指数とはある種の比例尺度である。
大人同士ならば、例えばIQが110ある人間は100の人間の1割増の「知能」を持っていることになる。
そして、平均は100になるように設定されている。
つまり、平均的な人から見て、「知能」が3割引ならば社会的に対等に共存できないということになる。
それが現在の制度だ。
そこで、知的障害者とは共存できない、隔離せよと主張している諸君に告ぐ。
諸君はこの制度の規定に従って「障害者」と名付けられた者を隔離せよと主張しているわけだ。
つまり、IQが3割も低い者とは共存できない、対等ではないと。
ところが何を隠そう、一度調べたところによると、俺のIQは152だった。
ここから3割減らしてみると、だいたい106だ。
つまり俺から見れば、世の中の平均的な人間は「池沼」レベルだということだ。
貴様らの基準に従えば、そうなる。
ざまあみろ低脳ども。お前らは俺から見たら「池沼」程度でしかないのだ。
俺は貴様らのような馬鹿と付き合いたくはないのだ。どっかに行ってしまえ。
俺は賢い人間とだけ付き合って生きていく。
なぜかって?貴様らのような馬鹿と付き合うのは労力と時間の無駄なんだよ。
文句はあるまいな。それがお前らの望んだことなのだからな。
貴様らは所詮、俺に保護されて飼われるだけの存在なのだ。お前らの考えに従えば、そうだ。
ざまあみやがれ。
不服なら、題名のようなたわけた考えは早々に取り下げることだ。
そうすれば俺だって、このようなことを一方的に押しつけるつもりはない。
貴様らのたわけた考えと同レベルの思考をして貴様らを見下すつもりもない。
参考:
http://anond.hatelabo.jp/20070218013048
http://anond.hatelabo.jp/20070218211141
追記:
この記事を見て、IQの定義が何かという枝葉末節に反応している人へ。
そういう風に本筋が見えない人は、本当に見下したくなるよ。
本文中に「比例尺度」と書いてあるでしょう。
IQとは、知能年齢を生活年齢に対する比率をパーセント表示したものです。
少なくとも、障害の有無の判断に従来使われていた方式はそういう定義です。
もっとも、生活年齢は18歳前後で打ち止めになるようにしてありますが。
だから、
という記述は誤認でもなんでもありません。一つの見方としては十分あり得ると思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070218013048
どうしても一般社会に適応できない知的障害者(に限らずだが)は隔離(というと言葉は悪いが別の社会を作ってそこで生活してもらう)ことはありかもしれん。そちらのほうがみんな(知的障害者も含めて)幸せになれるんじゃね?
ただ社会に適応できるかできないかを、だれがどういう判定基準で判断するのかが問題になるが。
あと、タイトルの「"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか」はちょっと筆者の言いたいことをうまく伝えていない(たぶん)
「知的障害者は、自分が行ったことに対する責任をとらなくてもいいのか?」ってことなんだよね。ちょっとタイトルが刺激的すぎるかなと感じた。
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犯罪と障害を一緒にくっつけて考えるとややこしくなる。
犯罪は障害者だろうと健常者だろうと、それは犯罪だし、罰せられる。
以前の三歳児を突き落とした彼も、障害者で作業所に通うと報道された。
けど、三歳児を落としたことが罰せられるのであって、障害者だから三歳児を突き落としたわけじゃない。
仕事が嫌だからというのは動機だけど、それと障害者だというのは関係あるのだろうか?
本当はある。
けど、それは健常者が提供しているサービスとしての作業所の現状が雇用する障害者にとってメンテナンスまで機能していないことが考えられるし、もし一般雇用された場合でも障害という部分に理解のない集団だとしたら彼がストレスなく生活出来るのだろうか?
ただ、障害者の痴漢行為があるとして、それをしない社会的技能を教えることができる人材をこの社会は作ることができているの?
この日本の社会は多くの日本語を使える健常者に合わせてつくってあって、それ以外の人に合わせて作ってあるわけじゃないのにね。
もしそれを真剣に取り組むことができる世の中なら、健常者の痴漢だって減るんじゃないか。
そして何度もの懇願のすえに男は私たちのクラスから姿を消した。謝罪も何もなく。
そして警戒していたもののやはり尻を触られてしまった。
ここまでは、事実としての経過。
今なら周りの大人の対応や言葉の選び方が悪かったのだとわかる。
だけども、あちら側にまったくの責任がなかったとはどうしても思えない。
その人に合った教育を受けさせなければいけない。
知的障害者は確かに生まれながらに不本意なハンデを背負っている。
これらは筆者の考え。
被害者が語る犯罪は、それはやっぱり体験した状況や加害者の情報が加味される。
被害者の抱える=抱いた問題がそのまま社会全体の問題でなくて、その「事態が起こるまでの加害者の生きて来た背景や環境」とその「事態が起こった後の引き起こした本人と周囲の対応や反応」は分けて考えるべきだ。
私はあなたが受けた行為に対して同情はするし、その行為で知的障害者に対して嫌悪を抱く気持ちも分からなくない。
だけど、"知的障害者"も健常者も合法的に犯罪が許されるわけじゃないし、社会に出るのに不適切な人間だからと隔離されるべきでもない。
Aという人間にBという人間が「それはしてはいけない」と伝えて、それに対して説明する責任は「いけいない」という側にある。
「私にとってそれは気持ち悪いから止めて欲しい。」というのもその説明の一つになるだろう。
当時、怖くて出来なかったのなら仕方ないし、これからそうすればいい。
自分の素直な考えや気持ちを相手に伝えることが私は大事なんだと思うけど。
それでなくても健常者が町中にいる障害者に声をかけるなんてほとんどしない。
健常者が赤の他人の健常者に話しかけることをしないように。
自らコミュケーションを断っておいて、某有名テレビ司会者のように「不適切だから隔離」はない。
それでも通じないなら、通じる人にきちんと伝える方法や上手い介入を考えるのが健常者なのだから。
もしその方法を持たない場所や環境にいたのなら可哀想なことだけど。
障害者といえば、障害者を天使だのなんだのとやたら美化する人々を思い出すが、彼らは実在するんだろうか。どうも都市伝説の風味がある。「数十人で手を繋いでゴールする小学校」が嘘だったように。いや、まあ、そういう掲示板を見ると、そういう書き込みがあるので、完璧な虚像とは思ってないけども。
んで、人権擁護団体と聞くだけでうさんくささを感じて忌避しようとするほど彼らは嫌われてるわけだが、下手に障害者をかばったら自分も彼らと同じに思われると感じて自衛的に障害者を嫌うってのもあるのかなあ、と。人権擁護団体のせいで人権侵害が拡大してるという、不条理な構図になるわけだ。
そもそも人権ってなによ、と言われてきちんと答えられる人がほとんど居ないのも要因か。定義っぽいものの暗誦ならできそうだけど、理解してるかというとそうでもない、みたいな。そのへんの漠然とした認識に、障害者は天使だとか同和とかが植えつけられて、人権=うさんくさいって意識ができあがる。義務教育における人権教育って、実務的には差別の見本市なだけだし。
人権とかポリティカリーコレクトなことを楯にされると、学校とか行政とかスイミングスクールも反対しづらいみたい。そこらは役所お得意の毅然とした対応しろよ、とも思うが、波風立てたくないんだろう。立ってるけども、そういうんじゃなくて、圧力とか。ああ、タブー視されるのもこれか。
体は大きいが小学校低学年並みの判断能力しかないんだから叱り飛ばせばいいんだ。
スカートめくりをしているような男の子がそのまま大きくなってしまったようなものだ。きちんと叱る必要がある。
誤解を恐れずに言えば犬のしつけと一緒。
ただ保護責任者一人に罪をすべてかぶせていいのか?という問題もある。
こどもを投げ落とした知的障害者に変わって彼を雇っていた会社が賠償をおこなっているとか。
かの会社もかなり慈善事業的な運営である。
社会に受け入れ先のない人、ましてや前歴がある人を雇いたい人など居ない。
だが誰かが受け入れて管理しなくてはならない。
だれかが叱ったり褒めたりしてあげなくてはならない。
体が健常なのに精神が未発達であるのなら家に閉じ込めておくよりもプールなどで適度に発散させた方がコストも最終的な被害度も軽微にすることができる。健常者との交流は健常者次第でいい方向に働かせることができる。
責められるべきはプールのコーチである。現場を押さえて叱らねばならなかった。
彼らは犯罪はその多くが巧妙ではない。
なにより悪さをしない人の数のほうが多い。
罪を憎んで人を憎まずというが、そこまでは要求しない。
せめて人を憎んで類を憎まずであってほしい。
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誰だって、知的障害者だから犯罪をしてもいいなんて思わないだろう。
被害者にならない限り、微罪なら「知的障害者だから許してあげて」と言ってしまうだろう。
自分の事でも無いのに全力を尽くしてくれるのは過保護な保護者くらいだ。
知的障害者が普通の学校に入れなくて「差別だ、なんだ」と言って裁判起こしたりで無理矢理入れる親もいるみたいだが、実際それはどうなんだろう。
知的障害者の子が強く「普通学校に行きたい。駄目なところがあったら努力して直していく。」という志があるなら、入れてもいいような気がしないでもないが。
大概は親が、「この子はみんなより知能の発達が少し遅れてるだけで、他はなにも問題ない」とかなんだで、入れる親だと思う。私は知的障害者の運動大会にボランティアのスタッフとして参加したことがあるが、運動能力ならそこら辺の凡人よりも好成績を残せる人がたくさんいたと思う。
障害者向けの施設とは、障害者を指導し、社会にでても問題ないようにする場であるはずだ。普通高校の教員や同級生・保護者に比べれば、施設のスタッフは優秀な人だと思う。だってスペシャリストだもの。
それをわざわざ普通高校に行かせたら、学校の負担は大きくなり、結果として障害者の子は社会に出るための指導を受けられずに卒業してしまうんじゃないかと思う。
知的障害者で犯罪を起こした人が、普通学校に行かされた等という統計は取ってないし調べても居ないからこのエントリーは憶測の域を出ないのだけれども。
話はずれてしまったが、スイミングスクールに関しても同様だと思う。
知的障害者専用のスイミングスクールとは言わなくても、施設のスタッフみたく知的障害者に詳しい人たちが居れば、痴漢はいけないことだと教えることが出来ただろう。
知的障害者は、知能の発達が遅れている。だから、何度もしっかり教えることが大事なのだ。それをスイミングスクールのスタッフは「知的障害者だから許してあげて」と言ってしまった。
そこがいけないんだと思う。
知的障害者は、しっかり社会に出られるまでありとあらゆる場所で適切な指導を受けなければいけないのだ。
なにがよくてなにがいけない事なのかをしっかりと伝えるべきだったのだ。
結局、犯罪を起こしてしまう知的障害者たちは、そういった適切な指導を受けきれなかったのだと思う。
つまりは、差別差別と一方的に騒ぐだけでなく、しっかりとした知的障害者への指導が知的障害者たちの犯罪率低下にかかわるのではないだろうか。
知的障害者はなに考えてるか分からない、特徴のある顔の人が多く、健常者には知的障害者を嫌う人が多いと思う。
知的障害者を嫌って、知的障害者たちへの指導を怠ったばっかりに、犯罪に巻き込まれる。という悪循環。
知的障害者を嫌わず、相手の事も知ってあげ、適切に指導していければ犯罪抑制にもつながるのではないだろうか。
当時小学生だった彼女たちも単に「痴漢こわい」「クラス変えて」というのではなく「これはいけないこと」と何度も教えてあげればきっと知的障害者の人も分かったのではないだろうか。
確かに小学生には難しいことかもしれないが、それはこの社会が未だにそういうことを出来切れてないから不安なだけだと思う。
一方的に知的障害者を嫌うのではなく、ちゃんとした知識をもってしっかりつきあえば彼らも分かってくれる。その知識を一般の健常者がもっていないだけなのだ。
相手は知能の発達が遅れているわけなのだから、知能の発達している私たち健常者があわせていかなければいけないのだ。
まず前半。客観的に見て、小学生が中学生くらいのやつに痴漢されたってのは微罪だ。断罪するのもちょっと憚られる。これは大前提。そこから外れることなく続きを読むと、せいぜい痴漢被害にあった人の体験談でしかない。せいぜい、なんていうのも女子として納得できないけど、まあ、そういうものだろう。
「相手は知的障害者だからしょうがない」は、たまたま言い訳が用意されてたから使っただけで、知的障害者じゃなくとも何らかの理由をつけて「しょうがない」と言われただろうと思う。だって微罪だもん。大人はそんなことに全力を出しません(残念ながら)。
これは感情をベースに(すなわち被害者視点で)読んでいくと知的障害者への憎しみが育まれるのとは、対照的な感想だ。その感想の違いが後半への態度を決める。
被害に遭った人は、莫大な恐怖と気持ち悪さに恐怖してたんだろうと思う。そしてそれを周りに訴えても、なしのつぶてというか本腰入れてませんって態度が伝わって歯がゆい思いをしたと思う。私とキチガイどっちが大事なの! なんて恨み言のひとつも言いたかったに違いない。その悔しさも恨みもつらさもわかるしそれが障害者といわず不適合者全般への敵意に昇華してゴッドランドを夢想するのもわかるけど、ていうかわかるから、そもそもなんでそんなこと考えるのかを突き詰めていくと、小さい頃の痴漢にしか行き当たらないのが主張を強力に弱体化していると思う。それは、あまりに個人的だ。
どうせなら、同じ経験からでも、大人は社会的なヘタレだ、という事実を糾弾したほうがその体験も広く共有されてるし、また有益だったと思う。手札のなかで異彩を放ってるだけのキチガイに振り回されるのはもったいない、と20年強生きてきた身としては思うんだ。
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近世以前なら"許されない"だろう。なぜなら余剰の食料はなく、生産性の低いもの、富を生み出さないもの達は自ずと除去されるからである。(支配階級は"生産性が低い"なんてバカなことは言わないでおくれ。)
私達は幸運にも、この余剰のある現代に生きている。当人がわからなくても、その保護者たるものはこの幸運を理解しておくべきではないか?
旧タイトル 「http://anond.hatelabo.jp/20070218013048 に」
(追記 MellowMoon 「"知的障害者"は合法的に犯罪が許されるのだろうか?」は良エントリと思いました。
動画に入っている「服役囚の4分の1が知的障害者」が意味するもの - マル激トーク・オン・ディマンド - ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局と、そこで話している山本譲司さんのAmazon.co.jp: 累犯障害者: 本: 山本 譲司もご参照を。MellowMoonさんありがとうございました。)
これはほんとにいろんな問題が絡んでいる。
知的障害者が犯罪を犯してもよい、とは私も思わない。良いわけがない。
彼らが犯罪の意味を知的障害がない人と同じスピードと深さで理解できない、という事実。
さらにそれでも自分の行動に対する責任を自分で取る「権利」を有する、ということ。
これらから逃げていては、解決はありえない。
彼は触ってはいけなかった。なぜなら、触られた人がそれを嫌がっていたから。
(この「なぜなら…」は大いに議論の余地があるけれども、ごく基本的なとこだけ残します)
でも、彼はさわり続けた。
触られた人が嫌がっている、というのを感じることが出来なかったのかもしれない。
触られた人が嫌がることが、彼の中で楽しかったのかも知れない。
問題は、「それはいけないことだ」ということが、彼に継続的に教育されなかったこと、
「言って聞かせたけれど」と先生は言ったというが、
知的障害がある子供は(障害の程度によるが)一回言って聞かせたくらいではわからない。
(この「障害の程度を正確に把握する」という過程も、専門知識の乏しい現場ではごっそり抜け落ちやすい)
ましてや若干の性的興味と衝動を伴う問題行動であれば、わかっていても抑制がきかないことだってある。
彼も女の子達も、両方を守るつもりならば、とにかく彼の行動を修正するしかないのだ。
たとえば。
問題が表面化したら即座に、スタッフを一人増やしてでも、彼の行動をきちんとフォローする。
女の子達にも、触られたらスタッフに訴えるように話しておく(いいにくい子もいるからサインを決めておいてもいい)。
彼が女の子を触る度に、その場で「相手が嫌がっている」事を彼に明確に伝えて、
それはしてはいけない事だ、と同じやり方で伝え(両手を組ませるなど、わかりやすい「怒られてるんだよサイン」を作るなど)、
その場で触った子に「ごめんなさい」をさせる。
一回も余すことなく、やるたびに根気よく、1日に何回でも。
2週間??一ヶ月以内ぐらいの短いスパンでこのアプローチをトライして、効果を判定をする。
ダメなら「物理的対策」として、刺激から遠ざけるという選択も必要になるだろう(クラスを移したり、辞めさせたり)。
こういう大人のサポートがあって初めて、触られた女の子はその場で「触らないで」と明確に伝えることが出来るようになる。
むしろそうしなければ、触られた女の子達には
「理由があれば、触られても我慢しなくてはならないんだ。こんなことは些細なことで、いちいち大きな声で言ってはいけないんだ」
という自己否定観が残ってしまう。
(これが歪めば、DVや痴漢冤罪に……なんていう風に広げることも可能だが、ここでは触れません)
知的障害の人が社会に出ることはいいことだ。
しかし、現状は、これまでのように障害者を囲い込んでおける財源がなくなってきたので、
「障害者を受け入れる良い社会にしよう」という正論の尻馬に乗って
結局問題は、全部現場任せ。
降って沸いた問題に、専門的知識もお金も人手もなく、もちろん世間の後押しもなく、
右往左往した挙句に弱い人にしわ寄せてしまう。
そして、しわ寄せを受けて傷ついた人の心から、小さな花がひとつ消える。
はっきり言おう。
知的障害者は普通の人より社会生活能力に劣ることが多いのだから、
社会生活に適応するには、だれかからのサポートなしにはありえないのだ。
(この「劣る」に向き合わないことが、心神耗弱関連の裁判の問題にも絡んでいると思う)
私には、そういう問題に思えてならないのだ。
で、そういう「弱者救済コスト」をみんなで負担しよう、という空気は、今の日本にはとても乏しいと強く感じる。
(そして今のところ政府はそのコストを取ることから離れる方針)
結果。問題は現場に残され、弱い人、優しい人にコストは押し付けられ、社会から「寛容」が消えていく。
知的障害者をサポートするには、専門的知識と人材という「金」がかかる。
世の中には社会福祉や障害者教育を研究してる人がいっぱいいる。
でもそれらを現場に生かす仕組みは乏しいし、現場には人を増やす余裕なんてない。
専門的知識と人材なしに社会に新しい価値観を生み出すことなんて、絶対にできないだろうと私は思うのだ。
優しさと思いやりだけではどうにもならん。愛だけでは地球は救えないのだ。
(まあ、そういうのを政府に頼らずNPOで、っていう「小さい政府維持」のやり口もあるだろうけど、noblesse oblige精神があんまりなくて(違法とかいう意見もあるし)「ボランティアに金を渡す=それはボランティアではない」ってな風潮では、ちょっとむずかしいだろうね??)
それからもうひとつ。
もし、知的障害の子が女の子で、触られるのが男の子だったらどうだっただろう、という仮定を投げかけてみる。
(この話は、病院で看護師・ヘルパーが患者から受けている継続的暴力の問題と似たような構造を持っていると感じたです)
最後に。
17歳の彼女。しんどかったね。触られたこともそうだけど、ずっと我慢させられたことが、しんどかった。我慢しなくちゃいけない理由なんてなかったんだ。あなたは悪くない。きっとこの本音は、周りの人には言ってないんだろう。増田だから言った。あなたは優しくて、正直な人だ。自分にウソをつく人が多い今の世の中で、あなたはとても正直な人だ。これからも自分にウソはつかなくていい。嫌なことがあったら嫌だって思っていいし、言っていい。
で、もしよかったら、たくさん勉強して、世の中にあふれる難しい問題を、自分の気持ち・直感を大事にしながら、自分の頭で考えて、自分の言葉にできるように、なってください。それが大人になるということの一側面だと、私は思います。
彼らはむしろ知的障害者である事をいい事に、警察側、被害者側の都合の良いように扱われる事が多いです。
知的障害者だから優遇されるという事は、社会ではありません。むしろ逆です。
身寄りが無くても、知的障害者であるという事がネックになり、どこの施設も快く受け入れてもらえないのが現状です。
私は"知的障害者"が嫌いだ。
と言ったら、遅れている人だとか社会とズレている人だとか差別をしている人だとか思われるだろうか。
私は小学生の頃に通っていたスイミングスクールで"障害者"に痴漢を受けた。
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背の高い、狐みたいな顔をした奴だった。中学生に見えたが実際はどうかわからない。
プールでは順番に泳ぐので壁沿いに並んで待っている時間があるのだが、
奴は後ろに並んだ時、そっと尻の割れ目に指を這わせた。
この気持ち悪さをわかってもらえるだろうか。
水着なので布一枚しか隔てるものがない。
物心つく前の自分にはそれはもう本当にただ単純に「気持ち悪いこと」でしかなかった。
プールの中、プールサイド、挙句の果てには泳いでいてコース越しにすれ違った時まで。
痴漢は続いた。
ちょうどその頃自分は小学校の体育の授業で性教育の初歩の初歩を習った所だった。
「セイシが女の子にあるランシとくっついて赤ちゃんが生まれます」
それだけ習っていたので、自分は
「もしこの男が這わせている指にセイシがくっついていて自分の体に入って赤ちゃんができたらどうしよう」
と本気で心配していた。そう考えていたことは誰にも言わなかったが。
本当に幼かったんだと思う。
痴漢にあっていたのは自分だけではなかった。
同じクラスのひとつ年下の女の子たち((確か当時自分は小学四年生くらい))もみんな被害にあっていた。
親やコーチに訴えたら話を聞いてくれた。それは恐かったねと同情してくれた。
だけれどなかなか状況は変わらなかった。「話はしたんだけどね」の一点張りだった。
母から耳打ちをされた。「あの子あの年になってお母さんと手を繋いでいたんだって。ちょっと"障害者"かなにかみたいよ」
そして何度もの懇願のすえに男は私たちのクラスから姿を消した。謝罪も何もなく。
その少し後のある日、私はいつもの火曜日のクラスに用事があって出れなくなって金曜日のクラスに振り替えた。
そしたらそこにはあの男が平然といた。
そして警戒していたもののやはり尻を触られてしまった。
何も変わっていなかった。何も解決していなかった。悔しくって涙が出た。
「言ってもわからないんだから仕方ないじゃない」「可哀想な人だから許してあげようよ」
"障害者"は合法的に犯罪を犯すことが許されているのだろうか?
今なら周りの大人の対応や言葉の選び方が悪かったのだとわかる。
だけども、あちら側にまったくの責任がなかったとはどうしても思えない。
社会に出る以上、どんなハンデを背負っていても社会のルールは守らなくてはならないし
ルールを破ったならばルールを知らなかったとしても罰せられなければならない。
そして例えばそういった人の親や保護者も、社会に出す以上責任を負う義務があると思う。
その人に合った教育を受けさせなければいけない。
障害じゃなくたってコミニュケーションが苦手だったりするのはざらにある。
だけども「設計図」つまり例えばDNA的な点などで
どうしても治らない本人にも誰にも非のない障害があるのはまた別の話だと思う。
努力ではどうしようもないものがある。しかしそれは過ちを犯す言い訳にはなりえない。
自分が将来子供を授かったとして、もし堕胎可能な時期にその子が障害を持つとはっきりわかったら
自分や自分の子供が傷つくだけならまだいい。苦労しようとかまわない。
だが、自分以外の見知らぬ誰かの人生を狂わせてしまうのではないかと思うと怖くて仕方ない。
匿名だからこそ言えることだが、自分は「社会に出るのに不適切な人間は隔離されるべきだ」と考えている。
もちろん、社会に出る訓練をしてそれでもどうしようもないとわかった後に。
例えば一月の男児突き落とし事件も、男性には前科があったはずだ。だが繰り返された。
わかっていたのにどうして防げなかったのか。
知的障害者は確かに生まれながらに不本意なハンデを背負っている。
しかしそのハンデが言い訳になるような社会のままでは差別もなくならない。
まだたった17年しか生きていなくて知らないことのほうが多い自分だが、いま思うのはそういうことだ。