はてなキーワード: 現代文明とは
本idの方、プライベートモードで使用中なんだが、私信出さないといけなくなったんで、ちょいと借りますよっと。
関係ない人読んでもつまらんよw
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080330/p1
>「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミットを批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」
なんというわら人形。一番本質的な所が全く述べられてないんだが。その記述に倣うならこう。
「チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミット『をチベットに関連付けする事で、本来チベットへ向かうべきであった問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させてしまう事』を批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」
ブコメだから適当読解で、言ってもいないことを勝手に読み取るマンはカンベンな。
要するに、自分の信奉する政治的ポジションの囚人になった馬鹿どものウチゲバで、チベットを仮想敵イデオロギー陣営の攻撃の道具として使うせいで、普通にチベットに懸念を持つだけの人の気持ちの発露を邪魔すんなよということ。まぁ普通ならそれで分かるんだが、一貫性を具体的に示せといってるんで、もうちょい詳しく説明しておくかね。
世界各国の民主化されたメディアに接する事の出来る所に住む普通の民衆が、パレスチナや昨年のミャンマーや今回のチベットといった場所で人民が生命の危機に晒されている不正義に反応して緊急的な対応を求める意思をネットを通じて表明したりデモを行ったりする訳だ。
そのような注視の蓄積は、国際的な圧力として該当国・関係国に自制を、対応の緩慢な自国の政府に対応を促す事に繋がると信じる。市井の人の感覚とはそういうものだ。
ところが、そういった時にどうもいろんなイデオロギー的な主張の臭いを放たずにはいられない連中が、その表明行動に関与する事を目論む訳だ。
例えば、サヨ系平和団体が憎くて仕方ない連中がいるようで、こぴぺ発祥と思われるものからチベット事件のまとめガイドラインのようなヘイトサイトまで立ち上げて、ここぞとばかりにサヨ系平和団体と呼ばれる団体の欺瞞を喧伝する事に血道をあげている訳だ。または、チベット虐殺抗議デモin大阪(撮影日08/03/23)このようにデモにかこつけて竹島のためにチベットをダシに使う屑とか、他にも色々ウンザリさせられるものがあるだろう。
その逆に、「チベット問題との温度差をすげえ感じた」このエントリはどうだ。
チベットを枕にしたことで、生命に関わる緊急性も自由度も違う、直接関連する属性といえば少数民族に対する弾圧という話を「もしチベットについて語るのであればアイヌについても同じレベルで語れ!」とばかりに賭け金を引き上げ、市井の人のチベットへの素朴な感情の表明に対して冷水を浴びせているのに他ならない。
そんな事は無いって?いや、そうなんだよ。善良な市民と自分で名乗るほど恥知らずではない善良な市民はだれもチベットに声を上げる時にイデオロギー問題まで関わりあいたくないんだ。君が、『なぜなら、最初から「チベット「も」」問題であることを認めているからだ。』と主張し、『主観的には、一貫したものを作ろうと考えている、行動しているつもりではある』のであれば尚更、チベットにコミットする際には、今は緊急性と結束したシンプルなメッセージが要求されている事だと判断をして、アイヌに関する問題については、絡めない細心の努力をしなければならないんだよ。
わしがチベットについてはてぶで一貫していっているのはそれだけの事だよ。だから、わしの中でとりたてて「中国が嫌い」なんていう要素を見出す事ができないんだ、期待に添えなくてすまんね。
まぁそうは言っても、アイヌについて言及すべきではないという主張については不満は残るだろうし、そういえば
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080326%23p2
この辺でカリカリきてる人も居るようだし、「抑圧者側」とか選べない属人論法という煽りもあるので、件のアイヌデモについて思うところも語っておくか。
まずは件のデモの、配布されたパンフレットにあったという主張をみてみる。
> 差別は貧困を拡大し、貧困はさらにいっそうの差別を生み、生活環境、子弟の進学状況などでも格差をひろげているのが現状です。
この主張は要するに、現代文明の日本人として普通の水準の生活を送らせろという主張なのだから、アイヌである事を主張するのは矛盾してるんじゃね?
このグループの主張を見るに、アイヌゆえにというのがあるが、それこそアファーマティブアクションの負の側面がここまで明らかになっている今なお、部落差別の利権構造と同じ泥沼へ、自ら色をつけて堕ちていくようにしか思えない訳で。痛いニュースに取り上げられた反応は、チベットとは関係なくて、そういう手口をやる人間特有のあさましい部分を見透かしての反応なのではないかな。童話の青い鳥の食事に飛びついてしまった事を認められない自分の内面までは、社会には救えないんだよ。
それに対して、わしの言ってるのは、イオル(狩場)ごと返還して生活が成り立つように、アイヌのアイデンティティに対して本当に誇りを持っている者こそ望む物を渡すべきだと主張してるのだが。
そもそも、大部分のアイヌは二風谷ダムの立ち退きには生活向上を引き換えに同意した訳で、その中で強制収用と戦い抜いたのは、二軒だけだったというのは前提でよいよね?そうやって誇りを守った萱野茂も亡くなった状況で、本当に返還して、覚悟なしに単なる山地でどう過ごすのかと。本物のアイヌの生活はサスティナブルな生活様態の先達として敬意を払うべき対象であるが、その厳しさも想像できるからこそ、実践する覚悟は問われても仕方ないんでは?覚悟が無いなら、文化は博物館の中に入れて、日本人の人権の範囲で生活向上を求めるしかないじゃない。
地図を見てたら、この地域なんか典型的な間延びした生活前線であるな。持続可能な生活様態への変革が至上命題だと常々主張しているわし的にも、是非ともこの近辺の非アイヌ住民には、平取ダム作れとかゴネる下流住民ごとまとめて、集約されたコンパクトシティへと移住して頂いて、北海道経済を疲弊させているインフラコストの無駄を省ければ効率もよくて一石二鳥でもあり、実現していただきたいな。
この記事の追記的な話なんだけど、もしヒトの繁殖スタイルがそうしたものだったら、果たして文明って今みたいに発達したのだろうか。
オスはメスにアピールして繁殖の権利を得るために、食料確保や生活環境の整備・安全保障などのサービスをやっきになって提供し、そのことが経済や文化の発展につながったというようにも考えられる。
「文明は男が作ったもの」って言うと反発されるかもしれないが、それはある程度は事実としか言いようがない。で、現代文明において支配的な価値観はやっぱり男系社会のものだし。
もしのうのうと過ごして適当にセックスできるって環境なら、男は多分そんなにはがんばらないんじゃないかな。
で、その場合は例えば国家とかの巨大な共同体が発生したかどうかもわからんし、個体のオス同士の小競り合いは発生するとしても、集団と集団が戦闘行為を行う「戦争」なんてものもそもそも発想すらしないかもしれん。「戦争」なんて完全に男の仕事だし。おお、元増田にやっとつながったぜ。
まあ、女性主導でも経済なり文化なりの文明は発展したかもしれないけど(確かめる方法はないが)、それは現代文明とはかなり違った形のものになるのではないかと思う。
だから、「浮気がダメなのはなぜか」みたいなちょっとした倫理観でも、実は社会のあり方に相当広範囲な関連性を持っていると考えられる。
だとすると、
というのも、あながち間違いではないかもしれん。
ただし、そうした倫理観は「メディアの悪影響」といったレベルで決定されたものではないだろうし、その変更は社会や個々人のあり方を根底から変えることに等しいのでおそらく不可能だと思うが。
日本みたいに生活の難易度はそれほど高くなくても失敗した時に生命に関わる様な訳の分からない社会の中で生きるには、常に揺るがないモチベーションを保て。
今渡っているのが丈夫な橋なのかそれともボロボロで崩れかけの吊橋なのかは知りようもないが、自分から足を踏み外してしまえば元も子もない。谷底へ落ちないという保証はないが、とにかく下は見るな、歩け。
脆弱な基礎の上に成り立った現代文明こそが日本なのだから、それに依存した高度で知的で文明的な生き甲斐に頼って生きていくのはやめろ。それが万が一出来なくなった時、生き甲斐を見失った時、働く意欲はどこから出てくる?底辺から這い上がる苦痛をどうやって耐える事が出来る?
金がなくなっても、PCが使えなくなっても、マズい食事にしかあり付けなくなっても、冷暖房が使えなくなっても、住む所がなくなっても、腐ったものしか食べられなくなっても動じない、白痴にしか理解できないような下らない生き甲斐を見つけろ。見下すべきなのは名誉と高いプライドだという事をいつも頭に置いて考えろ。
常に怯えて暮らせ。何があるかは誰にも分からない。生き甲斐なんかにコストを掛けている場合ではない。どんなに見かけ上の生活が良くなっても、衣食住の危機は常に足元に見え隠れしている。
平等な社会、などと最初に言ったのは誰だったか。
社会という存在は生まれながらにしてある種の差別を抱えている。
つまり、「社会に参加できる者」による、「社会に参加できない者」への差別のことだ。
一万年と二千年前。
人類の中に“コミュニケーション”という能力を持つ者たちが現れた。
それは1+1を100にも200にもする力。
彼らは“社会”という集団を結成し、勢力を拡大していった。
敵などいるはずもない。
世界は社会に覆い尽くされた。
彼らは、自らを“コミュ”と称した。
一方で、コミュニケーション能力を持たない者たちは、
いつまでも1のまま、力を持たないまま、コミュたちの社会に押しつぶされた。
「コミュに非ずんば人に非ず」
彼らは“非コミュ”と呼ばれた。
生きていくためには働く必要がある。
そして、働くためには社会に参加せねばならない。
なんという差別だろうか。
考えてもみろ。
だが我々は、役所に電話のひとつも掛けられないのだぞ。
――インターネット。
それがあれば、非コミュたちもコミュニケーション能力を持つことができた。
非コミュたちは、有史以来はじめて互いの存在を確認しあい、そして泣いた。
非コミュの夜明けがついにやってくるかと思われた。
コミュに攻撃され、火をつけられて、いくつもの非コミュサイトが閉鎖していった。
非コミュは、非コミュ相手にさえ、トラックバックを送ることができなかった。
インターネット上ですら、非コミュたちはまともなコミュニケーションを取れなかった。
ましてやオフ会など。
そう、先日のオフ会は惨々たる有様だった。
オンラインではそこそこ盛り上がっていたものの、結局、集合場所には誰一人として現れなかった。
実は、かく言う私も行かなかったので、本当に誰も来なかったのかはわからない。
しかし少なくとも「第一回・政府に非コミュ支援を訴えるオフ」が失敗に終わったことは確かなのだろう。
調子に乗って「第一回」とか付けるんじゃなかった。恥ずかしい。死にたい。
…失礼。
今日はこの増田の場を借りて、「第二回・政府に非コミュ支援を訴えるオフ」の告知をしたいと思う
諸君、今回は顔を合わせなくてもいい。
声を掛ける必要も、あの忌々しい自己紹介も必要ない。
ただそこに立っていてくれるだけでいい。
それが我々の“団結”だ。
それこそが、団結する力を持たない、我ら非コミュなりの“団結”となるのだ。
我々の力を、コミュのやつらに見せ付けてやろうではないか。
決行は次の日曜。
集合場所は国会議事堂前。
万国の非コミュよ、“団結”せよ。
と言うのも、明らかに石原慎太郎はネットを「有害なもの」と看做しているから。
携帯電話とかパソコンといった現代文明の所産は通話による情報交換の便宜の末に、情報の氾濫(はんらん)をもたらしたといえる。その結果多くの人間たちは大脳生理学の公理になぞらえていえば、実がなりすぎて上部の大脳が肥大しすぎ肝心の幹である脳幹の発育が追いつかず、嵐が来たら上の重みに耐えきれず簡単に折れてしまうリンゴの木のように、過剰な情報を収(しま)いきれずに人間としての本質を失いつつあるような気がしてならない。
子供たちの所持している携帯電話には規制の無いまま、売春や変質者の嗜好(しこう)に応えて容易に多額の金を手にする手引きまでが盛り込まれている。それらの情報は風俗の紊乱(びんらん)にとどまらず、若い世代の人間たちの人間としての本質を狂わせてしまいかねない。こうした状況は性愛に関していえば「体は手に入るけれど、心が手に入らない」といった根源的な喪失を生み出してしまう。今時の若い女の子たちが「腐女子」などと呼ばれるような兆候は、喪失以外の何ものでもありはしない。これは若い人間たちだけではなしに、総じて情報の氾濫に巻き込まれている人間たちを本質的に衰弱させてしまう。
ネットで都知事選について言及しているブログや掲示板などを読んでみると、候補者の国家観や教育観などについては盛んに言及されているにもかかわらず、今現在自分達がそれを語っている場であるインターネットについて、候補者がどんなスタンスを取っているのか言及しているものはほとんど無いことに驚かされる。
インターネットというのは、現在、国民が自由にものを言えるツールとして非常に有用かつ重要なものになっているわけだが、その一方で、何か事件があるたびに槍玉に挙げられてしまう存在でもあり、いつ規制が入ってもおかしくない状況にあるということを、先ず皆が認識しておかなければならない。
そして、そういう状況が存在する以上、ネットユーザーとしては、自分達の表現の場を守るために、選挙時においても、候補者がネットについてどんな考えを持っているのか知っておくべきであって、そこを争点として意識できないことは非常に危険なことだと考える。
そういった観点から見てみると、「大脳生理学の公理」などという「トンデモ」としか言いようのない理屈をネットを有害視する理由に置いている石原慎太郎には、ネットについての冷静な考察は期待できないし、彼が元々規制についてあまり抵抗のない保守的な人物であるということも考え合わせると、何かのきっかけに規制の動きが持ち上がったらそのまま歯止め無しにネットの自由を脅かす存在となってしまう可能性の高い人物であると考えるべきだろうと思う。
ネットの自由を楽しみ、また、その自由の中に新たな言論の可能性を見出している私には、ただでさえいつ規制が入ってもおかしくない状況にある今の時代に、そのような人物を支持することはとてもできない。
従来の選挙における争点を越え、有権者もインターネット社会への影響といった視点を踏まえ政治家選びをしなければならない時代になっているのだということをよく理解しておきたいと思う。
近年、出生率の低下が問題視されているがこれにはちょっとした誤解がある。下がっているのは「知的水準の高い人間」に限った出生率であり、馬鹿は馬鹿みたいに発情し、欲望の赴くままにセックスをして、子どもを産んでいる。
馬鹿はコンドームを買う金がない、もしくは避妊の方法を知らないので、当然妊娠することになる。もちろん、中絶する金もないので、無計画に出産し、馬鹿だから教育を与えられないので生まれた子供は馬鹿に育つ。馬鹿に育っている子どもを横目にまたセックスをし、馬鹿を産む。こうやって馬鹿を量産する。
一方、知的水準の高い人間は教育にかかる費用や難しさ、それと避妊の方法を知っているので安易に妊娠する危険性のある行動はしない。結婚に対しても、様々なことを考慮に入れ、時間をかけて熟慮する能力があるので、衝動的に結婚することはない。また、知的水準の高い人間は同じく知的水準の高い異性とつき合う傾向にあり、こういったカップルは男女ともに社会のために頭脳・肉体を日々働かせているので時間的余裕がなく、さらに馬鹿と違ってセックス以外の娯楽を知っているのであまりセックスは行わないのである。
このようなことから、現在先進国に馬鹿が大量に発生している。近い将来その比率は大きく差がつき、馬鹿が圧倒的な多数派となり、馬鹿が社会を運営することになるだろう。知的水準の高い人間は全て骨となっていなくなる。機械は壊れたまま放置され、治されることはなく、新しく作られることもない。字を読める人間はいなくなり、知識の継承はなくなって、学問は滅びる。栄華を極めた現代文明は全て灰になる。
そして、再び原始的な世界がやってくるのだ。ウパー!
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061227/1167212479
「人間らしい暮らしをする人間の数が、爆発的に増えたからだ。」これって環境問題でもあるよね?それだったら話は分かるよ。
発展途上国の人達の生活レベルが現在の先進国並みになってしまったら地球の収容能力を超えてしまって、人類は破滅してしまう、みたいな話を聞いたことがある。
化石燃料の採掘可能年数も諸説あるけど有限には違いないだろう。
経済的な問題以前に環境的な限界が来るんじゃないかっていうのは悲観的な観測だろうか。
そういう意味で分裂勘違いさんのこのエントリの結論は全然違う意味で正しいのかも知れない。が、果たしてここで語られてる生活規模の縮小、の認識はこんなもんでいいのかな。
果たして近所にSHOP99がある状況が贅沢じゃないと言い切れるだろうか。ネット環境があるのは贅沢じゃないと言えるだろうか。
貯金してスキルも身につけたところで、インフレが起きて貨幣価値が100分の1とかになったらどうしよう、とか、そのスキルは本当に今後生きていくのにずっと使えるのか、とかね(ま、例えば料理というか自炊の研究をして「1ヶ月1万円生活」みたいなのを極めるとか、とりあえず日本を脱出してもどこの国でも暮らせるように英語を学ぶとかだったら死ぬまで使えるスキルだとは思うけど)。
こんなこと考えるのは杞憂というか考えすぎだろうけど。
ま、でも当面の最大の問題は「みんなが清貧の生活になったらこの国の経済はどうなるんだろう」ってことだったりもするわけで。
モノが売れなくてメチャクチャな状況になるんじゃないのか?教えてエライ人!