はてなキーワード: 否定論とは
徹底的に仕事に手を抜き、休みまくり、それでいて会社から切られないだけの結果を出す、という観点ではそうだよね?
http://anond.hatelabo.jp/20100710230949
http://anond.hatelabo.jp/20100710231648
「自分が完璧超人になれば給料を人質に会社にこき使われなくなるんじゃね?」というのが出発点なんだから。
http://anond.hatelabo.jp/20100710233310
さいとうたかをも最初は自分で描いてたし、最初から何人もアシスタントを抱え込めていたわけじゃないでしょ。
しかしまあ何という食い付きっぷり。5個もトラバされるなんて生まれて初めてだわ。
彼らが18歳未満への販売規制を実施したとき、私は自分が多少不安だったが、18歳以上だったから何もしなかった。
しかし「ニーメラーの詩」は、そこで挙げられた例が悪である場合にのみ成立する、特殊な論法だという点に注意しなければならない。
規制に反対する者は、その規制自体の悪を主張する努力をしなければならない。
「ニーメラーの詩」を誤用し「転がりやすい坂」に逃げ込んだところで、その主張が顧みられることは期待できない。
「覚せい剤は悪だから規制すべきだ」と言われている時に「覚せい剤を規制すればゆくゆくは全ての娯楽が規制される」と言うのは反論にならない。「悪(い娯楽)に限定した」規制を否定できていないからだ。
よく否定論で「そんなの気にするのは自信がない男」「比べられるのが怖い」っていう精神論出てくるけどこれは嘘
過去の男を比べられるのは基本的に勝ちようがないからこそ問題
例えば過去の彼氏に実際に会って、自分より全面的にショボい男だと確認しても敗北感は消えないの
「でもあいつは彼女のこと全部知ってる」「あいつのほうが先だった」っていうのが重要なとこだから
むしろ前彼がショボい奴だったり軽蔑すべき奴だった方が苦しむし嫌悪感が湧くわけ
そういうことをよくわからない&仮にわかっても無視したい女性が
「非処女でも関係ない!」
「そんなの気にするのはダメな男だけ!」
って喚く
また、そういう場面で自分を度量大きく見せたい男性が同調して見せることもあるけど
そういう男性の話をよく読むと大抵異常なヤリチン思考・遊び志向なのには気づくと思う
彼らは非処女に対する嫌悪感を「自分も狂ったように遊ぶし!」っていう毒で相殺中和することにした人達
だから非処女であることを苦しめとかいいたいんじゃない
でも「結婚を考えるぐらい大好きな彼女が非処女だと苦しい」っていう苦しみや悲しみや抵抗感は真面目で現実的な話だと言いたい
それを精神論的に否定する声ははっきり言って、嘘だよ
あれに下手に反論すると「自分に自信の無いキモオタ、非処女に石投げたりする」みたいな扱いになるから
そういう脅しの抑圧に負けて迎合する男も多いけど
藤井財務相が極端な介入否定論者じゃないのはこれまでの経歴(細川政権での仕事)からも明らか。
また、急激な為替変動が好ましくないと思ってるのもこれまでの発言から明らか。
ニヒリズムと一口に言ってもいろいろあるが、私が想定しているのは
虚無主義というよりはむしろ、懐疑主義なのかもしれない。
であるとしたら、超克するべきものではないのかとも思う。
人間として生きて、日々考えて暮らすには、ツールとしての懐疑は使うべきだから。
だが、懐疑主義をつきつめると、やはり虚無主義に落ち着いてしまうのでは?
私ばかだから、何度否定論者の説明を聞いてもこの堂々巡りに陥ってしまう。
あと、wikiに載っているような否定論は、単なる根性論にみえてしまって腑に落ちないんだよなぁ。
いや、そんなこといっちゃあ、ニーチェも根性論か。うーん。
たとえば「リアルのゆくえ」p273。東氏の言いたいことは以下です。
東氏にとって、Apemanさんのやられていることは、お宅がガンダムの一年戦争について語ることと同じなのです。
「かって公共性を担うと思われていた話題も、いまやオタクのネタと代わらないわけです。ネットというインフラは、ガンダムについて熱く語っている人と、南京大虐殺について語っている人を等価に見せてしまう。実際若い嫌韓厨にとっては、第二次世界大戦は宇宙世紀と同じくらいフィクションでしょう。そのどちらのフィールドにおいても、彼らはすごく議論するし、ぶつかりあう。だからそれがすべて公共圏の萌芽だっていうなら、すごくハッピーな議論になるんですが、実際にはそうじゃない」
P232
「たいていの人にとっては国家なんてどうでもよくて、100人や1000人規模のコミュニティのなかで生き生きと生きていれば、それでいいんじゃないか」
つまり、こうやって、歴史修正主義について議論するのは、歴史の歴史性とは?またそれを語るとは?歴史学における事実とは?とかの問題ではなく、価値中立な工学的に設計されたネットインフラのなかの「南京大虐殺」コミュでの、コミュニケーションのネタにしか東氏にはみえないのです。そしてそれでいいじゃないか.それで幸せならば、と言っているのです。
普通に考えれば、歴史学的に証明されている南京事件という史実と、歴史学では相手にされていないその否定論というトンデモを並べてフラットに「コミュニケーションのネタ」として扱うことは問題があるといえます。しかし、彼らはそうは考えません。だってポストモダニズム系リベラルの時代だから。ポストモダニズム系リベラルの時代には、史実もウソも、フラットな情報としてしか扱われない。だからぼくは南京事件があったかなかったかは関心がないんだよ!と公言できるわけです。
だから、彼らに対して彼らが「無知」である(あり続ける)ことをもって糾弾するのは、確かにあまり意味がないのかもしれません。自分は無知であり続けながらひたすらコミュニケーションのあり方のみを問題化していくという態度そのものが、彼らにとってはステータスなのかもしれないからです。