はてなキーワード: 盲腸とは
私は非常勤中の非常勤講師みたいなのをやっています。
高校ですけど。授業にならないってすごいストレスだし大変ですよね。
私の比じゃないと思いますが。
奥様には、「心(精神)の不調」というよりも「脳の不調」という風に説明/説得してみてはいかがですか?
風邪は放っておけば治るし気合いで防げたり治せたりするように思う人もいますが、
盲腸はそうではないですよね。切るとか散らすとか、そういった医学の力を借りないと、腹膜炎になったり、
最悪死んでしまったりしますよね。
風邪を引いた時はドリンク剤が有効かも知れないけど、盲腸の時は役不足かも知れない。
内科で虫歯を治療して貰えない(ですよね?!)のと同じ。とか。
奥様の気持ちもわかるような気がします。つらいですよね。。
いい案が見つかりますように。
盲腸や尾骶骨と同じようなもんだろ
この人が、「かまってちゃん」とか言われたりはてブで「薄馬鹿」とゼッケンをはって過ごせ、などといわゆる「普通の人」に罵倒されてしまう理由。
それは、もともと「普通の人」も、好きで空気を読んでいるわけではないからです。
何故読んでいるか。というより、何故読まざるを得なくなるか。といえば、それは「社会生活を成り立たせるため」なのです。
別に、面白くて空気を読んでるわけではないのです。「そうしないと成り立たない」から読んでいるのです。それを子供のときから続けた結果、嫌悪感も感じず自然に染み付くようになっているだけです。
それが前提としてあります。なので、「俺はこういう障害があるから、空気なんて読めません。だから、読みません。悪い?」と開き直ってる人を見ると、「ズルい」と感じるのです。「俺達だって別に読みたくて読んでるわけじゃないのに、社会生活を成り立たせるためにしかたなくちょっとずつ我慢してるのに、障害があるからって何でお前だけそれが免除されちゃうの?障害者だからって読まなくてもいいの?で、その分俺たちがまたフォローするんでしょ?空気読めない発言しても、それを注意したら差別になっちゃうんでしょ?できない人に「おい、それするなよ」なんて言っちゃいけないんだから。で、俺達はそういう人の発言を注意することもできずただ黙って我慢しろってことでしょ?一方発達障害の人は「障害があるからしかたないじゃん」ってことで何を言っても許されるんでしょ?……なんだよそれ、やってらんねえよ、あーあ、発達障害とやらがある人はいいですねぇ、読まなくても「障害があるからしかたないだろ」で済むんだから。だったら俺だって発達障害になりてーわw俺、名乗ってもいい?w」となるのです。
今もって「迎合してヘラヘラ笑っていたり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けていると、心臓が止まりそうなほどの不整脈が出る」のだから、「道理は道理、正論は正論」というスタンスしか摂りようがない。
と言っていますが、重要なのはですね、別に「普通の人」でも、「迎合してヘラヘラ笑ったり、納得のいかないことで謝罪を要求され続けて」いるのは、ものすごく嫌なのだということです。でもそうしないと生きていけなかったりするので仕方なくしているのです。そこで「そうしたら不整脈になるんだからしかたないだろ」と開き直るとどうなるか。「普通の人」たちはこう思います。「じゃあ何か。俺達は、なまじ「嫌だけど、我慢できてしまう」から、ダメなのか?不整脈の一つでもでりゃ、俺達も我慢しなくていいのか?」と。「なまじ我慢できてしまうが故に、そこにつけいられ我慢を強いられているのか」と感じるわけです。嫌なことを我慢した上、しかもその「我慢ができるゆえにさらに我慢をしなければならない」という理不尽さに、そして「不整脈が出るから」ということでその我慢から逃げおおせている事に怒りを感じるのです。
「発達障害の人は生まれつき、迎合してヘラヘラ笑ったり、理不尽な目にあったりすると死んじゃいそうになるから、そういうことができないんですよ。しかたないのですよ。だから分かってあげましょうね」
なんて、だから、「普通の人」には絶対に届きません。
「え?そんなの俺だってやだよ?なんで、そいつだけ、「いやだ!」っていうことが許されるの?なんで、そいつだけ、そんな我侭が許されるの?俺だってやだよ?じゃあ、俺も嫌だから、皆、そういう風に気を使ってよ!ダメ?なんで?障害者じゃないから??なんだそれ、ズルいよ」
と感じるからです。そしてそれは無理のないことだと思います。発達障害の人からみれば、あまりに「普通の人」が普通に空気を読んでいるので、「好きでやってるのか」「楽勝なんだ」とか思ったりするかもしれませんがそういうわけじゃないのです。「普通の人」だって別に完璧に空気なんか読めません。だからこそ人と人のトラブルはいつだって発生するし、「普通の人」だって人間関係で悩んでいる人はたくさんいます。
別に発達障害の人じゃなくても、人間、『自分の思ったことをそのまま言う、迎合しない、納得のいかないことには納得いきませんという』……それが一番に決まっているのです。でもそんなことは通常幼児期しか許されない。そんな事を互いにしていたら、社会が成り立たないからです。ドラゴン桜に(マンガですみませんが)「本音で語り合える学校がどうのこうの」という話題になった際、「本音ってそんなにいいか?」「本音ばかりは必ずしもいいことじゃない」と主人公が言い放ったシーンがありましたが、まさにそういうことなのだと思います。
「普通の人」も最初は自分の思った事をズバッと言ってしまったり空気を読まなかったりしています。が、成長するにつれ、「どうも、おかあさんがムスっとした顔をしているときに、おもちゃを買ってというと、怒られるようだ…」→「そういうときは言わないでおこう」と学んでいく。「どうも、髪型に拘っているクラスメイトに、その髪型変だよといったらクラスメイトは悲しんだり怒ったりするようだ…」→「そういうときは言わないでおこう」と学んでいく。
それだけの話です。だからそもそも許されるならば、気をつかわなくていいのならば、いくらでも好き放題「その髪お前変じゃね」「おもちゃかってよーー!!!」と言いたいのです。ただそれを自分で律しているだけです。ときに自分のため、ときに他者のため、ときに社会のために。
だから、「普通の人」からそういう発達障害者の主張を聞くと、「なにそれ、わがままだ」「ズルい」と感じるのです。「できないからってしなくていいなんて。だったら自分もしたくない」「それじゃ幼児じゃん。大人になっても幼児のままで過ごしておいて認めろっていわれても」と。
しかし発達障害者からすると、そもそも上記のような「自然に学んでいく」が全くできないので、皆がただ単に何かよくわからないものを押し付けてくる、としか感じられない。過程が、分からないんですね。「別にすきじゃないけど必要だから皆がちょっとずつしかたなく身に付けてきた」という背景が。あるいは言葉では知っていても実感として知らないわけです。だから、「理不尽だ」と感じて怒りを抱いたり、「なぜ?なぜ??わからない」と苦しんだりするわけです。
普通の人と発達障害者の「ズレ」は、そこにあるのだと思います。発達障害者の人たちは「そんな空気読むとかそういうことを押し付けてくるな!そっちでやってろ」と思いますが、別に、普通の人も好きでやっているのではないのです。そこがズレだと思います。仕方なくやっているのです。押し付けるのはなぜかといえば、「みんながちょっとずつ我慢して、社会を穏便にするように努力してるんだから、お前もやれよ」という感覚によるものです。だから、そこから逃げようとすると、怒るのです。まるでそこからは、「税金は払わないけど、皆から集めた税金の恩恵は受ける」ような感じ、フリーライダーのような感じを受けるのです。
そんな怒りが、「かまってちゃん」と言われたり「薄馬鹿というゼッケンをはってれば?」という反応になって表れるのです。
「脳に、もう、そういう障害があって、そういう能力が無いんだから、どうしようもないんだよ」という切り口で言っておられますが、そういう切り口の攻め方はいささか受け入れられにくいと思います。寧ろ、そういった方向性で攻めますと、おそらくそのうち「それならそんな脳に欠陥のある奴は、普通に社会生活を営めないんだから、外に出てくるなよ。迷惑をかけるな」なんて反応が出てくると思います。
「目が見えない人」「耳が聞こえない人」と同じだ、とおっしゃっていますが、それもなかなか通じないと思います。実際「平均的な人間に比べ、ある能力が著しく低下、あるいは無い」という見方においては、目が見えない人と発達障害の人は同じと言えます。が、「脳とそれ以外の器官」という見方で見ますと、「目が見えない人」と「指がない人」と「耳が聞こえない人」は同じであっても、「発達障害の人」は違う、ということになります。同じか否かというのは、何でもそうですが、見方によるわけです。ある一面では同じでも、ある一面では違う。何でもそうです。
で、「普通の人」は、後者の見方をします。なぜならば(現代の)人間にとって、「脳」という臓器は他の臓器とは一味違った、特殊な部位であるから(と、思っているから)です。現代の人間にとっては、「脳」は、ほぼ、自分です。他の臓器は、いうなれば単なる道具に過ぎない。極端ですが、そういったイメージを持っている方が多数だと思われます。誰しも、自分の盲腸が考え事をしているなどとは思いませんし、自分の太腿にアイデンティティが宿っている、とは思いません。自己はほぼ脳であり、手、足、目、耳、それらの部位は、脳=自己(人格)のための、道具である、と、そういったイメージが漠然と身についているのが現代人だと思います。
ですから、「脳に障害がある」のと「目に障害がある」では、同じようで、全く違うのです。
道具にちょっとくらい欠陥があっても、欠陥というのがアレでしたら、ちょっとくらい違いがあっても、周囲の人は「ああ、道具が壊れてしまったのだな」と手助けをすることが割りと容易ですし、社会生活も、意思疎通の面ではあまり問題はありません。人格には何も問題はないからです。それを伝える、口という道具が若干働かなくても代替のものがある。それを受け取る耳という道具が若干働かなくても別の道具でそれを補える。伝える内容そのもの、交わす内容そのものには問題はないのですから、あとは純粋に道具の問題だと、なるわけです。ですから、まだ受け入れやすいのです(それでもまだまだですけどね)。
しかし脳に障害がある、というのは、ちょっと違います。道具には問題がなくとも、その中心である自己、人格に問題があるのですから。根本的にそこが他と違う、というと、道具でも補いきれません。(そもそも、「補う必要はあるのか。補うという考え方はどうなんだ」という問題もありますが)
いうなれば、「右手がサイボーグの人間」と、「一見普通の人間だが、実は中身は宇宙人」と、どっちとまともにコンタクトを取れる自信があるか、という話です。無論、前者なのです。極端に言えば、脳に問題がある、というのは「普通の人」にとっては後者の如く感じられるのです。
ですから、「脳がそういうふうなので仕方ない!」という切り口で攻めますと、最悪「なら、そんな奴は社会不適合者だから、外に出るな!」的な反応を食らうことになりかねないと思うのです。
実際、鬱病も「甘えだ」なんていわれたりしがちな病気ですが、これも「元気がでないとか、仕事いきたくないとか学校いきたくないとかさぁ……そんなん俺だってそうだよ。いかなくていいならいきたくねーよ!でもそうしなきゃいけないから行ってるんだろ。鬱って診断されたら休んでもOKなわけ?なんだよそれ」という、「ズルい!」という思いから来ているのだと思います。
目や耳の障害や、精神系でない病気についてそういったこと(甘えだ、等)が言われないのは、「ズルい」と思わないからです。
それでも鬱病も最近は「甘えだ」と言う人も減ってきました。それは「鬱状態は辛いのだ」という認識が広まってきたからだと思います。肺炎になって学校を休んでも「ズルい」とは思いません。休みたいは休みたいでも、そんなキツい思いをするのは普通嫌だからです。鬱も、知識が広がるまでは単に「いきたくないといってる人」くらいの感覚で捉えられていたため「そりゃ俺だってそうだ!ズルい!」となっていたのですが、「どうやら相当キツいらしいぞ」と分かってからは「ズルい!」とならなくなってきたのだと思います。
しかし、発達障害の場合はどうか。
これは多分「ズルい」という感覚はちょっとやそっとじゃ抜けないと思います。なぜならば、発達障害の人が「辛い」のは、あくまで周囲との関わりにおいて、「読めない空気を読めとおしつけられる」等のことから発生するものです。肺炎や鬱などと違い、ただ一人でいても辛いものではありません。(鬱が発生すること自体は、周囲の環境などが関係しますが、発症後は一人でいてもキツい、ということです)
ですから皮肉にも、自分たちが「空気がどうしても読めない」人のことを理解し助ければ助けるほど、彼らの「辛さ」は減る。一方、こちらの辛さやストレスは上がっていきます。空気を読んでくれない相手を「しかたないのだ…」と思いながら、ただでさえ空気を読むという我慢をしているのに、さらに「空気の読めない仕方ない人」に対しても我慢をしなければならない。そしてそうすればそうするだけ、その「空気の読めない仕方ない人」の「辛さ」は減っていくのです。当然、「ズルい。なぜ、こちらだけ我慢をしなければならない」となります。どちらに転んでも、「ズルイ」となる。いやむしろ、こちらが助ければ助けるほど「ズルイ」となる。
結局、「発達障害だろうがなかろうがみんな空気とか読みたくない。自分勝手でいたい。が、それでは成り立たない」中で、「普通の人」は空気を読み、「発達障害者」がそれが著しく困難な事を理解する。また「発達障害者」は「普通の人」も別にしたくないが社会の存続のため仕方なくやっている、ということを理解し、形だけでも出来うる限り合わせるようにする(空気を読むこと自体はできるようにならなくとも、表面上あわせることは訓練次第で可能と聞きました)。という相互からの歩み寄りが大事なのだと。平凡な結論ですが。「発達障害者は、じゃあ、外に出るな」は勿論問題外ですし、といって「発達障害なんだからしかたないだろう」では逆に「普通の人」に全てしわよせが来るだけです。どちらかに押し付けてはいけないのでしょう。
・CVCCエンジンの開発に成功した時に「車が売れる」と宗一郎は喜んだが、CVCCの開発に携わった者達から「排ガスによる公害を減らすためにCVCCを開発したのであり、売上げのために作ったのではない」と叩かれさめざめ反省。
・ある日、宗一郎が工場を巡回していると、若い工員から「おいっおっさん!なにズボンのポケットに手突っ込んで歩いてんだ!転んだらどーすんだ!」と注意された。その後「正装のズボン」からポケットが全て取り外された。現在もズボンのポケットは無い。
・「ほんとは、現職にいる時、うちの社員と名のつく人に全部あって握手してやりたかった。
社長を辞めて、やっとその念願を果たすことができた。日本国内で700ヶ所、回るのに1年半かかったよ。
それから海外の駐在員のところを飛行機で回った。それも半年かかったもんだ。うちの社員でありながら、オレの顔を見たことがないのが大勢いるんだ。ことに地方の出張所や、SFというサービス機関の社員とかね。
一人ひとり手を握ったんだ。オレは涙が出た。むこうの若い連中も泣いたよ。けど、オレは士気を鼓舞するなんて気じゃない。自分が嬉しいからやるんだ。オレは社長を辞めて、やっと人間らしいものにいきあったよ。」
・「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」
・米国に初めて工場を建設した際、「正装」のツナギ姿で現れ、現地工員ひとりひとりと握手して激励した。工員たちは、伝説的存在であるミスター・ホンダが自分たちと同じ格好で親しく接してくれたことに感動し、米国に進出した日本企業を必ずと言ってよいほど悩ませていた労働争議が、ホンダに限っては一度も起きなかったという。
http://anond.hatelabo.jp/20090302230307
社員が会社のためじゃなくて社会のためって言い切れたり、社長が従業員を大切に思えたり、そういうのってやっぱりモチベーションとして大きいと思うんだよね。
利潤の追求ばかりじゃつまんないと思うんだよね。
生活保護を貰って生活している知人がふたりいます。ひとりは東京、もうひとりは福岡に住んでいます。
福岡の友人は、弱視という障害を抱えながら働き、足りない部分を生活保護で補って貰っています。今年は盲腸を筆頭に入退院を繰り返して仕事が出来ない為、生活がとても苦しいと、先日言われました。
東京の友人は、テレビで離婚記者会見を見てPTSDだと自分の病名を決め、病院に行き、そして病気になり、仕事をいきなり辞め、家に引きこもったシングルマザーです。
でも、ふたりにはかなりな違いがあります。福岡の知人はしょっちゅう携帯を止められ、生きているのか分からなくなる状況によく陥ります。福岡は生活保護の基準がとても厳しいらしく、パソコンが家にあっただけで生活保護が止められると教えてくれました。収入が少し増えただけでも額が激減するそうです。
でも東京の知人は、オークションで売り買いをし、先日はパソコンを新調したそうです。中古だから安く買えたと言われましたが、去年出会い系サイトに騙されて借金を背負っているのに、凄いリッチだなぁという感想しかありませんでしたが、勿論言えませんでした。育児も殆どしておらず、子供の食事は3食コンビニ弁当。夏休みなどの長期休暇の場合は、実家に行くそうですが、出会い系サイトに騙された時も、もう少し子供の為に何かしてやればいいのにと、言いましたが、彼女は出来ないと、言いました。
生活保護の基準が都道府県によって違うのか、とても気になります。子供はすくすく育っていますが、児童虐待のような気がしてしまいます。パソコンも就職活動などで必要なら分かりますが、彼女がしているのは、オークションと自分のブログを書く事と買い物くらいで仕事を探す気配もありません。まぁ、病気だから仕方がないのでしょう。
でも彼女は病気になったばかりの頃、こう言いました。「一生懸命働いても10万円ちょっとにしかならないのに、生活保護を貰えば何もしなくてもお金が手に入る」と。なんだか自分も最近の物価値上げの影響で、楽な生活をしたくて仕方がありませんが……。でも、一人間として正々堂々と生きようと私は思っておりますが、楽な生活をしている人って日本に何人いるんでしょうね。そして生活保護が本当に必要なのに受けられない人も何人いるんでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20080605021431
結論です。
結局ケミカルな物を取り入れることにしました。通院はしません、誰にも相談しません。
あまり褒められた物ではない感じの薬で対処しようと思います。
(合法ですし体に悪いとはされていない物ですが、具体的に何か、というのはあえて書きません)
そして、子供を産んでから睡眠時間が多めになっていたので、4時間くらいに減らして
勉強に充てたいと思います。なんとか。疲れたら寝ちゃうかもしれませんけど頑張ります。
自分との折り合いという意味ではここが妥協点かと思います。
盲腸を薬で散らしてる感じでしょうか。
どこまで頑張ったらいいのか・・・と悩んだのが間違っていたのかもしれないです。
終わりがない感じで頑張り続けるしかないのでしょう。giftがなかった人間の宿命です。
何となく立ち位置が決まった気がします。
うさぎとかめみたいなもんですね。
医療崩壊なんだかんだといったそういう情報を最近よく見る。「医者はもう限界です」っていう。でも私も私の周りの人間も、医者に行くって言うと、普通耳鼻科だとか眼科だとか歯医者だとかで、いわゆる総合病院なんかにはほとんどいかない。骨折だとか盲腸だとか結石だとかそういう時くらいだ。
うちの家族が病院にお世話になったのは多分、私たち兄弟が生まれたときと、弟が白血病になったときと、父が結石になった時だけだ。
夜間救急なんか行ったことがないし、救急車を呼んだこともない。
それで、夜間救急に大した怪我でも病気でもない人間が空いているから、という理由で来るからどうの、っていう記事を見ると、それって誰なんだ?そんな人間いるのか?と思ってしまう。
病院いく、って時に、近くのいわゆる開業医ではなく、大きな病院が選択肢にまず出てくる地域、てのがあるところにはあるのだろうか。不思議。
大きな病院って大怪我した時か、大きな病気した時だけにいくものだと思ってた。というか思ってる。十年に一回いくかいかないか、みたいな。年を取ると色々とそうは言っていられなくもなるのかもしれないけど。
なので医療崩壊といわれても、イマイチこう切迫感がないというか、現実味を帯びて考えられなかったりだ。
こういう人間は結構多いように思うのだけど、どうだろうか。
/
というか、近くの開業医ですらほとんど行かない(だって風邪くらいじゃ普通医者にはかからんでしょう。インフルエンザかなー?でちょっと迷うくらいで)ので、医者の需要ってそんなにあるのか!?というのが正直なところ。医者っていうと定期検診の歯医者くらいだ実際。
まあ地元の公立病院では産科が閉められた(募集停止?)ので、そういうとこでは医療崩壊を実感するのだけど。
崩壊に対して一体何をすればいいのか、て時に、できることって何もないんじゃね?と無力感にとらわれる。
戦争しようと町まで 出かけたら
戦車を忘れて 三輪車で突撃
(ABCの歌の替え歌)
ABCの海岸で カニに○○○○挟まれた
痛いよ離せ 離すもんかソーセージ
(ABCの歌の替え歌その2)
ABCの海岸で カニに○○○○挟まれた
痛いよ離せ 離すもんか森総理
パンパース Lサイズ
人気(ひとけ)の少ない公衆トイレ
誰かと誰かの声がする
「紙、紙、紙紙紙!!」
紙が無いから葉っぱで拭いた
葉っぱで拭いたらケツ切れた
「痛い、痛い、痛い痛い痛い!!」
あまりの痛さに包帯巻いた
包帯巻いたらクソできない
「我慢、我慢、我慢我慢我慢!!」
我慢のしすぎで盲腸破裂
手術に失敗 あの世逝きー
アンアンアン とっても大好き しずかちゃん
Q.私は何歳でしょう?
追記
夜半までかかるかもしれない打ち合わせが客の都合で延期になり、スケジュールもない夕方は不思議な空白になった。仲間の事務所に立寄って馬鹿騒ぎでもするかとも思ったが倦怠感に負けた。タクシーも使わず春の夕日に引かれるように青山から渋谷まで学生時代のことを思い出しながら歩いた。宮益坂を下り郵便局の前で出し忘れた書類を思い出し立ち止まると、痩せた中年の女がKさん?と僕に声をかけてきた。灰色の服で大学でフェミニズムでも教えていそうなショートヘアーの女。すみません、思い出せなくてと答えると、以前青山の事務所で一緒に働いていたNです、覚えてますか?と妙に明るい声で答えた。大学を出て数年後派遣のように通っていた事務所に、バイトをしていた青学の女の子が一人いた。その女だろう。飲み会でふざけてくどいたこともあった。名前は忘れた。
思い出したよ。変わらないねと僕は言った。彼女は嬉しそうに笑ったが僕は嘘をついていた。20年して変わらない女はいない。顔の輪郭や雰囲気は同じだし歳の割に若々しくもあるのだが、それでもN子は水気の失せた中年の女だ。閉経を待つ女。
Kさんも変わらないわとN子は言った。そんなはずはない。N子は記憶を見ているのだろう。そんな会話が途切れた時、僕から誘った。時間があるならお茶でも飲んで行きますか? 今晩暇なんだけど。そう言って「今晩」という言葉にバツの悪い思いがした。N子はええもちろんと嬉しそうに答えた。中年になると女も男もどうして恥ずかしげもなく嬉しそうな表情を出すのだろう。
食事をした。インド料理。美味しいとN子は学生のような声を上げた。あの時僕はこの子をくどいたのだけど結局だめだった。理由は忘れたが、その明るさに萎えたのではなかったか。明るくて幸せそうな女の子に惹かれなかった。だが年月は女を不幸にする。
食事が終わり渋谷駅の雑踏で別れようとする時、その気配を察したかのようにN子は子供のように僕に抱きついた。僕は彼女の頭を抱き、そこに僕の頭を寄せた。しばらくじっとしていた。知り合いに見られても奥さんと仲良いですねくらいにしか思われないだろう。N子は泣いているかもしれない。両手で耳脇を掴んだまま頭を離し彼女の顔を見た。皺を深めながら微笑んでいた。飲んでく?と聞くと彼女は黙って少女のように頷いた。
少し飲み、それからホテルに入った。若者で混み出すラブホテルは避けた。部屋に入ると彼女はすっと部屋を薄明かりにしてシャワーを浴びに行った。いつもそうするかのように。
裸のN子は痩せていた。乳房は枯れて乳首だけが掌に縄の結び目のように触れた。擦るように転がし回すとN子は呻いた。首から耳へ、公園に放たれた犬のようにキスした。絡みつくN子を離し、腋から臍の回りを舐め進め、下腹に盲腸の跡のような傷を見つけて舌と止めた。N子はそれを察知したように身体を震わせた。秘所へは大腿から舐め上げた。N子は脚を開こうとしたが、僕はその両脚を腕で抱いて束ね、ぴったりと閉じさせた。そのまま恥毛に隠れた淵に舌を差し込み性器の割れ目の先に潜むクリトリスを探り始めた。N子は恥丘を突き出すように弓なりになった。