はてなキーワード: メンテナンスとは
ツマラナイから読み飛ばしてくれても構わない。
いや、行なっているといっても別にプログラムが組めるわけでもネットワーク設計ができる訳でもない。
かと言って仕事に不満はない。
むしろ自分ではもっと勉強したいと思っている。
ところが、その大会社(クライアント)で自分についている担当者が問題なのだ。
ここへ来て3年になるが、入った当初、サーバなんて触った事もないのにサーバ管理を任された。
サーバ(Linux)をTeraTermで遠隔操作してファイル等を更新したりメールサーバにアカウントやドメインを追加する仕事だ。
WindowsやMacのGUIは、触った事があったがUNIXなんてのは聴いていない。CUIを見るなんてDOSV以来だろうか。
来て早々、Sendmailのシェルスクリプトを操作してテーブルにメールアカウントを追加して欲しいと言われた。「ええ、できませんよー」と新入社員なら断れただろうが、そうもできず引き受けてしまった。
操作を一人であれこれしていると、結局、どこをどう操作間違ったのかメールアカウントを登録したデータベースを削除してしまった。勿論、サーバは一斉にストップ。復旧の願いをかけてサーバを再起動させるが、サーバが古かったのか再起動しなくなってしまった。
一斉に鳴るクレームの電話・・・・・。謝罪する上層部。慌てる担当者。
結局、サーバレンタルをしていた別会社の技術者に電話で泣く泣く話を聞きながら、ハード交換とソフト操作で復旧させた。
それ以来、その担当者は俺ににこやかに会話を
しなくなった。
他の人と話すのは、にこやかに優しく話しているのに俺と話す時は声のトーンが一段低くなって口調が厳しくなる。入社当社は笑いもしてたのにそれもなくなった。この3年ずっとだ。
そりゃ、始末書も書いた、仕事でもできるだけミスをしないよう、サーバの勉強もしたし、Webサイトの構築まで勉強した。何においても慎重に自分なりに重ねてきたはずだ。常に汚名返上、名誉挽回を考えてきた。
でも、いつも冷ややかな対応しかとってくれない。
いやね、もうその対応に耐えられんのよ。
意志は何故屈してしまうのだろうか。辛くて大変だから。他のやり方があるから。他に出来ることがあるし。今日は帰って寝よう。
意志が先に屈しないと、意志を運ぶ器である身体が壊れますからね。
ゆっくりおやすみ下さい……というわけにもいかない方も多いでしょうから、「適当に」。
インプットされた命令に対し、痛みもけだるさもつまらなさも退屈さも感じない・欲求で勝手に動くこともない・睡眠も痛みも影響しない・怯まない・限界までやり遂げる・面倒くさがらない。さらには、動力を無駄に食わない・丈夫で簡単には壊れない・メンテナンスのコストが低い・代替できる。DARPA(米国防総省の高等研究計画局。インターネットの原型の生みの親でもある)に求められているものの1つは、そのような兵士を作り出すことだろう。その方法は脳に埋め込まれた電極かもしれないし、化学物質の投与かもしれないし、サイバネティクスかもしれない。
いずれにせよ、いつかその種の研究が民生品に降りてきた時、一般人にもその「選択肢」が与えられる可能性がある。町医者にかかる気軽さで。インターネットだってそうだった。
その時、どのような「自分」を選択する?
「決定権はあなたにあります。どうなさいます?」
今さらだが、録画してたNHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」を見た。
人工眼の人は初めて見た。なんでこんなゴツい装置なんだ?と思ってたら理由も語られた。検索してみたらこちらに詳しかった。→sci.gr.jp/project/nhksp/text_3.php あの故障はなんとかメンテナンスできないものなのか。多少使い勝手の悪い道具でも、まもなく脳の方が適応して体の一部のように動かせるのは、ゲーマーには実感があるんじゃないか。それと瑣末だが、ロボット義手の研究室で、装置の端にメモクリップがついてて、ホテルの備品みたいな小さな櫛を差してあるのが面白かった。細い配線が絡まないように櫛の歯の間にはさんである。うまいこと思いつくなー。
個人的には、体も脳も一種の精密機械であるという事実に抵抗はない。脳内の化学物質のバランスで物の見方や感情の起伏が周期的に変わっちゃうという状況は女性には日常だろう(人によって程度の差はありましょうが)。そういったしくみが、生得的か、人工的にコントロールできるか、の違いだろうと思う。
問題は、目指すべき「適正」「標準」を何をもって選択・決定するか、だろうか。
録画を見ながら、整形美人を連想していた。整形した人を見ると、いつごろ手術した人なのかが察せられることがある。その当時に流行した女優に似ているところがあるからだ。より良い幸福な自分になれるなら問題ない。しかし、個人や社会が要請した「正しさ」が、数年後にも正しいと感じられるかどうかは、本人にもわからない。「選択肢がある」とはそういうことだろうと思う。