はてなキーワード: クソ喰らえとは
お医者さんは患者を治療して報酬を得るし、魚屋さんは魚を売って対価を得るわけです。
対価を払う、という行為が仕事に対置される行為なわけですね。
そういう風にして社会は廻ってます。
そこに「対価を払って利用はするが働くという行為はめんどくさいが邪悪だ」と言う人がいたところで
別段問題ないんでないですかね。払ってんだから。
社会参加の中で兌換されるものは感謝ではなくお金ですよ。なんか、すっごく勘違いしてません?
それとも「仕事人」とやらは「わたしの行為に感謝しろ、尊いと思え、わたしの仕事を尊ぶべきものと扱え!」と
胸のうちでつぶやきながら、対価以上の何かを求めて仕事してんですかね。
怖いなぁ、仕事人。特に医者なんか最悪だ、ぶちぎれたら怖いぞそういう人。メスぶっさされそう。
まぁ、ニートさんはお金が続かなくなって人との縁も切れたら死ぬんでしょうけども。
なんていうか、「労働を尊いと思うことが社会システム利用の条件だ!」みたいな
なんかどこかで何かをとんでもなく取り違えた価値観を持ってる人って、きもちわるいなぁ。
感謝なんかなくてもお金があればいいんですよ、その逆は許されませんけど。馬鹿じゃなかろうか。
お金で統制されてる社会をそのなんかきもちわるい思想で統制しなくてもいいっすよ。
ちなみに、金融業に勤めるわたしにとって
世界のあらゆる金融業は、クソ喰らえでウンコ同然で邪悪で人殺しでクソ蟲のたまり場です。
でも、カネを得るために仕事してますよはい。仕事なんて邪悪でクソ、そういう価値観で何が悪いのかと。
「仕事人」なんざ所詮、賃金を貰ってメシ食うために働いてるだけのモンです。そこに感謝を要求するとか、どんだけと。
おまえや俺がいなくても社会が回る分際で、なに吹き上がってんだよ。
>ひはん 0 【批判】
>(1)物事の可否に検討を加え、評価判定すること。
>「学説―」「―を仰ぐ」
>(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
1.当然あることとして
創作物を公表すれば批判はあるものである。その際の定型的な文句としては「批判されるのが嫌なら公開するな」と言う言論。これは正当であるし、創作側は批判を覚悟しておくべきだと私は考える。しかし、それは批判をすることの良し悪しとは関係がない。「鍵を締めていなければ泥棒に入られる」「裸の女が歩いていればモラルなんて吹っ飛ぶ」「無防備国家は侵略される」、これは当然起こりうることとして考えなくてはいけないが、泥棒もレイプも良いことではない、当たり前だが私が考えるには悪いことだ。鍵を開けて外に出る家主は泥棒を覚悟すべきだが、泥棒は鍵を開いていることを理由に盗みを働いて良い理由には成らない。同じように創作物を公開すれば批判されるのは当然あることとして創作者は覚悟すべきだが、だからといって批判して良いという物ではないのではないか。
2.批判という手法
創作行為に対して批判をする理由は幾つもある、個人個人で様々であり一概に藻言えない、その中で創作者への好意的な理由として用いられると私が考えるのが「改善させるため」と言う物がある。確かに欠点は指摘されなければ気付かない事もあり、またその指摘が強い物であればより強く受け取ると言える。しかし、改善させるためならば、リクエストとアドバイスという方法もある。「こういう風な方が好きだ」「こうなったら面白そう」そう伝えることにより創作者に道行を示すことも出来る、また「こうした方が良いのではないか」「ここをこうするというやり方もある」そういった提案をすることによって改善を促すことも出来る。これは、どの手法が良いという物ではなく、様々な手法とそのメリットデメリット、中でどの手法を選び、その必要性と優位性。それを考えることが出来るということだ。
3.対人問題と芸術への問題
創作物への批判の良し悪しを考えるときに2つに分けて考える必要があると私は考える。言う相手との人と人と付き合いとして批判することの良し悪しと、批判が創作活動に対して及ぼす良し悪しだ。
対人問題として良し悪しを考えるときに、やはり相手の嫌なことを故意的に行うことを良いとは私は判断しづらい。相手にもよるが、殴られたってマゾヒスト以外喜ばないし、マゾヒストだって誰から殴られたって良い物でもなく、叱られるのであっても親から教師から友人から間柄があってこそ感謝が出来る。無遠慮に見ず知らずの人が乗り込んで嫌なことをしても良くはないと私は感じる。誰にでも良い物ではなく、相手を良く知った上でその人その人に合わせて批判と言う手法が適切であるか考えなくてはいけないのではないか。批判という手法は基本的には良くないと個人的には考える。
創作活動に批判が良い影響を与えるか悪い影響を与えるか。メリットと言えば、よりよき物が生み出される可能性や創作者の欠点が改善される可能性。デメリットで言えば、創作者の意欲が落ちる可能性や創作活動をやめてしまう可能性。メリットに奮起してやる気が上がる可能性もあるが、もちろんデメリットに間違った方向に進んでいく可能性があるが、そういうものは希な物として私は考えている。さて問題なのは創作活動が落ち込むほどに指摘することが、そのデメリットを覆す程にメリットがあるかどうかだ。上に記したように、アドバイスやリクエストという手段がある。より活動を落とさない手法があるのに、批判という手法をとるメリットは無いように私は感じる。
もちろん、受取手は創作物に感想を持つことは当然の権利であり、またその感想を口に出すことにも権利がある。そして、その口に出す感想をどこまでも発信する権利が創作者がそうしたようにある。しかし良し悪しとはまた別にあり、その中で考えなくてはいけないのは口に出す感想をどこまで伝えるのかという問題だ。まず受けて独り言を出すのに何も問題はなく悪いはずがない。次に仲間内で話す、ここで問題になるのは仲間の中に好意的な感想を持っている人を嫌な気持ちにさせる可能性がある、それを意識的に行って良いかどうかは、その仲間内の人と人との関係である。さて創作者に向かって伝える、ネットや出版社が間に入ってることもあるが、例えば目の前に作者が居て「お前の作品は駄目だ」と伝える、蹴っても良いよね。軽く軽く。次に、公に向かって発信する、これは創作物であり、他人を公然とあげつらって良いとは私は言えない。
個人でならともかくとして、他人が関わってくる時には行為が他人に与える力を考えなくてはいけない。嫌な気持ちにさせることを何の状況判断もなしに行うのは浅慮と言える。権利を有していても、その行為をすることが悪いことはあり、行為は時と場所を考えて行わなくてはいけない。
5.出来ることと出来ないことの間に
ネットではとにかくとして、出来ることと出来ないことが判断の基準になっていることを私は多く見る、その次に法律と各々のサイトのルール。「出来るんだからやらせろよ」「やらせたくないなら出来ないようにしろよ」「法律にないじゃん」。語調は私が書きやすい語調であり他意はない。単純に言えば「ウェッブルールもクソ喰らえ」「無断リンク禁止」問題か。可能不可能で言えば、プリントアウトしても無断でリンクしても問題はない。しかし相手を嫌がらせていることが消えるわけでもなく、嫌がっていることを故意的に行う人間性を良いとは個人的には言えない。悪し様に文句を言ったウェッブの人も無断リンクの人達も問題はある。
パソコン通信からインターネットになり、企業や国の公的なサイトと個人サイトやブログがある。個人対個人であり、公人でなく私人であることが最近は特に多くなってきた。インターネットに存在する物は全て公的な存在として考えるべきかどうかは社会学者に任せるとして、個人対個人の場合というのはやはり人付き合いなのだと私は考える。
ネチケットやネットマナーというは基本的に気持ちが悪く一笑に付される存在である。技術も変わり環境もたえず変わりネットには新しい人が絶えず足を踏み込み、共通の感覚というのが未だ成熟していない。自分と相手の間に、どこまで足を踏み込んで良い物なのかおっかなびっくりである。直接出会う人ならばどうするかといえば試行錯誤をしながら足を踏み入れていくところだ。さて創作者とはどうか。ネットにより、以前より際だって創作者と受取手が直接交流することになった。しかし、ニコニコ動画やぴくしぶは、それまでの出版社やプロダクションなどに属していた状況と違い、より個人対個人の交流に成ってきた。それはテレビの前でぶつくさ言ったり、手紙を出すのとは違い、モニターと言うテーブルを挟んだ座談会だ。それを今までと同じように感想を述べて良いか、これは先ほど書いたように時と場合が違うことを思い出さなくてはいけない。ネットマナーやネチケットは分からないが、人と人との付き合い方ぐらいは分かっているものではないのだろうか。
6.駄サイクル(ださいくる)
漫画家、石黒正数先生の作品より。身内で、作る→褒められる→見る→褒める→作る→褒められる、を繰り返すださい駄目なサイクルの事である。これを見るに、批判は必要なように思えてくるが、駄サイクルの問題は閉じた世界で満足していることであり、開いた世界で褒められるならばそれは傑作である。そして無理に批判をしなくても褒めないという手もある。
7.個人的な結論として
創作して公表すれば批判されるものだ。創作者は、それを排除してはいけない。しかしそれは創作者の態度である。受け手の態度はまた別である。創作物を受けたときに批判という手法は良いのかどうなのか。私は積極的にはとるべき態度ではないと考える。さて、しかし、上で記したアドバイスと批判というのは実は曖昧な物である。アドバイスと思っても創作者は不快に思うかも知れないし、どこからどこまでが批判とも言えない。そこで重要なのは受取手の感情で、嫌がらせる目的でやらないことなのだろう。
そして、批判をする側が「制作者はかくあるべき」と言うことを言い訳にしないこと。その言い訳は自身の行為を正当とはしない。ただ独り自身の行為として良し悪しを自身の倫理で考えるべきであるとして、私の考えを締める。
他の増田は「本人の意思だけを主張して結婚しようとするのがお子ちゃま」とお叱りいただいてるんだけど、これは確かにそうかもしれないとも思う。
個人的には、それが子供なのか大人なのかということで片付けるのは避けたいと思ってる。
別に元益田は”お子ちゃま”で構わないし、そういう生き方をする自由は当然ある。
その自由な生き方の中で結婚という社会的な結びつきを求めることも悪いことだなんて、まるで思わない。
でも、俺としては「本人の意思以外が介在した結婚なんてクソ喰らえ」ってのが本気のところで、もし、それ以外の何かが介在してくるなら結婚なんて願い下げ、
それが出来そうだからこの選択肢に至ったんだ、ってのが正直なところ。
「楽をする」ではなく、自分(と彼女)の意思だけを主張して出来ないことなんかハナっからやる必要がないっていうのが俺の考え方なんだよね。そういう意味で、俺は字面上の「結婚」には対して意欲がないのかもしれない。
言ってることは分かるし、そういう元増田の生き方は嫌いじゃないよ。
ただ、結婚ってそういうもんなの?って話にどうしてもなる。
もしもね、結婚が本人の意思以外が介在しないものであるならば、彼女の父親に会いに行っている時点で元増田は矛盾してると思う。
元増田の話からいけば、会いにいく前に彼女を説き伏せて、婚約届けを出すのが筋だろう。
会いにいってる時点で、”それ以外の何かが介在”することを認めてる訳だ。
個人的な見解だが、結婚は”それ以外の何かが介在”なしには出来ないものだ。
神であり、親であり、友人であり、法であり、それらを介して、社会的に二人の関係を認めさせるものだ。
本当は自己解決してるんだろ?
”字面上の「結婚」には対して意欲がないのかもしれない”
”本当は結婚とかしたくないんです。でも、悪いんで、責任はとるって事でいいですか?”
やっぱり、殴るね。確実に殴る。
そう言われてみるとそうなのか、って気もするけど全然実感が伴わない。
むしろ、個人として選ぶのは当たり前だろうくらいに思ってた。
他の増田は「本人の意思だけを主張して結婚しようとするのがお子ちゃま」
とお叱りいただいてるんだけど、これは確かにそうかもしれないとも思う。
でも、俺としては「本人の意思以外が介在した結婚なんてクソ喰らえ」ってのが本気のところで、
もし、それ以外の何かが介在してくるなら結婚なんて願い下げ、
それが出来そうだからこの選択肢に至ったんだ、ってのが正直なところ。
「楽をする」ではなく、自分(と彼女)の意思だけを主張して出来ないことなんかハナっからやる必要がない
っていうのが俺の考え方なんだよね。そういう意味で、俺は字面上の「結婚」には対して意欲がないのかもしれない。
かなり厳しいコメントにも、言ってることはある程度理解が及んできてるとは思う。
ただ、致命的に実感が伴わない。納得は行くんだけど。
唐突に世の中の心理みたいのが見えかけたので書いてみる。
先日、ホリエモンの事件が若者に与えた影響みたいのをテレビで見た。
専門家曰く
「彼は若い人でもやれば頑張れば成功出来るっていう幻想を自分で壊してしまったよね」
みたいなことを言っていたけど、これは逆だと思う。
まだ裁判が終わっていない段階でこういうのは何だが、
「ズルをしないと成功なんて出来ない」というのを、俺は証明してくれたと思っている。
だって、おかしいとは思わないか?特に俺と同い年(27)くらいの若い奴ら
昔からこんな誠実さだの何だの言われてきた時代があったか?
いや、それは俺らがまだガキで世の中は一応そういう体系こそあったのかもしれないけど、
なんか妙に五月蝿くなってる気がするんだよな。
何かあると自分の事を棚に挙げて「あなたには誠実さがない」だのって、
マスコミの報道にしたって報道被害そのものが黒になっているようなもんで
何も確定してないけど、ネットを使ってあっという間に調べられるようなことを、
申し訳程度に隠して報道して、彼らは報道と取材の自由を掲げて今日も
ありもしない事を徒然と述べている訳だ。
自分に不利なことがあると直ぐに相手方の「不誠実」を捕まえて叩こうとする。
こんな雁字搦めにされて何が出来る?
ちょっと脱線したな。
でも多分さ、俺が思うに、コンプライアンスってのは今金持ちになった奴が
働くようになって数年しか経ってないけど、それがよくわかる。
狡賢い奴は確かに成績上げるのうまいし、俺はそんなに上手くないけど、
それでも違法スレスレとか脱法的にやればって手段はいくつか知ってる。
中にはもちろん違法のものもあるけど、多分わかんないだろうってのも。
だからさ、何にも知らない主婦って言い方は差別になるかもしれんけど、
まあマスコミに踊らされる単純思考な奴、セミナーとかに通う奴もそうかな?
今の経営者がちゃんとしてきたから成功したって思わされてるし、
まーこういう書き方すると俺もヤバイ宗教の勧誘みたいだけどさ。
良心だのプライドだのそんなもので押さえ込んだって、何にもならん。
得られるのは自己満足だけだ。
だからさ、若い奴だけじゃないけど、若ければ若い奴ほど
世の中の本当のルールに気付いて欲しいなって思って、書いてみた。
まともに真面目に誠実に
だけど、建前が必要なんだ成功者たちっていうのは、
自分が成功した本当は汚い部分を知られない為にね。
逆にそういうのを暴きたかったら警察とか検察とかになればいいんだけど、
ま、そこでも矛盾と言うかそういうのがあるんだろうなw
一人を救うために100人見殺しにするとか、そういう感覚。
ホント、世の中矛盾だらけだな。
けど大人になるってのはきっとそういう泥の中で呼吸できるようになっていくこと
なのかもしれないって最近思ってる。
人間は生まれてくるときだっけ
そういう形を経て人間になるらしいけど、
泥の中で呼吸できるエラが必要ってことになると、
だんだん魚とかの方に戻ってんのかもなーなんて、ことも思ってみたわ。
さっきマックまで例のクオーターパウンダーを買いに行って帰ってくる途中で考えたことを、メモしておく。
日銀が頑なに量的緩和やりたくないリフレなんかクソ喰らえって言うんなら政府紙幣発行すれば良いじゃん、って話があって、当増田は基本的にリフレ汁派なのでその考え方自体には同意するけど、ただ、技術論としては、本当に紙幣を発行しても、法定通用力なんかあんまり関係なくて、ATMも通らない、自販機でも使えませんって理由から全然流通力がなく、したがって通貨として全然回転しないまま、たちまち銀行に吸い上げられて、そのまま日銀の倉庫で文字通りお蔵入り、その後は単に預金通貨の裏付けとしてだけ意味がある、っていうことになるのは目に見えてる。だったら、紙幣なんか最初から発行しないで、日銀に政府名義の特別な当座預金口座を設けさせ、そこに強制的に何兆円だかの入金記帳させちゃうという法律を作れば済む話じゃないだろうか。まあ、それだと日銀の独立性を余りにもあからさまに損ねるんで、政治的には無理なんだろうけど、どうせ同じ結果になるんだから、いちいち紙幣を印刷するのは無駄だよね。
と思ったんだけど、そうか、最初から1兆円券とかにして、いきなり日銀当預に預けちゃえば良いのか。
http://anond.hatelabo.jp/20070121223533
>恋愛に関してやたら理論的に分析するのとか、不毛じゃないんでしょうか?
分析すること自体が楽しい・興味深い。その先に必ずしも何かを求めているわけではない。
例えば歴史。国の歴史を知った所で、政治家にでもならないのなら生かしようはない。ましてや古生代の生物史なんかになれば、アノマロカリスの想像図を知った所で何の役に立つ、ってなもんである。だが、それを知ることを楽しいと思うひとは少なからずいる。恐らく知的好奇心というものだろう。
歴史はそれでも(確定できないとはいえ)「真実」は存在するだろう、と言うのであれば、心理学の類でも良い。実用性が無かろうが、確定真実が存在しなかろうが、そもそも分析結果が一定でなかろうが、分析して理論を捏ね繰り回すことが楽しい、それを見聞きするのが楽しい、という人間は少なくない。
そんな楽しさに加えて、「納得」「安心」を得られるかもしれない。
恋愛は不可解だ。不可解だから落ち着かない。落ち着かないから分析する。分析すれば納得できる。納得したら安心する。素晴らしい。
> 「それは、辛いでしょうね。人を好きになれるなら、いつかいい相手に出会うさ。」的な、なんというか、多分、はてななんかではこういう意見は叩く対象になるのだろうけれども、でも、実生活では至極真っ当な言葉
鳩ダの書き込みに対してそういう言葉を言う誘因がない。
つまり、上のような励ましを言い、相手を元気にしたところで、言った方はあまり楽しくないのだ。
金にもならない状況で何で人を励ますかというと、多分「相手が喜んだら自分も嬉しい」「(発言の結果はどうあれ)励ましの言葉という『善い言葉』を言う自分が好ましい」の二つがある。
もしも元記事主が知り合いであったなら、知り合いが元気を取り戻すのは嬉しいから、励ましただろう。これは実生活やSNSでよくある。
もしも元記事主と他鳩ダ参加者との間に連帯感があったなら、仲間が元気を取り戻すのは嬉しいから、励ましただろう。2chのスレ内・板内なんかではそういう空気が出来ていることが多いが、鳩ダはそういう仲間意識クソ喰らえっぽい。
もしも元記事主が全トラバにレスする宣言とかしてれば、元記事主とトラバ主に連帯感が生まれたり、励ましの言葉の影響が分かったりするので励ましもあったろう。
しかしどれも無かった。
なので励ましの言葉を言う誘因は「優しい言葉をかける私ってステキ」というのしかない。それは、感情論あっちいけなはてなの空気に対して、あまりに小さかった。
なので分析っぽい記事が増える。