はてなキーワード: エゴイズムとは
おつかれさま、増田。
たまにはやすみたいよね。一日でもいい、がんばってるね、たまにはゆっくりしなよって頭をなでて、そっと眠らせてくれたらいい。
身近な人にこぼしたら、それは「あまやかしてくれ」「がんばってるって認めてくれ」ってそれこそただのエゴイズム。自己満足。無言の強要。
そうじゃないんだ。自分でそんなことはわかってるんだ。
でも、やりきれないもやもやは、どこかでこぼさなければ自分から毒になってあふれてしまう。自分が壊れてしまう。
だからそっと、増田。
働くってことは「もっと、もっと」を求められることで、試験みたいなゴールなんかなくて、それはアタリマエのことだからこそ、みんな言わずに見ないふりしているだけで。
でもときどき、すこしだけ、気を張った自分をゆるめたいと思たっていいじゃないか。
おつかれさま、増田。
僕が嫌いな日本語のひとつは、「空気が読めない」。空気が読めなくて何が悪いのか、理解できないから。なぜか。
たとえば京都のぶぶ漬けの話はただのネタだ。でもあれは、ぶぶ漬けが出てきたら、そろそろ失礼しますと言って帰らなきゃならない。そういう約束事がはっきりしている。この約束事の集まりが、文化であったり文明であったりする。ぶぶ漬けにまつわる決まり事約束事を知らない人は、京都の人間ではなく、「空気が読めない」非文化的非文明的な野蛮なイナカモノというわけだ。
この約束事の集まりは、都市により社会により集団により違う。それぞれの集団の構成員にとって明白な約束事はあるだろう。それに従わないものは空気が読めないのだろうし、そういう場面は日本に限らずどこにでもある。
他方で、今普通に使っている言葉としてのこの「空気が読めない」といったときの「空気」って、本当に約束事としてはっきりしたものを前提としてるんだろうか。それがよく分からない。
ようはその場その場の雰囲気や人間関係やといったものの総体を読むことが「空気を読む」ということだと思う。でも、その場合に目に見えない、はっきりしないもろもろの「総体」は、当たり前だが時と場によって変わるので、たとえ同じ場所同じ街同じ人の集まりでも、一定しない。つまり空気とは一定のものではなく、常に揺れ動く。だから決まり事約束事がそう明白なわけではない。「空気読め」と言ったとき、不明確で不定なものの何を読めと言ってるんだろう。
空気読めと言うのは、読めと言っている人が考える「空気」を他の人も共有しているように思われて、にもかかわらずこの「空気」を共有しない人間がいる場合だ。見方を変えると、単に「空気」を共有しない者を排除しようとする、あるいは強制的に空気を読むことを押し付けようとしているだけではないか。
ではなんでわざわざこんな回りくどいことをするんだろうか。分からない人がいるなら、教えてやればいい。いや、そう単純にいかないのが人間関係の難しさで直接に言いにくい、というところだろう。だから、明確な言葉にせず、かといって言葉と言外の約束事もはっきりさせず、その場その場の「空気」が尊重されることになるし、その場を支配し最優先され、空気を読めないものはいらないという話になる。
言いたいのは、これってただのコミュニケーション不全でしょうと。
自分が言いたいことを抑圧して、その名目に人間関係を大事にしたいからといって直接的な表現は避けて、ただ「空気が読めないヤツだ」という。で、何が何かよく分からない「空気」に従属させるか、集団から排除する。人間関係を大事にしたいという一見優しさめいた配慮は、本当は意思疎通の努力を欠いたただのエゴイズムでしかない。
人間は、自分の気持ちや考えるために、たとえ伝わらなくても分かってもらえなくても、そこで絶望的な努力をする生き物だ。ただのコミュニケーション不全を空気読めと言いかえてごまかして、それで本当に人間なのか。人間ならば、空気を読まないことも必要なのに。
とはいうけれど、こういうわけの分からない「空気」が尊重される場面があるのは、別に日本だけでないと思う。でも、日本の場合、ちょっと極端すぎやしないか。調子に乗って新聞までこの言葉を使って「KY総理」だのなんだの書いたこともあったけど、それってどういう意味か、本当に考えたことがあるのだろうか。なにも流行り言葉みたいになることはないのだ。
何が「エゴイズム」だよwグダグダ言ってる暇があったらそのキモいナリを何とかしろよw
心をつかんだきっかけなんて「可愛い」か「かっこいい」しかねーよ。見た目や内面でな。
彼女がいる人に質問です。 彼女が欲しいです。 彼女が欲しいが、作れない人が 足りないことは何でしょうか。 具体的、現実的に詳しくお願いします。 その回答を参考にすれ.. - 人力検索はてな
このエントリが全く役に立たない解答で埋め尽くされているのは言わずもがな、という感じ。「清潔感」だの「押し」だの、そういう基本的なことは腐るほど聞いて聞き飽きてるのが正直なところ。
本当に知りたいのは、その質問に解答している人達の「エゴイズム」なんだってば。
常識的な解答じゃなくて、もっと偏った「今この人を選んでいるのは自分のこういう弱い点を突かれて、それに依存してる。」だのなんだのっていう、そういう「人の心を掴んだきっかけはなんだったのか」って事を知りたい。
資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。
はてなで話題のコレ↑に関連して…
Q1:「あなた1人の臓器を活用すれば、2人以上の人間が助かるとします。この場合、貴方は喜んで死にますか?」
Q2:(Q1への答えが「No」であると想定して)「そうですか。それじゃあ貴方は自分が受容できない規範を他人に受容しろと言っている訳ですね。でもそれってエゴイズムそのものじゃないですか???」
※上記議論が完全無欠だと言っている訳ではないですよ。
エゴイズム、あたりに位置するんじゃないかな。
若かったけれど、無茶が出来るほど若くはなかった。
例えばお互いが同じ学校の学生だったら、もっと違ったのかもしれない。
相手が自分を異性として気に入ってくれているのは知っていた。
けれどそれには応えられなかった。いや、応えるのを避けた。
避けなければ友人関係が壊れる、自分と相手、友人関係という対等の立場でいたいという自分のエゴイズムの結果だった。
けれどそうするしかなかった。自分独りでは耐えきれない事や耐え難い事が起きたときも、相手の気持ちを知っていながら自分の相談をするだけだった。優しすぎた。自分には優しすぎた。近づけば衝突をするのはもうわかっていた。
突っぱねるでもなく、近寄りもしない。ただそうしてお互い年を重ねた。けれどそれでよかったのだと思うことしか、出来ないままでいる。
もう一昔前の話だ。
僕はテレビを見ない人間だ。ブラウン管テレビはホコリ置き場になっていた。邪魔なので捨てたら、一人きりの年越しはとっても寂しかった。TVも人間もいない年越しは寂しい、というか虚しい。孤独で死にそうだった僕は、ラジオで紅白を聴いていた。
ラジオで聴く紅白は、ラジオで聴くワールドカップサッカーと同じくらいわけがわからなかった。何が起こってるのかさっぱりわからない。野球と競馬ならわかるけど。それで、『犬神家の一族』を文庫本で読みながら聴いていたら、DJ OZMAという名前がコールされた。
このDJ OZMA、僕が先日「何その人? 芸人?」と知人に言ったら散々馬鹿にされた(m9(^Д^)プギャー)、少々恨みがましい存在だった。初めて
耳にした時は、DJ あづま(納豆メーカー)の聞き間違いだと思ったくらいだ。その知人は、DJ OZMAを知らない僕を馬鹿にはしたけれど、結局DJ OZMAの何たるかは教えてくれなかった。二重の意味で気になってしまい、僕は佐清の手型の鑑定結果が出たところで本を置き、ラジオに耳を傾けた。
きっとほとんどの人がそうだろうと思うけど、あれを曲だけ聴いたって何が何だかわかるわけがない。まして僕だ。ラジオのアナウンサーが「OZMAさん、服を脱ぎ始めました」とか解説してたけど、僕はどうでもよくなって、また『犬神家の一族』を読み始めた。僕の耳は騒音をスルーしていた。サブちゃんが出ていたことより、犬神家の秘密の方が興味をそそられた。
その後、アンジェラ・アキをスルーしてさだまさしに感涙する僕は、年のわりに耳が古いのかもしれない。今井美樹もよかった。その次の徳永英明の『壊れかけのRadio』の素晴らしさといったら! 今思い出しても、つい「レディオ」につられてRedioとミスタイプしてしまうくらい感動した。でも(壊れかける気配の無い)ラジオで聴いていた時は、感動の余韻もくそも無かった。曲が終わったすぐ後に、NHKのアナウンサーの謝罪コメントが入ったからだ。
コメントが読まれる際、会場からは二度も笑いが起こった。だから僕は、ちょっと下品な演出があって、PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応してヒステリックなクレームを押し付けてきたのかなと思った。まあ紅白だし、ちょっとやんちゃが過ぎたのかと。それ以上にどうでもよかった。だって紅白だし。聴いといてアレだけど、興味無いし。
それからしばらくして、DJ OZMAのパフォーマンスが問題になっているってネット(はてブ)で知った時は、正月からはてブをやっている虚しさを吹っ飛ばすくらい、驚いたものだった。腐っても鯛、視聴率低迷が言われている紅白と言えど、まだまだ世間への影響力は侮れないものだと思った。その批判内容(はてブコメント)を見たら、僕がイメージしていた「PTAのオバサンみたいな神経質な視聴者様方が過剰反応したヒステリックなクレーム」まんまで、さっきよりも驚いた。ネット上には良識派を気取って重箱の隅を突っつき回したがるナルシズムエゴイズム溢れる人々が意外に多いのは知っていたけど、それにしてもなあと思った。そこで、僕自身がまだかの映像を見ていないことに気がついた。だめじゃん。
で、Youtubeを見た。読みかけの『犬神家の一族』は、湖面から逆さまに人の足が突き出ている、かの有名なシーンにさしかかっていた。
まず感じたのは、戸惑いだった。僕はものすごく戸惑った。どう反応したらいいのかわからなかった。ああいう騒々しいモノに対して、僕はパターン化された理解を持たなかった。テレビを見ていないと最近の娯楽についていけないのか、テレビ買おうかなとすら思った。その戸惑いをよくよく分析してみると、僕は不快だった。美しくない眉を顰めていた。そう、悲しいことに、僕自身もクレーマーと同類だった。僕はDJ OZMAを見ていて、どうしようもなく不快だったのだ。画質の悪さでおっぱいが本物らしく見えるくせに、その実本物でないのも腹立たしかった。
しかし僕は、クレーマーたちと自分を差別化しなければならない。そうでなければ、頭がおかしくなりそうだ。いや、もうおかしいのかもしれない。
もう一度、DJ OZMAのパフォーマンスを眺める。そして、何故彼がこのような馬鹿げた、下品なパフォーマンスをするのか、しばし考えてみた。
そうだ、アホの坂田がアホでも何でもないように、DJ OZMAもきっと、真実に馬鹿げた人間ではないのだ。彼はきっと、僕よりもずっと高いところに立って、釣られクマーな僕をあざ笑っているに違いない。
その時僕は、どうしようもない屈辱感に襲われた。DJ OZMA、彼に何らかの反応を示した時点で、僕は彼に負けたのだ。彼はきっと僕の、このような反応を全て了解済みだったのだ。「下品だ」「紅白にふさわしくない」という反応も彼の想定内であれば、「DJ OZMAはお前らの反応も織り込み済みなんだよ」「ナンセンスだ」というメタぶった反応すらも想定の範囲内に収めていたのだ! 僕がどう考えようとどう反応しようと、僕はただDJ OZMAの掌の上で踊る哀れな猿にすぎないのだ。一連の事実が彼を中心に回っている以上、どうメタ分析を試みようが上から物言おうとしようが、僕は、いや僕らは、彼を超えることなどできないのだ。騒ぎの渦を一つの世界と看做すならば、彼は神だ。唯一絶対の神だ。愚かな人間どもを哂う神だ。いっそどんな形でもいい、彼に心囚われてしまったことが(または正月からこんなことで騒いでいることが)すなわち、僕らの負けであり、彼の哂いなのだ。
僕の心は虚脱感に包まれた。もう、全てがどうでもいいのだ。僕の正月は暇だった。このテキストの記号的意味でなく、存在的意味が、悲しい事実を何よりも雄弁に物語っているではないか。傍若無人。かたはらにひとなきがごとし。如しじゃなくて本当に誰もいない正月を、僕はDJ OZMAに哂われて終えることにしよう。テレビはやっぱり買わない。